第八十七小節 〜その男、珍妙につき〜
ビルデンの港は、夜明けの重たい海霧に沈んでいた。
石畳を叩く波の音と、荷揚げを待つガレー船が軋む音だけが、無機質に響いている。昨夜の狂乱の残滓である焦げた臭いが、潮風に混じって鼻を突いた。
その霧の向こうから、二つの足音が近づいてくる。
一人は、ひびの入った脇腹を庇うように歩く青年、フィリップ。
もう一人は、周囲の気配を微塵も逃さぬ鋭い眼光を湛えた男、ロウェル。
「……最悪だ。身体中、酒の臭いが染み付いてやがる」
フィリップは顔をしかめ、ひびの入った脇腹を庇いながら、ゆっくりと一歩を踏み出す。昨夜の酒場での「天然爆弾」の余波か、それとも単なる二日酔いか。彼の表情には英雄の覇気はなく、ただの不機嫌な少年のそれだった。
「自業自得だ。あれだけ煽るからだ」
隣を歩くロウェルは、微塵も酔いを感じさせない足取りで進む。だが、そのコバルトの瞳は、雑踏の隙間、積み上げられた木箱の影、そして船の帆の裏側までを、冷徹な精密機械のように走査していた。
その時、二人の背後。港の資材置き場の影で、数人の男たちが息を潜めていたる。
彼らはガラの悪い革鎧に身を包み、手には鈍く光る武器を携えている。一見すれば、革命の混乱に乗じて英雄の首を狙う暗殺者か、あるいは王国軍の残党に見えただろう。
彼らの動作には一切の無駄がなく、明らかに高度な訓練を受けた戦士のそれである。
だが、そのリーダー格の男の心中は、殺意とは程遠い場所にあった。
リーダー格の男が、指先一つで合図を送る。
「……来たぞ。あのマント、間違いねぇ。おい、アレを用意しろ」
部下たちは無言で頷き、左右に分かれて霧の中に消えた。
そんな殺気に満ちた包囲網に、フィリップたちは気づかぬまま足を踏み入れる。
「……すげぇ霧だな。船を出すには最悪だぜ」
「文句を言うな、フィル。まずは交渉できる船主を探すのが先だ」
ロウェルがそう答えた、その時だった。
「おっと!」
前方から現れた大柄な男が、避ける素振りも見せず、フィリップの肩に激しくぶつかってきた。
ドスン、と鈍い衝撃が走る。
「……っ! いってぇ……! おい、どこ見て歩いてんだよ、てめぇ」
「あぁン? どこ見てだと? そっちこそ、俺の肩を壊す気か、兄ちゃん」
男は太い腕を組み、獲物をいたぶるような卑しい笑みを浮かべて凄んでみせた。
それを合図に、周囲の物陰から次々と男たちが湧き出し、二人を完全な円で包囲した。
ロウェルの瞳から、一瞬で温度が消えた。
彼は静かに、けれど流れるような動作で剣の柄に手をかける。
「……フィル、下がれ。こいつら、ただのチンピラじゃない。足の運びが船乗り特有のそれだ」
「あぁ……わかってるよ。ったく、朝から血を見ることになりそうだな」
フィリップもまた、痛みを堪えながら弓に手をかけた。
一触即発の沈黙。港を支配する空気が、今にも弾けそうなほどに張り詰める。
その緊張の糸を、場違いな咆哮が断ち切った。
「ちょほいと待ちなぁ! そこの兄ちゃん達!」
全方位から集まる視線。
その瞬間、コンテナの影から一人の男が姿を現し、天に向けて古びたラッパを構えた。
――パパーン、パパパパーン……!
それは、どこか古い時代の復讐劇を彷彿とさせる、哀愁と殺気を帯びたラッパのイントロだった。
そして、その旋律が終わるか否かのタイミングで、今度はどこからか、情熱的なギターの音が重なった。
激しく、かき鳴らされるラテン調の旋律。
「……なんだ、この音は?」
ロウェルは、首謀者であるはずの怪人よりも先に、そのギターの音色へ目を向けた。
コンテナの上に、一人の男が座っている。
使い古されたギターを抱え、長い指を狂ったように躍らせる男。
(……ロイン?)
ロウェルの思考が、その名を弾き出した。
本来ならここに居るはずのない「詩人」。
だが、ロインはロウェルの視線に気づく風もなく、ただ淡々と、この舞台の旋律を奏で続けている。
その熱狂的な調べに乗って、桟橋の突端から「彼」が降臨した。
頭には巨大なターバン。鼻の下には、どう見ても墨を塗りたくった板のような付け髭。
そして、ひまわり柄が鮮やかに描かれた、宿屋の布団シーツをマントのように翻す。
ーー暫しの静寂。
港を吹き抜ける潮風が、彼のマント代わりのシーツをパタパタと情けなくはためかせていた。
((え……?))
ロウェルとフィリップは顔を見合わせた、共に状況を理解出来ない様だ。
だが、その体格、声、そして、その人独特の眼力。
「兄貴?あれ……、オッサンだよな?」
フィリップは顔を引きつりながらロウェルに問いかける。
「いい大人が何やってんだよ……、ジル」
ロウェルに至っては、眉間に指を当てて大きな溜め息までついていた。
周りの男達のほとんどは戦闘体勢を取ったままだが、目が笑っている。さらには、数人に至っては肩を振るわせながら笑いを堪えている始末だ。
とどの詰まりにロインの伴奏が、彼の超絶技巧独奏へと変わりだしたのだ。
すると、「男」はその演奏に気分が上がり、声を荒げ始める。
「ふっふっふ……! 若者達よ、困っている様だな?
我が名は流浪の商人、ジル・ザ・グレーッ――」
パーンッ!と、乾いた破裂音が、男の言葉を強引に遮った。
「……へ?」
男が間抜けな声を漏らし、硬直する。
背後に立つ紳士風の姿をした男の手には、玩具のクラッカー。
彼の顔は、表情筋の躍動を全て気絶したような無表情だった。
ハラリ……。
色とりどりの紙吹雪と紙テープが、ギターの旋律に合わせて舞い落ち、ターバンの男の上に積もった。
クラッカーの紐を引いた無表情の男の手は、まるで「崇高な任務」を遂行したかのように、ゆっくり、そして厳かに正位置まで戻って行く。
次の瞬間、音が消えた。
ギターの響きも、波の音さえも。
港に、死よりも重い静寂が訪れた。
が、静寂を破る声が響く。
「プッ!ぶひゃははは!な、何だよそれぇ!」
フィリップは脇腹の骨折を忘れたかの様に笑い転げ、「痛ぇ、脇腹痛ぇけど笑い止まんねぇ!」
と、地面を叩きつけながら笑い続けている。
一方ロウェルはと言うと。
「……っ……っ……」
と、必死に笑いを堪えているが、その肩は上下に激しく震えていた。
「……あ、あれ? おいカイツ、お前タイミングがおかしいだろ! 一番いいところだったんだぞ!ギターもジャカジャカ盛り上がってただろーが!」
「……いえ。総長のお粗末な変装では、我らが船団の威厳に泥を塗ると思いまして、強制終了させて頂きました」
カイツェルバーグは無表情のまま、背後のコンテナを指差した。
「それに……ギターの音楽など、どこにもありませんよ」
ロウェルがハッとして目線を上げる。
先程までそこに座り、ラテンの調べをかき鳴らしていたロインの姿は、影も形もなかった。ギターの余韻すら、霧の中に溶けて消えている。
が、1人だけこの茶番を愉しんで居た人物が居た。
「あ、あははははは! ジル・ザ・グレート! ひまわりシーツ! ひぃ、ひぃ……!」
爆笑し続けるフィリップの横で、ジルウスは首を傾げながら懐を探った。
「お、おう。……まぁ、いいや。詩人の兄ちゃん、いい演奏だったぜ。これぁチップだ。……あれ? どこ行ったんだ? さっきまでギター弾いてただろ?」
ジルウスが金貨を手にキョロキョロと周囲を見渡すが、返事はない。
カイツェルバーグは、空になったクラッカーを海へと投げ捨て、冷淡な声で言い放った。
「総長。何を寝ぼけているのですか。最初からギターなんて鳴っていませんよ。……酒が残っているなら、船底で寝ていることですな」
「……え? いや、鳴ってたろ!? ロウェル、お前も聞いたよな!?」
ジルウスに振られ、ロウェルは凍りついたように動けなかった。
耳の奥にはまだ、あの熱いラテンの調べが残っている。
だが、周囲の船団員たちは、ただ困惑した顔で互いを見合わせているだけだった。
昇り始めた朝陽が、ひまわり柄のシーツを眩しく照らし出す。
笑い声の響く港。
けれど、ロウェルだけは知っていた。
今、この一瞬、この場所に「居てはならない者」が介入していた事を。




