第九十小節〜汀(みぎわ)にまつわるetc.〜
白く輝く砂浜には、先程までの死の気配を打ち消すような、爆発的な歓喜と安堵の声が充満していた。
海賊襲来の誤報に怯えていた漁師たちは、それが身内を乗せた「黒い英雄」の艦隊だと知るや否や、一転して祝祭のような熱狂で彼らを迎える。
「なんて派手な帰り方なんだ、フィル!」
「本当に、街を焼き払いに来た海賊じゃなくて良かったわい」
「よく戻ったな、ロウェル! 英雄の凱旋だな!」
降り注ぐ祝福の言葉に、フィリップは人混みをかき分けながら大きく手を振った。声を掛けてくる馴染みの顔一つひとつに、少年の輝きを残した笑顔で応えていく。
その喧騒の渦中に、彼は求めていた光景を見つけた。
慈愛を湛えた静かな笑みを浮かべるレーネと、その隣で、呆れと怒りが混じった複雑な表情で肩を震わせているユイーブ。
フィリップは迷うことなく、二人の元へと駆け出した。
まず、真っ直ぐにレーネへと向かい、すれ違いざまに彼女が掲げた手と、己の手のひらを力強く打ち鳴らす。
互いの体温が伝わる一瞬の接触。レーネは鼻を鳴らして溜め息を漏らしたが、その瞳には、弟の無事を心から喜ぶ深い慈しみが宿っていた。
その勢いを殺さぬまま、フィリップはユイーブの前で足を止め――いや、止めることさえ惜しむように、彼女の身体を力任せに抱き寄せた。
「ただいま! ユイ! ……あぁ、やっとこの匂いを感じられた」
フィリップは彼女の側頭部に己の右頬を深く沈め、柔らかな髪の間から立ち上る香りを、飢えた獣のように肺の奥底まで吸い込んだ。
アダーの潮風、慣れ親しんだ家庭料理の温かな湯気、そして、ユイーブという一人の女性だけが放つ、本能的な安らぎを与える甘やかな香り。
戦場と暗殺の泥沼に浸かっていた彼の荒んだ心が、その清冽な香りに触れた瞬間、洗われていくのを感じていた。
「ちょっと……!? え!? な、なんなのよ急に!? 普通、お姉ちゃんとこ行くもんでしょ!?」
腕の中で目を白黒させるユイーブが、困惑の混じった声を上げる。だが、フィリップは彼女の体温を片時も離したくないと言わぬばかりに、さらに腕に力を込めた。
「姉ちゃんには兄貴がいるだろ? ……なぁ、抱きしめ返してくれよ。本当に、会いたかったんだ」
耳元で囁かれた、弱々しささえ孕んだ本心の吐露。
ユイーブの頬が、夜明けの空よりも鮮やかな朱色に染まっていく。
「何言ってるのよ……、こんな、街中の人たちの前で……っ!」
「いいだろ、これくらい……」
彼女は観念したように、小さく、けれど抗いようのない力でフィリップの背に腕を回した。
羞恥に耐えかねた彼女の拳が、リズムを刻むように彼の背中を叩く。
「もう……! 本当に、こんな恥ずかしい思いをさせて! 後でたっぷり覚悟しなさいよね!」
言葉とは裏腹に、彼女の指先はフィリップの服を強く握りしめていた。
その愛おしさが極まった瞬間、フィリップは彼女の耳元で、風さえも聞き取れぬほどの微かな声で告げた。
「……あぁ、一生覚えておくよ。愛してる、ユイ」
その言葉が、熱を帯びた吐息と共に鼓膜を震わせた瞬間。
ユイーブの意識は、全身を駆け抜けた正体不明の衝撃に貫かれた。放心した彼女の身体から力が抜け、ただフィリップの腕の温もりだけが、世界の中心で鳴り響いていた。
──
一方、砂浜に乗り上げた救命艇の縁に縋り付き、無様に身悶えている男がいた。
「……不味い。腰の骨が、溶けてなくなったようだ……」
魔動機関の出力に匹敵する、人力を超えた五人の海兵による爆走。その代償として、ロウェルの下半身は今もなお、凄まじい振動の残滓に支配されていた。
背後から、隠しきれない嘲笑を孕んだ太い声が降りかかる。
「オイオイ、大丈夫か? ロウェル。そんな様だから、いつまで経ってもお前は『坊主』なんだよ!」
ジルウスの、どこまでも陽気で野太い笑い声。からかわれていると分かっていても、今のロウェルには言い返すだけの余力が残っていない。
「うるさいな、ジル! 余裕があるなら、笑ってないで手を貸してくれればいいだろ!?」
「へいへい、分かりましたよ、ロウェル様?」
憎まれ口を叩き合いながらも、ジルウスの大きな手がロウェルの腕を掴み、その頑強な身体を砂浜へと引き上げた。
ようやく安定した大地を踏みしめた時、ロウェルの耳に、苦しげで、けれど待ち侘びていた吐息が届いた。
その声の方角を向いた刹那、ロウェルの視界が、愛する者の姿で埋め尽くされた。
いつの間にそこまで近づいていたのか。最愛の妻、レーネが人混みを縫うようにして、波打ち際に立ち尽くしていた。
街の人々は、彼らが離れがたい絆で結ばれた夫婦であることを知っている。
周囲の漁師たちが、ここぞとばかりに野卑で温かい囃し立ての声を上げた。
「いいぞキーッス!」「今こそ熱い接吻を見せてやれ!」「ねっとりとしたやつでも、今日だけは許してやるぞ!」
だが、ロウェルの意識には、それらの喧騒はもはや届いていなかった。
彼は吸い寄せられるように、一歩、また一歩とレーネへと近づく。
そして、彼女の細すぎる腰にそっと腕を回し、自分よりも頭一つ分ほど低い位置にある、彼女の頭頂部に顎を預けた。
レーネもまた、自身の全体重を夫の胸板へと委ねる。
──静寂。
あれほど騒がしかった港の声が、潮騒のざわめきと海鳥の鳴き声、あるいは二人の間を吹き抜ける浜風の音に溶けて、消えていく。
「……ただいま」
ロウェルは瞳を閉じ、衣服越しに伝わる彼女の確かな、けれど儚い体温を噛み締めるように言った。
「……おかえり」
レーネは彼の胸元に顔を埋め、再会を祝う言葉を短く、噛み締めるように返した。
──
だが、その温かな沈黙を切り裂いたのは、鋭い鉄の響きを帯びた老人の声だった。
「夫婦で悦に浸っているところを済まんが――。一体、この大騒動は誰が引き起こしたのか、説明してもらおうか」
しかめっ面の街長、サザレアンが腕を組み、鋭い眼光をロウェルへと向けた。
ロウェルは苦笑いを浮かべ、額の汗を拭いながら、自身の背後にある「巨躯の影」を指し示す。
「あー……。原因は、この後ろにいる筋肉の塊だ」
振り返れば、そこには朝日を背負ったジルウスが立っていた。逆光に縁取られたそのシルエットは、人の形をした山のように巨大で、表情を読み取ることすら叶わない。
すると、その影の底から、腹の奥を揺さぶるような地鳴りに似た唸り声が漏れ出した。
「おおおおお………」
「な、なんだあの熊は!」「魔物か!?」「武器を構えろ!」
街の人々が再び怯え、殺気が砂浜に満ちようとした、その時。
巨躯の主は、その場に膝を突くような勢いで腰を落とした。そして、荒事と潮風に磨き上げられたその分厚い掌を両腰に据え、地面に額を擦り付けるかのように深々と頭を下げた。
「サザレアンの大将。……ご無沙汰しております。街全体を騒がせちまって……、この通りだ。面目ねぇ」
あまりにも誠実で、そして畏まった謝罪。
予想だにしない光景に、港中が言葉を失い、静まり返った。
サザレアンは、我が目を疑うようにその巨体を見つめ、やがてその表情を驚愕へと歪ませた。
「……な、あ……。……お前、ハルバートか!? あの生意気だった、ハルバートなのか!?」
ロウェルは隣で目を点にしている。
「おいジル、あんた、うちの街長と知り合いなのか?」
「……あぁ。若い頃に随分と搾り取られたんだよ。海の生き方の、イロハを叩き込んでくれた師匠だ」
サザレアンは深く長い安堵の息を吐き、それまで街を守るために張り詰めていた肩の力を緩めた。
一国の要塞のような『護る者』の顔は消え、そこにはただ、教え子の成長を慈しむ『老いた街長』の表情が浮かんでいた。
「ハルバート……。お前が、あの途方もない艦隊を率いているというのか。いつか大物になるとは予感していたが……。何故、一言も連絡を寄越さなかった」
サザレアンは歩み寄り、ジルウスの鋼のような肩を、慈しむように何度も叩いた。二人の巨躯が親愛の情を込めて抱擁し合う姿は、まるで古い戦艦同士が接舷したかのような重厚な趣があった。
「いや、大将。……カイツから、封書が届いているはずだぜ? 不手際があったのか?」
その言葉に、サザレアンの身体が微かに震えた。
彼の脳裏に、数日前に届いた一通の書状が浮かび上がる。そこには、「蒼の鯱」のエンブレムを象った、真紅の封蝋が施されていた。
差出人の名は、『カイツェルバーグ=アーゲンラシュムⅣ世』。
冒頭の「親愛なるサザレアン=ヴーリ様へ」という一文までは、どうにか判読できた。
だが、その後に続く内容は、余りにも芸術性に傾倒しすぎた、流麗かつ難解な筆致の連続。インクが織りなす迷宮のようなその文章は、海とともに生きてきた老漁師の眼には、もはや未知の古代文字にしか見えなかったのだ。
(有識者にでも伺わねば、到底理解できん……)
そう観念し、書斎の奥深く、埃を被らぬようにそっと仕舞い込んだ記憶。
「……済まん、ハルバート! 俺は根っからの漁師上がりだからな。あんな、すまし顔の男が書いた気取った文字など、欠片も読めなかったんだよ!」
サザレアンが開き直るように放った言葉に、港のあちこちから容赦ない野次が飛ぶ。
「街長、何やってんだ!」「それは一番に読まなきゃいけないやつだろうが!」
「スマン、皆! 儂の小遣いから街の全家庭に詫びの品を贈る! それで勘弁してくれ!」
思わぬ私財の流出に頭を抱えるサザレアン。その潔い筋の通し方は、図らずも弟子のジルウスと重なるところがあった。
騒ぎがようやく収束の兆しを見せると、ジルウスは改まった表情で一夜の停泊許可を願い出た。
巨大な艦隊がアダーに寄港するという事実は、周辺海域を脅かす海賊たちへの強力な威嚇となる。サザレアンはそれを快諾し、二人は再会の喜びを込めた力強い握手を交わした。
「ハルバート、一晩と言わず暫く居ても良いんだぞ。……あのデカいのと、細いヤツも連れてこい。久々に飲もうじゃないか」
不意に投げかけられた、過去へと繋がる言葉。
ジルウスの身体が、微かに、けれど確かに硬直した。
サザレアンの言う「デカいの」──肥満体のノッティンは、もうこの世にはいない。
ジルウスが俯き、言葉を詰まらせたその時。
静寂を縫うように、レーネの淑やかな声が響いた。
「あの……。夫を連れ帰ってくださって、ありがとうございます。私、ロウェルの妻のレーネと申します」
途中で何度か咳き込みながらも、彼女の翡翠色の瞳は真っ直ぐにジルウスを見つめていた。
病的に痩せ細り、腱の浮き出た首筋。けれどその眼光には、死の淵を歩んできた者特有の静かな強さが宿っている。
ジルウスはニカッと笑うと、自身の身体に馴染んだ厚手の上着を脱ぎ、レーネの細い肩へとそっと掛けた。
「おぅ! アンタがロウェルの奥さんか。……いい女だな。だが奥さん、海風はもう冬の鋭さを孕んでる。もっと自分を温めなきゃいけねぇぜ?」
「あっ……、すみません。こんなに気を使っていただかなくても……」
レーネの鼻腔を、濃厚な海の香りと燻された煙草、そして安らぎを与える重厚な父性の匂いが満たしていく。
ジルウスはロウェルにジロリと鋭い視線を向け、言い放った。
「で……? ロウェルさんよ。お前、奥さんへの気配りが足りてねぇんじゃないか? 真っ先に上着の一枚も掛けてやれねぇとは、情けねぇ男だな」
ロウェルは呆然と立ち尽くしていた。
自分には、この男のような自然な器の大きさがない。人として、男として、まだ到底敵わない。その事実を突きつけられた気がした。
空を見上げれば、白い海鳥たちが何事もなかったかのように秋の空を舞っている。
吹き抜ける風と打ち寄せる波音は、二度と同じ旋律を奏でることはない。けれど、この砂浜で交わされた熱と匂いだけは、彼らの胸の中に確かに刻まれていた。




