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第八十五小節 〜Nessun dorma〜


 天を焦がす黒煙が、かつて栄華を極めたビルデン王国の空を灰色に塗り潰していく。


 崩れ落ちた城壁、砕け散った石畳、そして折り重なるように倒れた無数の骸。大地に染み込んだ血の臭いと、肉が焼ける脂の臭いが混じり合い、鼻腔を、肺を、そして精神を内側から犯していくようだった。


 内戦の激化、それはもはや戦争という枠組みを超え、一つの巨大な「崩壊」という現象と化していた。


 その混沌の最中、ビルデン城――その象徴たるバルコニーに、一つの影が立った。


 爆ぜるような咆哮が、戦場の轟音を切り裂いて木霊する。


「国王アルフェルスト! 並びに騎士団長エーウディア! その首、この俺が獲ったぞおおぉッ!!」


 声の主は、未だ少年の面影を残す若き戦士、フィリップであった。


 だが、その姿に幼さは微塵もない。彼の両手には、無惨にも胴体から切り離された二つの首級がぶら下げられている。


 滴り落ちる鮮血が、バルコニーの白亜の手摺りを汚し、下界を見下ろす彼の双眸は、興奮と、そしてどこか別の感情がない交ぜになった異様な光を放っていた。


 その瞬間、戦場を支配していた時間が凍りついた。


 剣を交えていた者たち、逃げ惑う者たち、全ての視線が頭上の一点に吸い寄せられる。


「まさか……!? 陛下……ぁ?」

「嘘だ、団長が……あの団長が負けるはずがない!」

「あぁ、あぁぁ……終わった、ビルデンは終わったんだ……!」


 王国軍の騎士たちは、手から武器を取り落とし、あるいはその場で膝から崩れ落ちていく。彼らの精神的支柱であった二つの巨星が、同時に墜ちたのだ。その事実は、剣で体を貫かれるよりも深く、彼らの戦意を両断した。


 絶望に沈む王国兵の中で、ある一人の古参騎士が、フィリップの身に纏う装備を見て、引きつけを起こしたように震え上がった。


 対象の血液を血液と見なさない深紅のマントと、ソレを洗い流す清流の様な蒼いマフラー、特徴的な意匠。記憶の底にある恐怖が蘇る。


「アレは……まさか、旧フェルダイの……『竜討騎士ドラゴンバスター』だと!?」


 その呟きは、さざ波のように王国軍の中に伝播した。

 かつて竜をも屠ると謳われた伝説の装備。それを纏う者が現れたという事実は、彼らにとって死神の到来と同義だった。動揺は恐慌へと変わり、精強を誇った騎士団の隊列が乱れ始める。


 だが、絶望の底はまだそこではなかった。

 フィリップはバルコニーの手摺りに足をかけ、さらにもう一つの「絶望」を掲げたのだ。


「我らの『竜依戦士ドラゴンウォーリア』、グラマス卿はどうした!?」


 王国軍の最後の希望、最強の切り札の名を叫ぶ兵士に対し、フィリップは獰猛な笑みを浮かべて応える。


「テメーらの切り札も、俺が獲った! 観念しやがれェッ!!」


 宙に掲げられた三つ目の首級。それは、変わり果てたグラマスのものだった。


 戦場に一瞬の静寂が落ち、直後、爆発的な歓声が沸き起こった。


「うおおおおぉっ! やった! 勝ったぞ!」

「あのガキ、なんて強さだ! 一人で王国のトップを皆殺しにしやがった!」

「俺たちの勝利だ! ビルデンは落ちたんだ!」


 反乱軍の兵士たちは、ボロボロになった身体の痛みも忘れ、狂ったように拳を突き上げる。勝利の美酒に酔いしれる彼らの目には、フィリップは救世主として映り、王国兵たちには破壊神として映っていた。



 阿鼻叫喚の地獄絵図。



 「陛下ぁああ!」「グラマス卿が、まさか……嘘だと言ってくれ!」と泣き崩れる騎士たちを、反乱軍の兵士たちが嘲笑いながら追い詰めていく。


 そんな狂騒のただ中へ、一人の男が足を踏み入れた。


 戦場の血生臭さとは無縁の、あまりにも軽やかな足取り。


 その顔面は、不気味な髑髏しゃれこうべの仮面の様な顔立ち。


 反乱軍の指導者、マスカルである。


 彼はゆっくりと、まるで舞台袖から現れた指揮者のように戦場を見渡した。そのギョロギョロとした瞳は、勝利の喜びに濡れているわけではない。


 そこにあるのは、もっとドス黒く、粘着質な『何か』――他者の破滅を糧とする、純粋な悪意と愉悦だった。


「諸君! ご苦労ですよ! 素晴らしい、実に素晴らしい光景だ!」


 マスカルは両手を広げ、崩れ落ちる城と死体の山を抱擁するかのように叫んだ。


「さあ、私が……『私の』新しいビルデンを作るのです! 古い秩序は死に絶えました! これからは、欲望のままに、あるがままに生きるのです!」


 通常の精神状態であれば、その発言の異常さに気づいただろう。「私たちの」ではなく「私の」と言い放った独占欲。そして「新しい国」の理念にしてはあまりに享楽的な響き。


 だが、アドレナリンと勝利の興奮に脳を焼かれた反乱軍の兵士たちには、その言葉はただの『高らかな勝利宣言』としか受け取れなかった。彼らはマスカルの名を連呼し、さらなる熱狂の渦へと身を投じていく。


 その光景をバルコニーから見下ろしながら、フィリップは強く拳を握りしめた。

 手の中にある首級の重みと、生温かい感触が、掌を通じて全身にこびりついている。


 何故、フィリップが国王と騎士団長の首級を掲げたのか。

 何故、彼が「全てを成し遂げた英雄」としてそこに立っているのか。




 ――時間は、三十分ほど前に遡る。



 城内の一角、隠れ家のような質素な小屋。

 外の喧騒が嘘のように静まり返ったその空間には、濃密な死の気配と、鉄錆びた血の匂いが充満していた。


「……兄貴、ここに居たのか。無事で良かったぜ」


 フィリップがその部屋に踏み込んだ時、最初に目に飛び込んできたのは、床に転がる男の生首と、胸を貫かれて絶命している、自分と年変わらぬ男の姿だった。


 騎士団長エーウディアと、国王アルフェルスト。

 この国の頂点に立つ二人が、まるでゴミのように転がされている。


 そして、その傍らに佇む男――ロウェル。

 彼は返り血を拭おうともせず、ただ静かに、事切れた国王を見下ろしていた。


「兄貴、この二人って……。目標!? マジかよ、アンタ一人で……!?」


 フィリップの声が震える。脇腹に走る激痛を押さえながら、彼はロウェルへと歩み寄った。


「あぁ、終わったよフィル。後は仕上げだな」


 ロウェルはゆっくりと振り返った。その表情は、大仕事を終えた達成感など微塵もなく、ただ事務作業を終えたかのような冷徹さと、深い疲労の色が滲んでいた。


 ふと、義弟の様子に気づき、ロウェルの眉がわずかに動く。


「フィル、どうしたんだ? 脇腹……痛むのか?」


 心配そうな声色に、フィリップは痛みを誤魔化すように呆れ顔を作ってみせた。


「ジルウスのオッサンのお陰で、命拾いはしたけどよ。多分折れてるな、アバラの二、三本は。息するだけで響きやがる」


「そうか……。俺も派手にふっとばされたよ。ほんっと、いい加減なクソ親父だよな、あの人は。嫌いじゃないけどな」


 フッ、とロウェルの表情が緩む。その一瞬だけ、彼は「死神」ではなく、ただの「兄」の顔に戻っていた。


 だが、その安らぎは刹那のものだった。


 ロウェルの瞳に、射抜くような真剣な光が宿る。彼は一歩踏み出し、フィリップの肩に手を置いた。


「なぁフィル。頼みがある」

「……なんだよ、改まって」


「この手柄、全部お前にやるよ。お前が『獲った』事にしてくれ」


 フィリップは瞬きをした。


 言葉の意味を理解するのに、数秒の空白を要した。

 窓の外から聞こえる砲撃音や怒号が、この時だけは、時を刻む時計の秒針のように規則正しく聞こえた。


「は? 何言ってんだよ兄貴」


 フィリップは思わず声を荒げた。


「兄貴の取り分だぜ? 国王と騎士団長だぞ? これをアンタがやったって言えば、間違いなく英雄になれるんだぜ!? なんでそれを……」

「悪いな」


 ロウェルはフィリップの言葉を遮り、寂しげに笑った。


「俺には、日向は似合わないし、似合わせたくもないんだ。それに、俺はお前みたいにデカい声で皆を鼓舞したり、希望を見せてやることはできない。俺は、影でいい」


「兄貴……」


「頼む、フィル。この国には、新しい象徴が必要なんだ。血に塗れた暗殺者じゃなく、光の中に立てる『英雄』がな」


 フィリップは言葉を詰まらせた。


 ロウェルの目は本気だった。彼は自分の功績を誇ることも、名声を求めることもない。ただ、フィリップという器に全てを託そうとしている。それは信頼の証であり、同時に、重すぎる呪いのようにも感じられた。


 フィリップは申し訳なさそうに左頬を少し掻いた後、苦虫を潰したような顔で、しかし力強く頷いた。


「……わかったよ。じゃあ、じゃあ俺が『全部』貰って良いんだな!? 英雄の称号も、名声も、全部俺のものにしてやるよ!」


「あぁ、お前だから頼んでるんだよ。頼んだぜ、英雄さん」


 その言葉を合図に、フィリップは足元に落ちていたエーウディアの剣を拾い上げた。


 既に事切れている国王アルフェルストの首に刃を当て、一息に切り落とす。骨を断つ嫌な感触が手に残る。


 二つの首は、フィリップの手に委ねられた。


「お前はその首を掲げろ。で、散々英雄扱いされて、ちやほやされて来い。……明日の夜、ジルと昨日飲んだ酒場で待ってる。また、明日な」


 そう言い放つと、ロウェルは砂煙と硝煙の向こう側へと背を向けた。


 その背中は、どこか寂しく、しかし重荷を下ろしたような軽やかさも帯びていた。影の中に溶け込むように、彼の姿は消えていった。


「……んじゃ、有り難く頂きますか! 名声って奴を!」


 フィリップは空元気でそう吼えると、首級を鷲掴みにし、ビルデン城のバルコニーへと続く階段を駆け上がっていった。


 心臓が早鐘を打っているのは、怪我のせいか、それともこれから吐く大嘘への緊張か。

 彼は英雄を演じなければならない。兄が託した、最強の道化を。



 ――そして時は現在へと戻る。



 フィリップの演説は完璧だった。

 彼は民衆が求める「強き者」を見事に演じきり、瞬く間に「時の英雄」として祭り上げられた。


 ビルデン城下町は、狂乱の坩堝と化していた。

 それはもう、祭りなどという生易しいものではない。


 長年の圧政に耐え抜いた人々、飢えと貧困に喘いできた下層民たちが、その鬱憤を爆発させていた。堰を切ったように溢れ出した感情は、理性というタガを簡単に外してしまう。


 広場には反乱軍が略奪した酒樽が山のように積まれ、底が抜けるほどに酒が振る舞われた。

 ビルデンの国旗は引きずり下ろされ、山積みにされて火を放たれた。燃え盛る炎が、狂喜乱舞する人々の顔を赤く照らし出す。


「飲め! 歌え! 今日は俺たちの独立記念日だ!」

「王国の犬どもを皆殺しにしろ!」


 夜が明けても、その騒ぎは収まるどころか、さらにエスカレートしていった。


 街中がアルコールと嘔吐物、そして血の臭いに埋もれていく。



 酒池肉林。



 かつて騎士として誇り高く振る舞っていた者たちが、今や泥の中で命乞いをしている。人々はそれを囲み、石を投げ、棒で殴り、刃物で甚振った。


 女性兵士に対する扱いは、さらに惨たらしいものだった。彼女たちの悲鳴は、歓声と嘲笑にかき消され、誰の耳にも届かない。犯され、嬲られ、そして命を奪われていく。



 誰も止めなかった。



 止めようとする理性を持つ者は、既にこの街にはいなかった。

 あるのは、解放という名の暴力と、自由という名の堕落だけ。


 そして、この人道外れた行為を推進し、容認し、誰よりも愉悦の表情で見下ろしていたのは、あの髑髏の様な男――マスカルだった。


 彼は城のテラスでグラスを傾けながら、眼下に広がる地獄を愛おしそうに眺めている。


「素晴らしい……。人間はこうでなくては。秩序という皮を剥げば、中身はこんなにも醜く、美しい獣だ」


 彼の目論見通り、ビルデンは「解放」された。

 道徳からも、倫理からも、そして人間性からも。

 空には満月が輝いているが、誰一人として静寂の中に眠る者はいない。



 叫び声、泣き声、笑い声、断末魔。



 それらが混然一体となった不協和音が、夜通し鳴り響く。


 

 誰も寝てはならぬ。寝てなど居られない。



 それは勝利の凱歌ではない。

 終わりのない悪夢の幕開けを告げる、呪いの旋律だった。

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