第八小節 〜Don't Cry BABY(前)〜
「あれ……? 雨……?」
雲ひとつない青空のはずだった。
けれど、ルヴェンの頬を濡らした雫は、生温かく、そしてその頬にねっとりと絡みつく。
無意識に頬を拭い、その掌を見る。
そこには、鮮やかな、あまりにも鮮烈な「紅」がべっとりと張り付いていた。
「……え?」
思考が凍りついたその時だ、背後でコリアの鼓膜を裂くような悲鳴が上がった。
「きゃあああああ!!」
弾かれたようにルヴェンが振り返る。
そこにあったのは、現実を受け入れることを拒絶したくなるほどの惨状だった。
手綱を握っていたはずのガルブスの体――その右肩から左脇腹にかけてが、ごっそりと消失していたのだ。
光の刃は肉を、骨を、そして騎士の覚悟や優しさ、その命そのものを無残にもぎ取り、断面から溢れ出る鮮血はまるで間欠泉。
暖かい雨は更にルヴェンの頬を濡らす。
「うわ! うわああぁあああ!」
ルヴェンの喉から、言葉にならない絶叫が迸る。
支えを失ったガルブスの体がぐらりと傾き、制御を失った馬が嘶きと共に暴れ出す。
その衝撃で、ルヴェンとコリアの体は宙へと投げ出された。
天地が逆転する。
死への落下。走馬灯を見る暇さえなかった。
だが――。
その刹那、ルヴェンの視界ギリギリに「生」を持った「黒い稲妻」が背後から駆け抜ける。
硬い地面に叩きつけられるはずの体は、強烈な衝撃と共に「黒い稲妻」に受け止められた。
ふわりと浮く感覚、そして、温かく力強い腕の感触。
ルヴェンが混乱する頭で目を開けると、そこには荒い息を吐く巨大な黒馬、サルースの背中。
そして、自分たちを必死に抱きとめる、見慣れた親友の顔があった。
「オルス! オルス!! ガ……ガルブスさんがぁあ! うわあぁぁあ!」
ルヴェンはオルスの胸ぐらを掴み、半狂乱で泣き叫ぶ。
剣術の師であり、頼れる大人であったガルブスの、あまりにも唐突で理不尽な死。その恐怖が精神を粉々に砕こうとしていた。
「ルヴェン!!」
バシンッ! と空気が震えるほどの大声が響く。
それは、先ほどガルブスが風塚でオルスに言い放った戦場の覚悟を思い出させるような、魂を揺さぶる叱咤だった。
オルスの瞳は潤み、充血していたが、その視線は真っ直ぐにルヴェンを射抜いている。
「あううう……怖いです、もういやです……兄様……」
腕の中でコリアが小さく丸まり、震えながら泣きじゃくっている。
絶望と恐怖に塗りつぶされそうな三人。
その空気を切り裂くように、オルスはわざとらしく、明るい声を張り上げた。
「まぁったく! 可愛い弟分と妹分を置いて死ねるかっつーの! 俺を誰だと思ってんだよ!」
ニカッと笑って見せるその口元は引きつり、握る拳は白くなるほど力がこもっている。そして、気丈に振る舞わ無ければ自らの心を保つ事が危ぶまれる。
父を失い、そして今また知己の騎士を失った悲しみは彼とて同じ。だが、今は自分が「守る壁」にならなければならない。
「ほら! グズグズすんな! あそこから逃げるぞ! 空飛ぶ魔物がうざくて敵わねぇ!」
オルスは強引に二人を抱え直すと、サルースの首を叩く。
その無理矢理な明るさが、凍りついたルヴェンの心を辛うじて現世に繋ぎ止めた。
数分後、サルースは追撃を振り切り、岩肌にぽっかりと口を開けた洞穴の前へと滑り込んだ。
そこは、外界の戦火とは隔絶された異界の入り口だった。
もうもうと立ち込める黒い霧が視界を遮り、肌を刺すような冷気が足元から這い上がってくる。
すべての光と音を吸い込んでしまうような、絶対的な静寂と闇。
荒れ狂う光刃の余波の音も呑み込んで、ただ、闇だけがひっそりと佇んでいる。
「『闇の谷』……久し振り、だね……」
ルヴェンが呆然と呟く。
幼い頃の記憶と、目の前の不気味な光景が重なり、背筋が寒くなる。
「それ、何ですか? お兄様……?」
コリアが涙目のまま、怯えたように兄の袖を引く。
答えようとするルヴェンを遮り、オルスが胸を張って答えた。
「黒竜様が眠る闇塚の、番人みたいなもんだよ。この黒い霧のせいで、どこに祠があるか分からねぇし、塚守すらいねぇ場所だ」
オルスはサルースから二人を下ろしながら、努めて軽い口調で続ける。
「で、俺とルヴェンがガキん時に遊びに来て勝手に『闇の谷』って名前つけたんだよ。どっちが早く抜けられるか肝試しの競争したっけな。――まぁ、俺の全勝だったけどな!」
鼻の下を指でこすり、自慢げに語るオルス。
それは、恐怖に怯えるコリアを安心させるための、そして震える自分自身を鼓舞するための、精一杯の虚勢だった。
「ねぇオルス……この奥に、みんないるんだよね? 父様達も……」
すがるようにルヴェンが問う。
その言葉に、オルスは一瞬だけ表情を曇らせ、視線を暗闇の奥へと逸らした。
「……まぁ、大丈夫だろ。皆きっと待ってる。行こうぜ……」
その声に含まれた微かな不安に、誰も触れようとはしなかった。
触れてしまえば、希望が崩れてしまう気がしたからだ。
三人は身を寄せ合い、黒い霧が渦巻く洞穴へと足を踏み入れる。
背後の光が遠ざかり、冷たい闇が彼らを飲み込んでいく。
眼の前に、もう一つの悲しい別れが待ち受けていることなど、知る由もなく――。




