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第八十八小節〜静かな海と追憶の航海〜  


 ロウェルとフィリップはイルヴェルズィールの甲板に立っていた。


 大地のように大きなその艦に吹き抜ける潮風は、港の発狂した雰囲気のそれとは別物だった。ここには「規律」が有る、まるで一つの大国のようだ。


 辺りを走る船員達が、訓練の掛け声と共に列を成して走っている。


 「さて、こんなお祭り騒ぎだ。どの船もキラフのアダーまで数ヶ月掛かる船旅なんて誰も受けてくれねーよな!俺に任せろ、2週間で送ってやる!」


 ニカッと白い歯を出しながら笑うジル・ザ・グレート、もとい、ジルウスだ。


「ええ!?2週間!?てか、オッサン何だかんだ言ってもその格好気に入ってんじゃねーか!」


 フィリップは未だに変装したままのジルウスに笑いかけながら話かけていた。


「このひまわり柄シーツ……、結構したんだぜ?勿体ないじゃねーか!?」


 等と二人で盛り上がる風景を横目に、ロウェルは一人思慮にふける。


 ──この雰囲気には『もう一人』居たはずだ。


 名前は出さない、その人物は自分が『ルヴェン』だった頃に居た人物。


 ……だが、何処にも居ない。

 あの高らかに笑う贅肉だらけの奥に潜む、グリーンの優しい瞳はどこに行った。


 ロウェルが神妙な顔つきをしている反面、フィリップは大はしゃぎだ、彼はジルウスに引き連れられ船の主砲の方へと歩き出した。


「ったく!この大砲えぐいよな!死ぬかと思ったぜ!」

「あぁ?お前、ちゃんと閃光弾打った後には狙わなかっただろが!」



 二人の会話を横目にロウェルは甲板を歩く、コツコツと乾いた靴音が響いた刹那、後ろから声が掛かった。


「ロウェル、お茶でもどうですか?」


 副長カイツェルバーグだ。


「ああ、構わまいぜ。こっちも少し聞きたい事があったたんだよ」


 と、ロウェルも『この違和感』の正体を掴みたくなっていた。


 二人はこの艦の中で最も静かな副長室、カイツェルバーグの私室へと足を運んだ。


 扉を開くと、そこは知的に満ちた世界。壁に飾られた絵画、古びた蓄音機まで置いてある。そして小さなキッチン、料理を作るためでは無いのだろう。


 数々のラベルの貼られた、瓶詰めの褐色の豆、ソレを挽くためのミル。

 そして、それらを美味しく頂くための器材。


「今日は昔話に合う、この豆にしましょうか」


 そう言うと、カイツェルバーグは一つの瓶から豆を取り出し、丁寧に煎り出した。


 この部屋に芳醇かつ、心が『落ち着く』香りが充満する。



 カイツェルバーグの手つきは、『貴族に提供する為の飲み物』を淹れるサーバーのソレだ。


 ゆっくりと丁寧にそれらを挽き、慣れた手つきで湯を注いでいく。注がれた褐色の飲み物は、ロウェルが今まで飲んだ事の無い『高貴』なものだった。



「カイツさん、俺にはこんな上品な物は似合わないぜ?」


 ロウェルはポロリと言うが……。


「私は『元』貴族の、落ちぶれた両親の子です。貴方は名前を隠しては居られるけれど、『騎士の血統』でしょう? 当たり前のおもてなしですよ」


 ──分かっては居るけれども、バレている。


「聞かないんだな?俺の本当の名前を」


「聞いた所で何になりますか?」


 ──静寂。

 湯を沸かすポコポコとした音と、部屋中に立ち込める珈琲の匂いの流れだけが時間を進める。


「ノッティンさんは……いないのか?」


 ロウェルはその上品なカップを撫でながら問いてみた。



「……。ソレを聞きたいのですか?『ルヴェン君』?」


 その言葉にビクリとした、疾うの昔に捨てた名だ。


「やっぱり、気づいていたんだな?」


 ロウェルはカイツェルバーグとは目を合わさずに問う。


「だから聞いたでしょう?『どこかでお会いしましたよね?』と」


「全く……、何で歳喰うとそんなに敏感になるんだ?」


 ロウェルは呆れ顔で、カイツェルバーグの淹れた珈琲を一口。

 仄かに苦く、そして甘い。鼻腔を抜ける香りはアダーの喧騒とした街並みを彷彿させた。


「……旨い」


 それしか言葉はでなかった。

 街並みの乾いた雰囲気、けれど海風に揺られる洗濯物。そして賑やかな大道芸人達の賑わい。


 全てがその褐色の液体に凝縮されていた。


カイツェルバーグは、ロウェルのその一言を聞くと、わずかに――本当に氷が解けるほどの微かな変化で――目を細めた。


「お気に召したようで何よりです。……ですが、あの男――ノッティンは、この高貴な苦味を嫌っていましたよ」


 カイツェルバーグは自分のカップに視線を落とす。


「あいつは、ここに砂糖とミルクをドボドボと注ぎ込んで、『泥水みてぇに苦いのは嫌いだ! 人生だけで十分だ!』なんて笑って、甘ったるい液体を喉に流し込んでいました」


「……あの人らしいな」


 ロウェルはカップの縁を指でなぞる。


 脳裏に浮かぶのは、いつも汗をかきながら、豪快に笑っていた肥満体の男の姿だ。


「……海戦でした。数年前の」


 カイツェルバーグの声色は変わらない。まるで明日の天気を語るような平坦さだ。だが、その言葉の重みだけが部屋の空気を沈めていく。


「海賊船からの砲撃が、総長――ジルを狙いました。あの大馬鹿者は、舵を離さずに怒鳴り散らしていて、回避が遅れた。……ノッティンは、咄嗟に総長を突き飛ばしたんです」


 ロウェルは息を呑んだ。

 その光景が、ありありと目に浮かぶようだった。


「轟音と共に、主マストがへし折れました。……ノッティンは、その下敷きになった。下半身が、甲板とマストの間で……もはや、人の形を留めてはいませんでした」


 部屋に、コーヒーを啜る音だけが響く。


 それは本来、くつろぎの音のはずなのに、今は祭壇に捧げる祈りのように聞こえた。


「助からないことは、誰の目にも明らかでした。総長は瓦礫を退かそうと発狂したように叫んでいましたが……ノッティンは、もう痛みで意識が飛びかけていた」


 カイツェルバーグは、そっと自分の右手を――かつて友の命を絶ったその手を――見つめた。


「だから、私が短剣を抜きました」

「……あんたが?」


「ええ。彼に、友殺しの業を背負わせるわけにはいきませんから」


 カイツェルバーグはカップを置き、遠くを見る目をした。


 あの日の、血と火薬の匂いが蘇る。


「私は、苦悶する彼の耳元で、こう囁きました。『君は良くやりました、後は私たちに任せて下さい。今、楽にしてあげますから』……と」


 そして、首筋に刃を突き立てた。

 迷いはなかった。迷ってはいけなかった。それが、副長としての、そして幼馴染としての最後の務めだったから。


「……あいつは、最期に笑ったような気がします。


『へへっ、任せたぜ』と、そう言いたげに」


 重い沈黙が降りた。

 ロウェルは、手の中の黒い液体を見つめる。


 ノッティンが嫌った「苦味」。それは、生き残った者が飲み干さなければならない、現実の味そのものだった。


「船長があれだけ騒がしく振る舞うのは、あいつの分まで笑おうとしているからでしょう。……そして私は、あいつの分まで冷静でいなければならない」


 カイツェルバーグは再びカップを手に取り、ロウェル――かつての少年ルヴェン――に向かって、静かに掲げてみせた。


「苦いでしょう? ……でも、これが生きている味です。ルヴェン君」


 ロウェルは何も言わず、ただ頷いてカップを合わせた。

 カチン、と硬質な音が鳴る。


 それは乾杯の音ではなく、互いに背負った十字架を確認し合う、同志の合図だった。


「……あぁ。目が覚めるほど、苦いな」


 ロウェルは一気にそれを飲み干した。

 胃の腑に落ちた熱い塊が、冷え切った過去を少しだけ溶かしていく気がした。



 ──部屋に置かれた蓄音機が、彼らの故郷の音楽を優しく奏でていた。

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