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第八十九小節〜ただいま〜


 季節は秋から冬へとその色を変え始め、アダーの海には少しだけ冷たい風が吹いていた。


 まだ夜明け前。薄墨色の空と海の境界線で、一人の漁師が船の手入れをしていた。


「さーて、真冬のシケになる前に一杯稼いでおかねーとな」


 男はかじかむ手に息を吹きかけ、東の水平線から昇り始める太陽の機嫌を伺おうと海に目をやった。

 いつもの、平和な朝焼け。そのはずだった。


「……あ? 何だあの黒いの?」


 太陽が照らし出したのは、水平線に浮かぶ異様な影。


 いや、影ではない。それはまるで、海の上に突如として出現した黒い『森』だった。


 男は手持ちの望遠鏡を覗き込み――次の瞬間、片手に持っていた釣り竿を取り落とした。


 カラン、と乾いた音が静寂に響く。


 レンズの向こうに映ったのは、明らかに武装した巨大な『艦』の群れ。

 中央を行く巨艦を筆頭に、整然と隊列を組んでこちらへ向かってくる。その数、その威容、明らかに一国の海軍か、あるいは伝説級の海賊船団か。


「かっ、かか……」


 男の歯がカチカチと鳴る。


「海賊だあああぁぁッ!! しゅ、襲撃だぁぁ!!」


 男は腰を抜かしそうになりながらも、半鐘を叩くために街の役所へと転がるように走り去っていった。


 ──



 カンカンカンカンッ!!


 早朝の街に、非常事態を告げる鐘の音が乱打される。


「お姉ちゃん! レンお姉ちゃん!」


 レーネの微睡んだ意識を呼び起こしたのは、血相を変えた幼馴染の声だった。


 彼女は重い身体を起こし、上着を羽織る。ゴホゴホと咳き込み、数回浅い呼吸を整えてからドアを開けた。


 そこに立っていたのは、ユイーブとその祖父、ナブラ=アルレだった。


 二人は避難用のリュックを背負い、顔面蒼白だ。


「お姉ちゃん! 海賊が来たのよ! 早く逃げなきゃ!」


「レンちゃん、海から離れよう。ユイ、いけるね?」


「ええ!」


 ユイーブがレーネの右肩を、ナブラが左肩を担ごうとする。


 だが、レーネはその手を優しく、けれどきっぱりと押し戻した。


「ちょ、ちょっと待って。私はここでいいわ」


「レンちゃん、何言ってるんだい!? 先ずは女子供達から避難しなきゃ! 何されるか分からないんだよ!」


 ナブラは叫んだ。彼は知っている。『もし、海賊だったら』――この街がどうなるか、非力な女性がどう扱われるか。最悪の想像が脳裏をよぎる。


 だが、レーネは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。

 耳に入ってくるのは晩秋の虫の音と、遠くの騒乱。


 彼女の「勘」が、奇妙なほど冷静に告げていた。あれは、奪いに来た者の気配ではない、と。


 あるいは、あの「馬鹿な弟」が帰ってくる時は、きっとろくでもない騒ぎと一緒だろうと、予感していたのかもしれない。


「私は……大丈夫な気がするの」


 レーネが言葉を紡ごうとしたその時だ。


 ドォォンと海上の『艦』から、強烈な光が爆ぜた。

 


──


 アダーの港はパニックに陥っていた。


 上空で弾けたのは、目もくらむような閃光弾。綺羅びやかに点滅し、朝の空を白く染め上げる。


「ん? 砲撃では無い……!?」


 口を開いたのは街長のサザレアン=ヴーリ。


 短く切り揃えられた白髪と、長く垂れ下がった白い眉。60代前半の老齢だが、その服の上からでも分かる筋肉の隆起は、彼が現役の戦士であることを雄弁に物語っていた。流石は海の街アダーの長だ。


 港に集まった漁師、自警団、そして護衛のキラフ騎士達は、その閃光に目を覆い、逃げ腰になっていた。


「うわぁ!」「もう終わりだぁ!」「街が焼かれるぞ!」


 だが、一人の老漁師が声を上げた。


「街長! アレは……攻撃じゃなくて、信号弾では無いですかい?」


「馬鹿を言え! あんな眩しい信号があるか! 目眩ましに決まっている!」


 サザレアンは『街を守りたい』一心で叫んだ。あの規模の艦隊だ、油断すれば一瞬で灰にされる。


 すると、マストの上に登っていた若い漁師が、望遠鏡を片手に絶叫した。


「サザレアンさん! 手信号です! あのデカい艦の甲板で……に、二十人以上が一糸乱れぬ手信号を送っています!」


「何だと!? 貸してみろ!」


 サザレアンが望遠鏡をひったくるように覗く。

 そこには、信じがたい光景があった。


 巨大なガレオン船の甲板。


 そこに整列しているのは、屈強な男たち。全員が赤と白の旗を持ち、まるで機械仕掛けの人形のように、完全にシンクロした動作で旗を振っていた。


 バッ、バッ、バッ!


 風切り音さえ聞こえてきそうなほどのキレ。その表情は、恐怖を感じるほどに真顔だ。


 サザレアンは、震える声でその信号を読み上げた。


「……『ワレラ……テキタイスルイシ……ナシ』……?」


「……『ワレラ……カイゾクニ……アラズ』……」


「……『チャッカン……キョカ……モトム』……?」


 サザレアンは呆然と望遠鏡を下ろした。


「……なんだ、あの筋肉の集団は。……本当にただの入港許可願いなのか……?」


 街中が恐怖する中、海の上では、世界一礼儀正しく、かつ世界一「圧」の強い挨拶が行われていた。


 

 ──


「お前ら!礼儀正しくだぞ!分かってんな!」


「「アイ、サー!」」


 ジルウスは男達の後ろで仁王立ちしながらげきを飛ばす。


「……流石にこの艦隊じゃ、みんなビビるよな?兄貴」


「流石もクソもねぇだろ。ドン引きレベルじゃねぇか、コレ」


 ロウェルとフィリップは、もうすぐ帰るべき街が目の前にも有るにも関わらす、じれったい空気が流れていた。


 アダーの街は元国境の街とは言えど、漁業がさかんな街だ。大型の商業船や旅客船が着岸出来そうな停泊場は無い。


 一番大きな旅客船でさえ、全長20mも有れば事足りる。それほど、『小廻りの利く船』がこの街の最重要点だ。


 一方、『蒼の鯱』船団での最小クラスの船でも全長80mは有る。しかも、もれなく魔動機関の主砲が一門と副砲が複数付きだ。とても近付けない。


「こりゃあ救命ボートで行くか!」


 ジルウスの白い歯は、朝日を反射させて茜色に輝いていた。


 「救命隊、一番から五番船員、集合!!」


 カイツェルバーグの喉からは、今まで聞いたことのない覇気が帯びた発せられた。


「「アイ!サー!」」


 揃ったのは屈強な肉体を持つ男達が、足並みを揃えロウェル達の前に整列し、一斉に靴底をガツッと鳴らし敬礼のポーズを取った。


「救命隊?五人?何でなんだ?オッサン!」


 フィリップは状況が理解が出来ていない様子だ。ロウェルも頭の上に疑問符が浮かんでいる。


「あん?救命ボートは手漕ぎだぜ?動力がイカれた時は人力が最強って訳だ」


 ジルウスは平然と口走ったが、港までは約2km程は軽く有る。それを「二人の男を運ぶだけ」で、訓練された海兵五人掛かり。


 申し訳無ささが先に立つ。


「他に手は無いのか?ジル。俺達、アンタにはそこまでしてもらう道理は無いぜ?」


 ロウェルは、自分達が余りに優遇されているのに負い目を感じでいた。


 が、ジルウスは笑顔のままロウェルの肩に腕を廻し、「マジでお前と再会出来るなんて思って無かったからな。思わず涙が出かけたぜ、デカくなったな、ル……、ロウェル……」


 

 最後は言葉を濁したが、彼の腕の温かさは『あの頃』のままだ。


「ありがとう、じゃ、御言葉に甘えても良いかい?」


 ニッコリとジルウスだけにしか見えないように笑うロウェル、少年ルヴェンの頃の口調で可愛く問いかけた。



 そして男達はボートに乗り込んだ。が、何故かジルウスまでも乗り込んでいる。


「オッサンまでなんで来るんだよ!?」


 フィリップは荷物を積みながら、ボートの先端に仁王立ちしているジルウスに問いかけた。


「あん?こんだけ大ごと、ってか迷惑掛けたんだ、『頭』(かしら)が頭下げねーとスジが通んねーだろーが」


 言っている事は至極真っ当だ。


 だが、逆にややこしい話になり兼ねるかも知れない、ロウェルは縋る気持ちで母艦の甲板に居るカイツェルバーグに視線をなげた。


 するとカイツェルバーグは眉間に皺を寄せながらロウェルに声を掛ける。


「ロウェル!そこに居る貴方以外は『脳が筋肉組織』で構成されています!くれぐれも貴方達の故郷の方々に粗相をしないよう、貴方が錨になって下さい!」



 かなり切羽詰まっている。本来ならば、外交は彼の領分なのだろう。



 ……、そして。


「……おい、ジル。念の為に聞くが」


 ロウェルは、吊り下げられた救命ボートに乗り込みながら、不安げに尋ねた。


 同乗しているのは、丸太のような腕を持つ五人の「救命隊」。彼らはオールを握りしめ、獲物を狙う猛獣のような目で海面を見つめている。


「この人数で漕ぐと、どうなるんだ?」


「ん? そりゃあお前、『速い』に決まってんだろ! 風より速くな!」


 ジルウスが親指を立てた瞬間、ボートが海面に降ろされた。


 着水の衝撃もそこそこに、コックスの男が吠える。


「総員、構えッ! 目標、アダー港砂浜! ……漕ぎ方、始めェッ!!」


「「オオオオオオオッッ!!!」」



 五人の筋肉が、同時に炸裂した。


 彼らがオールを一心不乱に引いた瞬間、海水が悲鳴を上げて弾け飛ぶ。

 それはボートが進むという生易しい挙動ではなかった。巨大な手によって背後から弾き飛ばされたかのような、暴力的な加速。


 フィリップが悲鳴を上げようと口を開くが、猛烈な風圧がそれを喉の奥へと押し戻す。

 ロウェルは無言で船縁にしがみついた。強烈な慣性が内臓を背中側へと押し付け、景色が流線となって後方へ飛び去っていく。


 これが「蒼の鯱」流の救命術――すなわち、遭難現場からの最速離脱術だった。


「うわあああああッ!? 速えええええ!!」


 

──


 一方、港では。


「街長! 巨艦から小型艇が射出されました!」


「来るぞ! ……なっ、なんだあの速度は!?」


 サザレアンは我が目を疑った。

 白い波飛沫を上げ、一直線にこちらへ突っ込んでくる物体。最新鋭の魔動機関でも積んでいるのかと思うほどの異常なスピードだ。


「げ、迎撃だ! 弓隊、構えろ!」


 サザレアンが指示を飛ばすが、速すぎて狙いが定まらない。


 その時、ボートの上から、風圧に負けじと叫ぶ声が聞こえた。


「撃つなァァァァァ!! 俺だァァァァァ!!」


「……え?」


 彼の目に飛び込んできたのは、紅いマントに蒼いマフラー。かつてこの街に貢献していた元竜討騎士の忘れ形見。


 その声に、サザレアンの動きが凍りついた。

 まさか。


 その呆気にとられた街長の背後で、避難勧告を無視して港に立ち続けていたレーネが、張り詰めていた糸を切るように、深く、安堵の溜息をついた。


「……やっぱり」


「あれは……、ファウリーさんとこのフィリップではないか!?」


 サザレアンの思慮はボートの速度に追いつかなかった。


 次の瞬間、物理的な衝撃が港を襲った。

 減速することなく突っ込んできたボートが、勢いのまま砂浜へと乗り上げる。


 船底が砂を削り取る不快な音と共に、視界を遮るほどの砂煙が爆発的に舞い上がった。


 もうもうと立ち込める砂埃。

 その中から、ゲッソリとした顔の男と、髪が向かい風で爆発した男が這い出してくる。


「……死ぬかと思った……」

「……舌噛んだ……」


 そして、砂煙が晴れた時。


 サザレアンは、その「髪が爆発した男」の顔を見て、ポカンと口を開けた。


「……やっぱり……フィリップ……だよな?」


「……おう、ただいま。サザレアンの爺さん」


 フィリップはふらつきながら立ち上がり、ニッと笑った。


 港に集まった人々が、一瞬の静寂の後、どっと沸き立つ。


「フィリップだ!」「坊主が帰ってきたぞ!」「あのすごい船団を引き連れて!」


 歓声の中、人混みをかき分けて、二人の女性が歩み寄ってくる。


 一人は、リュックを背負ったまま涙目のユイーブ。


 もう一人は、腕を組み、呆れたような、でもどこか安堵した笑顔を浮かべるレーネ。


「……おかえり、馬鹿弟」

「……派手な帰省ね」


 フィリップは頬をかき、照れくさそうに言った。


「へへっ、ただいま。姉ちゃん、ユイ。……約束通り、無傷で帰ってきたぜ!」


 実際には脇腹の骨にはヒビが入り、舌からは血の味がし、全身が筋肉痛の予兆に悲鳴を上げている。


 だが、家族を安心させるためのその小さな嘘は、英雄の凱旋には不可欠な「誤差」の範囲だろう。


 アダーの空に、ようやく平和な太陽が昇りきった。


 騒がしくも温かい、彼らの日常が再び動き始める。

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