灰嚢
ひび割れた地面のコンクリートが、まるで粘度の高いスライムのように足裏へと吸い付き、一歩また一歩と踏み出すことがひどく億劫になりながらも、渉は歩くことを止めなかった。
先に限界がきたのは体の方だった。渉は自身が倒れてしまうことを他人事のように感じながら、背負っている登山用の大きなリュックサックだけはなんとしてでも傷つけまいと、胸の前のベルトを解いて、すばやく、しかし丁寧に肩からそっと地面に下ろす。地面の灰がふわりと舞う。やりとげた、という不思議な達成感を胸に、渉はそのまま倒れ伏した。
「おい、おーい」
ぺちぺちと頬を叩かれているのと、声を掛けられているのに気が付いたのはほとんど同時だった。
「んん」とくぐもった声を漏らした渉は、二度寝した休日の朝九時に階下から聞こえてくる掃除機のやかましい音で目が覚めたみたいな不快感を顕にした。
起き抜けの霞む視界に映ったのは、ガスマスクとゴーグルで顔を覆い、自分を逆さまに覗き込んでいる女性である。
渉は突然湧いた危機感と共に飛び起きようとしたが、体は言うことを聞かず、仰向けになるのがやっとだった。
「とりあえずこれ飲みな」
渉は女性から差し出されたペットボトルを恐る恐る受け取る。
上半身をゆっくり起こしてマスクをずらし、ペットボトルの蓋を開けて口を付けた。
カラカラのくちびるをその水で湿らせて口内を濡らし、ごくりと喉をならして食道から胃の中へと落とす。冷たさがじんわりと肺周辺を巡り、体温の熱いことを知った。
生き返った、とさえ渉は思った。
「ありがとうございます」
五百ミリリットル容量のペットボトルの最後の一滴まで飲み干した。
「寝るなら道の脇で寝てね、危ないから」
「あっ、すみません」
渉が倒れていたのは車道の真ん中である。
いくら未曽有の大災害で車を使う人がめっきり減ったとはいえ、迷惑であることに変わりはない。
女性の後ろには、久しく聞かないエンジン音を響かせた白い軽トラックが止まっている。
渉は道路の脇に行こうと立ち上がり、半ばで膝が折れて尻餅をついた。
ため息を吐いた女性は手を差しのべ、「すみません」渉はその手を取って今度こそ立ち上がる。
女性は一瞬眉をしかめ、
——しまった。
渉はすぐさま手を離し、倒れる前に横に置いたリュックを再び背負った。
「ありがとうございました」
渉は詮索される前に別れてしまおうと歩き出したが、「ちょっと待った」背負ったリュックを掴まれてまた尻餅をつく。「おっも! なに入ってんのこれ」リュックの重さに引かれて、体勢を崩した女性はすぐに手を離し、ドン! と地面の灰が勢いよく舞った。
「その体でどこ行こうっての?」
「えっと……、いや、その、海に」
「ここから?」
「はい」
「その状態で?」
「はい」
「一番近くてもどれくらい掛かるか分かってる?」
「まあ、なんとなくは」
「……どう考えても無理でしょ」
「まあ、そうかもですね」
長野県の塩尻から閑散とする国道を自転車で走り、途中でパンクした自転車を乗り捨てて歩くことになった辺りから、渉は自分が海にたどり着くことはできないと気付いていた。海にたどり着けるならそれに越したことはないけれど、実のところを言えば、止まらなかったという事実とその過程に渉は満足していたのだ。
女性の舌打ちがかすかに聞こえた。次いで深く大きいため息がいかついガスマスク越しからでも伝わった。
「乗りな」
「えっ?」
「時間ないんでしょ」
「いいんですか」
「そういうのいいから。乗るの? 乗らないの?」
「の、乗ります!」
渉は立ち上がりその背を追う。心なしか、肩にかかる重みがずしりと増した気がした。
『世界各地で同時多発的に起こった火山の一斉噴火から一年、その被害は今なお拡大しています』
「この辺でもラジオは聞けるんですね」
「AIの繰り返し放送だけだけどね。ずーっと同じこと言ってるから、聞いてるとイライラしてくるよ」
窓から見える景色は、まだ森の体を為した濃緑の木々を残しているが、夏の盛りの尾を引くはずの季節にしては木の葉の隙間が目立っていた。
化粧前の下地を均一にするように灰の積もった地面はタイヤの軌跡を描き、空はなおも火山灰に覆われて日の目は見えず、太陽のうすぼけた輪郭を映すばかりである。
『火山付近には不用意に近づかず、またその周辺地域にいる住民の方々は政府自治体の指示に従い避難所まで移動するようお願い申し上げます』
全世界の休活火山を問わない一斉噴火は、人類を混乱させるには十分な災害であったが、追い打ちをかけるように崩灰病と呼ばれる現象が生物を襲った。
病と呼称するのが適切なのかはさておき、火山灰を吸い込んでしまうと発症すると言われているこの現象は、初期症状として体温が四十度を超え、日ごとに上昇していく。次第に手足などの末端から感覚がなくなり、やがて日光に当てられたヴァンパイアのように、全身がぼろぼろと崩れて灰になる。
発覚当初は特に様々な憶測や虚言や妄言などで溢れた。
伝染した恐怖が、灰となった人間を山や川や海、あるいはその辺の道路に捨てるという行為を人々に強制し、それらが常態化するのにさほどの時間もかからなかった。
自分が踏んでいるこの地面の灰が、火山の噴出物なのか、はたまた人間を含む生物の成れの果てだったのか。今ではもう、気にする人はどこにもいない。
森閑とする二人の間に無機質な機械音声が虚しく続く。
『また、火山灰を吸い込まないよう不要不急の外出を控え、止むおえず外出する際はマスクを着用し、短時間での活動に留めるようご注意ください』
このような事態であっても、要請や自主規制に留めるしかない、自由という名の無責任を聞き流しながら、渉は改めて女性のことを見た。
出会ったときと変わらず、ゴーグルとガスマスクに覆われて顔の全容は見えない。しかし、透明なゴーグルの奥に見える目元だけで判断するなら、美人なのだろう。
服装は濃紺を基調とした警察官風の制服に防弾チョッキを着ており、顔面の装いも相まって特殊部隊のそれにも見える。
年齢は渉の一回りはある二十代後半から三十代前半を思わせるが、泰然とした貫禄は渉が同じ年になっても得ることはできそうにない。
渉は女性から視線を外し、窓枠に肘をついてガラスに頭を寄せた。
規則的なエンジン音と、皮膚を通して頭蓋骨を微弱に揺らす振動、変わらぬ風景、澱み滞った沈黙は渉の瞼を少しずつ重くしていく。「なんで海に行きたいの?」唐突な女性の質問に対して、睡魔は渉の口を抵抗なく滑らせた。
「彼女と約束してたんです。一昨年は、台風とか予備校とかで予定が合わなくて、来年こそはって言ったんだけどこんなことになって、今年こそはって思ってたら、彼女が崩灰病になって」
それは夢うつつなピロートークを思わせる浮ついた意識から出てきた本音だった。
ぽつぽつと降り出した夕立の先触れみたいな言葉が、選別される前の思考から次々と溢れ落ちていく。
「よく喧嘩してたんすよ。記念日を忘れたとか誘うのはいつも自分ばかりだとか、返信が遅いとかデートに遅刻してくるとか。たしかにまあ、俺が悪かったなぁって思うこともあったけど、そんなことでっていうのもあって。そんで不貞腐れたり嫌味とか悪口を言い合って。幼馴染だったっていうのもあるすかね、離れたり近づいたりを繰り返して、でもなんだかんだ上手くいってたんじゃないかな。このまま、こう、ぼんやりとですけど、就職して結婚して、子供作って育てて、家とか建てたりして。人並みの人生を送るんだろうなって」
思い出すのは彼女を怒らせたり困らせたりした出来事ばかりであった。
堆積した後悔の一つ一つは灰のように軽いのに、いざ全部を集めて背負ってみると、未来に抱えて歩いていける重さをすっかり超えてしまっていたのだ。
「人って、本当に灰になるんすよ。噂では、まあ、知ってたんですけど。体がどんどん白っぽくなって、足とか手の先から少しずつ灰になって崩れていって。体が風呂より熱くなって、まあ痛みはあんまりないんですけど。ただ、人間性みたいなものが無くなっていく。それが怖いって、自分が自分じゃなくなっていくみたいだって、彼女は泣いてました」
病院のベッドの上で、握る手もなくなった彼女の姿がありありと目に浮かぶ。うわごとのように呟く声を拾うことしかできない絶望が、諦めに変わったのはいったいいつからだろうか。
「ずっと頭に残ってるんですよ。涙が灰になったほっぺを溶かして、溝ができていくのが。死にたくないって泣いてるんすよ。怖い、寂しい、もっと一緒にいたかったって。俺は、何もできなくて、どうしようもなくて、でもこうなるならもっと、何かしてあげられたんじゃないかのかなって。彼女が亡くなってから、そんなことばっかり——」
渉は他人の人生や命というものに対して、自身がいかに無力であるかということを知った。そうしてまた同時に、そうであることを免罪符のようにして、自分を慰めているのを自覚したとき、磔にされた十字架を担いで歩くがごとく、せめて彼女との約束だけでも果たそうと、重たい荷物を背負って歩き出した。
「そっか」
同情を含まない突き放すような相槌に、渉は「へへっ」と曖昧な笑みで返した。
瞼はもうすっかり閉じてしまい、意識は遠く夢の跡へと進んでいく。
「おやすみ」かろうじて聞こえた女性の声で渉は眠ってしまった。
渉が次に目を覚ますと海に着いていた。
火山灰に覆われ続けて熱を失った秋口の潮風は少し肌寒い。
車を降りてリュックを背負い直し、足が沈む砂浜を歩いて波打ち際までやってきた。
水面には見渡す限りの灰が浮かび、切れ目のない一枚の巨大なカーテンが風に揺れるように連なり蠢いている。
お世辞にもきれいとは言い難かった。
「近くに富士山があるから」言い訳みたいな口調で女性が呟いた。
「もしあれなら違うところに行ってみようか?」
「大丈夫です」
渉は足首辺りまで水に浸かると、「つめてー」とおどけたように笑い、背負っていたリュックの中身を海にひっくり返した。
中から出てきた大量の灰は、もうもうと舞って水面に浮かぶ灰と同化した。
波に混ぜられたそれは周囲のどれとも見分けがつかなくなった。
渉は軽くなったリュックを上下に振り、水を掬っては中身を洗い出す。
女性はその光景を前に、行き場のない感情を抱きながら、ただ見守っていた。
リュックを砂浜に投げ捨てた渉は女性の方を振り向き、「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。
渉はざぶざぶと波をかき分けて歩き、腰くらいまで海に浸かると、また振り向いた。
「行ってきます」
にっと笑って前を向いた渉は、砂の城が波にさらわれて形を失うように、灰と崩れた。
渉と彼女は、海で溶け合い、本当の意味で一つになったのだろう。
女性はしばらくの間立ち竦み、喉元まで込み上げくる感情を懸命に押し殺していた。
こんな世界でなければ、彼らは幸せになれたのだろうか。
同情や悲観はきっと、彼らの人生と死への冒涜になるだろう。
それでも、彼らの物語の結末を否定しなければ、先には進めない。
背負う荷物がまた一つ増えたように、車に戻る私の足取りはとても重かった。




