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第八十六小節〜長夜の飲〜




 天を焦がすような革命の火は鎮まり、ビルデンの街は今、別の熱気に包まれていた。


 路地裏の至る所で焚き火が焚かれ、勝利を祝う歌声と、誰のものとも知れぬ笑い声が石畳を揺らしている。

 だが、その喧騒から逃れるように、ロウェルは古びた酒場の片隅に陣取っていた。


 木製の重厚なタンカードの中で、白葡萄の酒が揺れている。


 琥珀色に育ったその液体は、この街で数少ない「まともな品」だった。ロウェルはフォークで白身魚のハーブ焼きを切り分け、ゆっくりと口に運ぶ。立ち上るハーブの香りが鼻腔を抜け、舌の上に淡白な魚の旨味が広がる。


 本来なら、これは「優美な食事」の時間であるはずだった。


 しかし、酒場全体を満たす狂乱が、それを許さない。


「はぁ……。どいつもこいつも、騒がしいな」


 ロウェルは小さく溜息をつき、葡萄酒をクイッと飲み干した。


 「民主化バンザーイ!」「呑め! 呑め呑めえぇ!」


 男たちの野太い声が天井に跳ね返り、その足元では女たちがスカートを翻して踊っている。数日前まで死の恐怖に怯えていたはずの民衆が、今は酒という名の麻薬に酔いしれ、理性のタガを外していた。


 立ち込める葉巻とパイプの紫煙が、ロウェルの視界を曇らせる。彼は暗殺者として、常に「日陰」を歩んできた。だからこそ、この「日向」に無理やり引きずり出されたような眩しさと、騒々しさが肌に合わない。


「とりあえず、これに変えるか」


 給仕を呼び、葡萄酒からエールへと切り替える。

 喉を焼くような苦味が、不快な煙の味を洗い流してくれるのを待った。


「そのうちに、フィルも来るだろうしな」


 独り言が、喧騒の中に消えていく。

 その時だった。表通りから、ひときわ高い、波のような黄色い歓声が近づいてきた。


「きゃー! フィリップ様、こっち向いて!」「アタシの店にも寄ってよ!」「英雄様ぁ!」


 扉が勢いよく開き、酒場の中に冷たい夜風と共に、まばゆいばかりの「光」が飛び込んできた。


「っしゃー! 目的地に到着だぜぇ!」


 聞き覚えのある、屈託のない声。

 戦場を駆け抜け、王国の首脳陣を討ち取った「時の英雄」フィリップだ。


 彼の周りには、色香を振りまく踊り子や、一儲けを目論む娼婦たちが鈴なりになっていた。彼女たちはフィリップの逞しい腕に抱きつき、その耳元で甘ったるい声を囁いている。


「ねぇねぇ、ファウリー様! こんな汚い酒場じゃなくて、もっといいお店に行きましょ?」


 一人の女が、ロウェルの座るテーブルを露骨に蔑むような視線で見た。店主が「今夜は祝賀会だ! 文句があるなら出ていけ!」と怒鳴るが、女たちは英雄の関心を引くのに必死で、耳にも貸さない。


 フィリップはといえば、英雄らしい余裕の笑みを浮かべることもなく、ただ鬱陶しそうに手のひらをヒラヒラと動かしていた。


「ここが今夜の目的地なんだよ。さぁさぁ、おネーチャンたちは帰った帰った!」


「えぇー!? 今夜は……アタシたちとお楽しみじゃないの? 英雄様?」


 上目遣いで「色目」を使う女に対し、フィリップは一瞬で表情を消した。冷たく、氷のような素の顔。


「いや、そこに居る兄貴と二人で呑むんだ。約束だからな」


 その一言で退くような女たちではなかった。彼女たちはロウェルの存在に気づき、値を踏み定めるような、あるいは品定めするような視線を向けた。


「ええ!? ファウリー様のお兄さん? ……なんか、暗くない?」

「アレは無いね……。英雄の兄貴にしちゃ、地味すぎるっていうか」


 ロウェルは深く息を吐き、前髪の隙間から、コバルトの瞳をわずかに覗かせた。


 長年、死線を潜り抜けてきた男の視線。それは、ただそこに在るだけで、獲物の喉元に刃を突きつけるような鋭さを持っていた。


「ヒッ!」


 女たちが短い悲鳴を上げ、一歩後ずさる。


「おい」


 フィリップの声が変わった。

 先程までの明るさは消え、殺気混じりの低い振動が、酒場の空気を震わせる。


 彼は一人の女の胸倉を掴み、その顔を至近距離まで引き寄せた。


「俺の兄貴を……家族を、二度と侮辱するな。次は、その舌を引き抜くぞ」


 英雄の顔ではない。戦士としての顔だ。


 女たちは青ざめ、蜘蛛の子を散らすように酒場から逃げ惑っていった。


「……ふう」


 そして彼はロウェルの隣に腰掛けると、エールを頼む、が、店主が「胸糞悪い女どもだったが、スッキリしたぜ?英雄さん、コイツは奢りだ」と、一番大きなタンカードにエールを波々と注いでくれた。


「サンキュー、マスター。有り難く頂くぜ!」


 ……、いや、コイツはもう散々呑んでる筈だ、だが、そのエールは川の流れのように弟の体内に流れ込んでいく。


「ぷっふぁああああぁ!旨い!」


 テーブルに叩きつけられたタンカードが、カツン!と、乾いた音を立てる。


「どんだけ呑むんだよお前!」


 ロウェルは心配気にフィリップ声を掛けるが、「あん?これが一杯目だぜ?兄貴」と、ほぼシラフだ。


 そして二人の夜は更けていく。


 ーー深酒が進んだ頃だ、ロウェルも酔いが回りフィリップに問いかけた。


「なんだよフィル、つれないなぁ。せっかくモテモテだったんだぜ?」


 ロウェルはエールを一口煽りながら、からかうように言った。


「若くて独身、しかも今や国の英雄だ。少しぐらいハメ外して、遊んでから帰ってもバチは当たらないぜ?」


 ロウェルの言葉に、フィリップはキョトンとした顔で首を傾げる。


 そして、さも「空が青いのは当たり前だろ」と言わんばかりの平然とした口調で返した。


「は? いや、俺の中の女は一人しかいねーから。そんなことしねーよ」



 ロウェルは苦笑した。



 こいつは昔から、姉であるレーネのこととなると盲目的だ。


「はいはい、大好きなお姉ちゃんね。レーネも愛されてて幸せもんだな」


「あ?」


 フィリップは眉をひそめ、心底不思議そうな顔でロウェルを見た。


「何言ってんだ兄貴。姉ちゃんは肉親だろ? 家族じゃん」


「……ん? じゃあ、お前の言う『一人しかいない女』ってのは……」


 フィリップはジョッキを置き、真顔で言った。


「俺の女っつったら、ユイしか居ねーじゃん?」


「ぶぅぅぅッッ!!!」


 ロウェルの口から、琥珀色のエールが霧状になって噴き出した。


 盛大な飛沫がテーブルを濡らし、フィリップが「うわっ、汚ねぇ!」と仰け反る。


「ゲホッ、ゴホッ……! お、お前……マジで言ってんのか……?」


「は? マジも何も、ユイ以外に誰がいんだよ」


 ロウェルは咳き込みながら、目の前の義弟を凝視した。


 そこに嘘や照れは一切ない。あるのは、あまりにも真っ直ぐすぎて凶器にすらなり得る、純度100%の好意だけだった。


(……こいつ、無自覚かよ……! いや、自覚ありの無自覚か!?)


 ロウェルは頭を抱えた。


 英雄になった弟は、弓の腕だけでなく、天然ジゴロのとしての才能も開花させていたらしい。



 ロウェルはようやく咳き込みを収め、濡れた口元を拭った。


 この弟は、戦場では天才的な勘を発揮するくせに、色恋沙汰になると途端にネジが数本飛びやがる。


 やれやれ、とロウェルは呆れたように息を吐き、話題を変えることにした。


「……まぁいい。とりあえず、明日は朝一で港へ行くぞ。キラフへ帰る船を探さなきゃならないからな」


「おう、わかった。早く帰らねぇと、姉ちゃんたちが心配するもんな」


「あぁ、そうだ」


 ロウェルはそこで、少しだけ兄らしい気を利かせた提案を思いついた。


 フィリップの脇腹のこともあるし、何より「俺の女」とまで言い切ったのだ。形から入るのも悪くないだろう。


「港へ行くついでに、市場へ寄ろう。お前の脇腹を治す湿布薬と……あと、指輪でも買いに行くか?」


「あ? 指輪?」


「お前なぁ……ユイーブちゃんにあげるんだよ。これからプロポーズするつもりなら、それくらい用意してやれ」


 ロウェルは、我ながら良い助け舟を出したと思った。


 だが、フィリップはキョトンとした顔で、タンカードの底に残ったエールを煽りながら答えた。


「指輪? あー、それならいいわ」


「は? いいって、お前……金なら今回の仕事で、当面のレンの薬代でもお釣りが溢れてるんだぞ?」


「いや、違げーよ」


 フィリップはポリポリと頬を掻き、さも「今日の天気」を語るような軽さで言った。


「指輪なら、随分前に買って俺の部屋に置いてあるぜ?」


「ブッッッフォオオォォォッッ!!!」


 本日二度目。


 ロウェルの口から、さっきよりも勢いよく、そして広範囲に琥珀色の霧が噴射された。


 向かいの席のフィリップだけでなく、通りがかった給仕までもが被害を受け、「ひゃっ!?」と悲鳴を上げる。


「げほっ! ごほっ……おえっ……!」


「うわっ、汚ねぇな兄貴! 何回やんだよ!」


「て、てめぇ……が……変なこと……言うからだろ……ッ!」


 ロウェルは涙目でテーブルを叩いた。


 呼吸困難になりかけながら、信じられないものを見る目で義弟を睨む。


「か、買ってある……だぁ!? いつの間に!?」


「ん? いつだっけな……街で綺麗な石見つけたから、ユイに似合うと思って加工してもらったんだよ。今は机の引き出しん中だけど」


「机の引き出し……ッ!」


 宝石箱ですらない。


 だが、それがフィリップ流なのだろう。

 ロウェルは天を仰いだ。


 こいつはバカだ。バカだが……ユイーブを想う気持ちだけは、誰よりも早くて、誰よりも準備万端だったらしい。


(……完敗だ。こりゃ、俺が口出す幕じゃないな)


 ロウェルは濡れたテーブルを拭きながら、心の底から苦笑した。


 明日の船旅、そしてその後のプロポーズ。


 どうやら、心配する必要はなさそうだ。……ただ、ユイーブが嬉しさのあまり気絶しないか、それだけが心配の種だった。

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