第16話 過去と今と
彼の心の傷に触れたわけではなかったと美乃梨が胸を撫でおろしていると、桜真が続ける。視線は、桜に戻っていた。
「しかし、桜に関わる何かであったのは確かであろうな。桜を見ていると心が落ち着くのだ」
そう告げる彼の表情は本当に安らかだ。美乃梨は手をつないだまま、彼の方に一歩寄る。それから神社の庭を思い浮かべた。庭に桜を植えてみようか、と思ってのことだった。
桜の苗を買うならまた『紅玉』へ行く必要がある、と彼女は考えて、一つ思いだした。
「そういえばさ、明葉さんが良い匂いするって言ってたよね。あれって農耕の神関係の稀血だからでしょ?」
「おそらくな」
これまでも美味しそうという反応はあったが、良い匂いという表現は初めてだった。
「じゃあさ、桜真も私のこと良い匂いって思ってるの?」
彼女も、自分の顔が悪戯っぽく歪んだのは自覚していた。桜真は案の定気恥ずかし気に視線を背けて言い淀む。
「……黙秘する」
「思ってるんだ」
「うっ……、まあ、そう、だな」
ふぅん、と美乃梨はニヤつく。それから桜真の手を引っ張って、桜の近くにあったベンチへ座った。
「もうちょっとここで話していこ。もっと桜真のこと、色々聞かせて」
「……ああ」
交わされた笑みは柔らかい。二人の物理的な距離も以前より近づいていて、神術を教わった時のような隙間はなかった。
ベンチが少し狭かったこともあったが、それが窮屈には思えず、むしろ丁度良いとすら思っていた。
けっきょくこの日は、月が頭上で輝くころまで時桜の下で過ごすこととなった。外界の影響を受けづらい異界では肌寒さを感じてもおかしくない気温であったが、美乃梨が上着を必要とすることはなく、黒のワンピース姿のまま一日を終える。
日付が変わる頃、美乃梨は時守神社の自室で一人、帰り道で買った焼き菓子をつまみながら表情をほころばせていた。
桜真に助けられてから三か月。今日、彼女は初めて自分のこと以外で桜真の心の深い所に触れた気がした。ようやく、彼のことを本当に知れた気がした。
別に桜真が心を隠していたわけではない。ただ、機会が無かっただけだ。
このまま、桜真のことを知れていけたらと、美乃梨は窓から月を見上げる。
――桜真に出会えたって意味では、あの堕霊に感謝しないとかな。
右手を掲げると美乃梨の視界に映る、堕霊の印。目のようで不気味なそれは、得体のしれない化物に刻まれたものだ。そう考えると流石の美乃梨も虫唾が奔るが、桜真と彼女を結ぶ絆だと思うと愛おしくなってしまう。
いずれは消されるべきものだが、今だけは、印をつけられて良かったと美乃梨は思った。
この頃は夢見の悪い日の多かった美乃梨だったが、この日ばかりはゆっくりと眠ることができた。




