第九十一小節〜I DREAMed that, DREAMS come TRUE...…(時の回廊)〜
世界は闇に覆われていた。
そして、全ての音を拒絶した空間。そこは闇、塵さえも存在を許さない闇が拡がっていた。
だがそこに、少女が咳き込む声が響く。その音が響いた瞬間、その場全体に反響し、揺らめく扉達が姿を現した。
この空間には、物質的な抵抗力は存在しないのだろうか?少女の咳き込んだ声は拡がり続け、遠く星の距離までもを凌駕する範囲まで到達すると、それに呼応する様に無数の扉達が現れ続ける。
不思議な事に、それぞれの扉達はスポットライトを浴びたかのように鮮明に、そして、様々な『音』達がこの空間に彩りを与えた。
そのなかの一つ、ガハハと笑う中年男性の声が聞こえる扉から、一人の人物がその姿を現した。
「またお会いしましたね、この楽曲をご鑑賞の皆様方。さて、かの者たちは暫しの期間、緩やかな平穏を過ごす事となる」
褐色のローブに身を包み、フードの先から銀の髪を靡かせる吟遊詩人、ロインの姿がそこにあった。
「後ろの扉から聞こえる声も、その一端……」
すると彼は、この虚無の空間を音も立てずに歩く。その聞こえない足音が波紋となり、扉達を照らす明かりが仄かに揺れる。
一つの扉の前でロインは立ち止めた。
彼はローブの裾から古びたギターラを取り出し、愛機を慈しむ様に優しく奏で、歌い始めた。
「産まれ持つ者、産まれ持たぬ者、
持つ者は天迄の道程を、持たぬ者は天に抗う道程を
運命とは?天寿とは?……」
……暫しの無音、するとロインはギターラの胴をポンと叩き和音進行を始めた。手に持ったギターラの金属弦が、キュイイと甲高い音を立てながら、和音を紡ぐ。
「少女が持った物、持たなかった物、全てはあの日に……」
キュイキュイと唸りを上げていた弦が、優しく震える単音へと変わりだした。
ゆっくりと速度を落とした音楽は、最低音一つで締めくくられた。
「さて、暫しは『彼女』の時間をご覧に入れましょうか」
そうロインはつぶやくと、ギターラを背中に担ぎ、一つの扉の前へと足を進める。
……古びた安っぽい扉だ、蝶番が錆びている。その取っ手さえも、だが、その奥からは、賑やかな少年が騒ぎ立て、それを宥める老爺の声。
ロインは鼻で少し笑い、軋む扉を明け放った。
──
時は港町アダーがフェルダイ帝国領だった頃。
「お爺ちゃん、今から先生の所に行くのよね?」
愛らしい少女の声、10歳辺りの頃のレーネだ。艷やかな長髪を二つに分け、三つ編みにしている。
にこやかに笑ってはいるが時折、咳き込みながら左胸を押さえ、呼吸が乱れている。
目の前に立つ老人、ガズリュイ。髪は抜け落ち、白髪がまばらな頭皮に、皺くちゃの顔付き。『今は』孫達の事しか目にはいらない様な垂れ下がったグリーンの瞳を持つ。
祖父であるガズリュイはレーネの頭を優しく撫で、柔らかい口調で話した。
「そうだぞ、レン、若先生は帝都で沢山の人を診てきた先生じゃ。この前、レンのお胸の中を調べてもらった答えが、今日聞けるそうじゃ」
若先生こと、レーネが診てもらっている薬師、レオハンヌ=ストは、このアダーで開業した彼の祖母、スレヌ=ストの孫にあたる。
スレヌは、その類稀ない知識で、『スト印の万能薬』を作り出した偉人、帝国中に名を馳せる薬師だった。
レオハンヌも、その家名や実績を積み、帝都で診療所を開いては居たが、彼の親夫婦、もとい大先生夫婦の老衰により、アダーに帰って来ていた。
「なぁ爺ちゃん!オレは!?オレも行くの?あの臭いトコに」
ボサボサの金髪に、活発なグリーンの瞳をくぐもらせながら5歳位の男の子が、祖父に問う。
「フィル、お前はアルレさん所に遊びに行っておいで。ほれ、仲の良いユイちゃんもおるぞ?」
「えー……ユイかよぉ、アイツと遊ぶと、いっつも面白くねぇおままごとばっかなんだよぉ」
口先を尖らせたフィリップに、ガズリュイは最大の誘惑を諭した。
「フィル、ユイちゃんのお母さんは誰だったかのぉ?お前の大好きな『クッキーのおばちゃん』では無かったか?」
ガズリュイは顔の皺がさらに増える程笑う。
「おばちゃん!そうだよ!めっちゃくちゃクッキー旨いんだよ!行く!おばちゃんの家行く!」
頬を赤らめ、息巻くフィリップは幼馴染の家へと駆け出した。
「フィルー!少ししたら私もいくねー!クッキー全部食べちゃダメだからねー!」
レーネは弟に声を掛けてはいるが、彼は走り背を向けたまま、頭の上に伸ばした右手を握り、親指を立てていた。
……大声を張り上げてしまい、レーネが何度も咳をする、吐き気を催す程の。
その瞬間、彼女の胸の鼓動は捻じ曲がった。
その鼓動は、本来能動的に、且つ同じテンポを刻む物。だが、彼女のソレは違った。
大きく弾んだと思えば次は小さく、さらに小さく、と、思えば次は大きくと……。
目を見開き、呼吸を乱して項垂れるレーネを、ガズリュイは胸に抱えて走り出した。
「レン、大丈夫じゃ。すぐに先生の処で薬を貰おう、待っておれ」
そう言うとガズリュイは老体に鞭を打ち走り出した。いや、その鞭の苦痛さえも、胸元で呼吸を乱し脂汗を流している孫娘の苦痛に比べたら……。
五体満足に産まれ、竜と戦う為に研鑽した日々も、数多くの竜に纏わる存在屠り、心に、そして身体にも傷を負った自分の人生がちっぽけに思われた。
……自らの孫娘は「たったの10歳」、それなのに、産まれながらに「あの世とこの世の汀」に立ち続ける運命を背負っている。
「若先生!」
診療所のドアを明け放った彼の呼吸は乱れ、70代後半の老人とは思えない程に高揚していた。
「ファウリーさん!どうしたんですか!?」
薬師レオハンヌは座っていた椅子から立ち上がり、先ず目に入ったのは、ガズリュイの胸に抱かれ、呼吸を浅く、深く、青ざめた顔色をしたレーネだった。
「若先生!レンが、孫娘がぁ!」
「ファウリーさん!落ち着いてください!まずはレンちゃんをこちらのベットに」
レオハンヌは慣れた手つきでレーネを診療所のベッドへ横たわらせた。
息も絶え絶えのレーネは瞳を見開き、涙と涎を垂らしていた。瞳の焦点は遠く、近くを生き来している。左胸を押さえつけ、まるで荒れ狂う動物を抑えつけているかのようだ。
「レンちゃん、すぐに薬を……。これじゃあ飲めないな……」
彼はレーネに経口投薬がする事が出来ない事を瞬時に理解し、ガズリュイに問いかけた。
「ファウリーさん、落ち着いて聞いて欲しい。確実にこの子は今、愛の女神様の元へ召す一歩手前です」
その言葉にガズリュイは血の気が引き、青ざめた顔付きでレオハンヌに問いか様とした。が、次の言葉が上手く紡げない。
震える身体で、パクパクと口だけが開閉する。
診療所の周りで、街の子供たちがはしゃぎながら駆け抜けていく声が聞こえる。
「何か……、何かこの子を救う手立ては……?」
レーネはさらに咳き込み、吸い込む息は気道を甲高く震わせ、空気と『肉』がせめぎ合う音をたてた。
レオハンヌは静かに、そして決意を込めた瞳で、「有ります、この帝都で開発された『注射器』と言う器具で、身体に直接薬を打ち込みます」
取り出された『注射器』と言う器具、銀の針が先端に着いた、人の身体に『刺すため』に特化された物。
「ファウリーさん、この技術は帝国が『神』に抗う為に見いだした、『悪魔』の技術です。それでも使いますか?医療費も『悪魔』的な額になりますが……」
ガズリュイは身悶えた、『孫娘の身体に針を刺す』?『悪魔』の技術?『神』にさえも抗おうと言うのか、この薬師は。
「パパ、ママ……」
苦しそうなレーネの譫言が耳に入る。
「じゃが……じゃが……」
悪魔との契約、人智を超えた技術、ガズリュイは頭を抱え、その場にしゃがみ込んでしまう。
「パパ……、ママ……、お、爺、ち、や、ん」
その言葉にガズリュイはハッと気が付いた、かつて自分は神にも等しい竜を倒して来たでは無いか、竜の血を残らず根絶やしにしようとしてたではないか。
『悪魔』との契約?『神』への抗い?
何を迷う事があろうか?
──疾うの昔に、自分自身が『悪魔』に堕ちて居たではないか。
「若先生、幾らでも払う。レンをこの子を救って下され!」
彼はもう迷わなかった。
──その瞬間のガズリュイの決意に満ちた貌は、時が止まった様に固まったのだ。
彼の居た空間は時を止め、セピア色に染まった。
そこへ『彼』の色彩を保ったままのロインが、ガズリュイの背後へと現れた。
彼は懐から小さなカリンバを取り出し、その柔らかな音色を奏で出す。
「神への抗い、それは自らの業か
悪魔からの誘い、それも自らの業か
しかし、案ずることは無い
悪魔はそなたの身の内に
魔王はそなたの直ぐ側に……
悪魔と堕ちたそなたの身
紡いだ筈のその意思は
やがて魔王を生み出す事となる……」
軽く弾むカリンバの音をとは対象の歌を歌い、ロインは時の回廊へとその歩みを戻した。
──後にガズリュイが聞いた話だ。レーネの心臓は『普通』のソレとは違い、『心臓』自体が『欠けていた』のだ……。




