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第八十三小節〜とも よや すら かに〜



 肺の奥が焼けるような熱を帯びていた。


 ロウェルは一人、灰色の静寂を突き抜けて駆けていた。


 目指す先は、かつてこの国の権力の中枢に座していた兄、あるいは親友の父たちから密かに聞き及んでいた『隠された避難通路』の終着点だ。

 王族とその側近のみに継承されるその場所を、彼は脳内に刻まれた記憶の地図を頼りに手繰り寄せていた。


 そこには、今まさに行使すべき刃の対象――実の父が、王を守る最後の盾として控えているはずだった。


 しかし、その「聖域」へと至る道のりは、あまりにも無慈悲な鮮血に塗り潰されていた。


 彼の手にする剣が、黒い闘気を帯びて弧を描くたび、立ち塞がる兵士たちが声なき断末魔と共に崩れ落ちていく。


 幾度となく繰り返される、肉を断つ感触。


 ふと視界に飛び込むのは、泥にまみれ、事切れた男たちのかたちだった。


 見知った顔だ。旧友の顔だ。十数年前に同じ学び舎で、共に理想の騎士道を、この国の未来を語り合った学友たちの、変わり果てた成れの果てだ。


 ロウェルは、その一切を感情の奥底へ突き落とし、ひた走る。


 長い前髪の隙間から覗くコバルトの瞳は、いまや色彩を失い、底の見えない絶望の淵を彷徨っていた。


「侵入者め! ここは断じて通さんぞ!」


 正面から響いた怒声が、ロウェルの足を一瞬だけ凍りつかせた。


 そこに立ち塞がったのは、初老の巨躯を鋼の鎧に包んだ老練な騎士だった。



 ――この、あまりにも無謀な奇襲作戦の初期段階において。

 ロウェルがその喉元を迷いなく貫いたかつての学友の、実の父親であった。


「掛かって来い! 我らが王と、国の未来の為に!」


 男が構える巨大な斧が、青白い闘気を纏って大気を震わせる。


 その瞳に宿っているのは、一点の曇りもない使命感と、国を護る戦士としての気高い誇りだ。


 彼はまだ、知らない。自分の愛する息子が、目の前の男の刃によって、既に物言わぬ骸へと変えられた事実を。


(……ああ、あんたはまだ、何も知らないのか)


 その残酷な無知が、ロウェルの胸をいかなる物理的な刃よりも鋭く抉った。


 真実を告げてやる慈悲すら、今の自分には許されていない。


 さらに、ロウェルは見てしまった。

 展開した兵士の群れの中に、明らかに足元の覚束ない、腰の曲がった老兵の姿があることを。


 ヘイウッド――。幼い頃、城の庭で一人孤独に泣いていたロウェルを見つけ、震える手でこっそりと甘い飴を握らせてくれた、あの心優しい熟年騎士だ。


 時を経た今、彼はかつての幼子を「国家の敵」として見据え、震える拳で槍を構えている。


(……ヘイウッドさんまで、俺が消さなきゃならないのか)


 ふと意識を研ぎ澄ませば、周囲の遮蔽物の陰から、重なり合う複数の詠唱が響き渡っていた。


 ――ハメられた。


 その直感と同時に、ロウェルの周囲の空間が異常な熱量を伴って歪み、無数の炎の精霊たちがその姿を現した。


「くっ……!」


 ロウェルが反射的に防御の構えを取ると同時に、世界は紅蓮の色彩に呑み込まれた。


 四方を囲む灼熱の檻。だが、肌を焼く熱よりも、胸の内で暴れまわる罪悪感の方が、彼を激しく苛んだ。


 葛藤がなかったわけではない。


 ロウェルの真の実力を以てすれば、この程度の精霊の炎など、肌寒い季節に吹く木枯らし程度のものに過ぎない。


 だが、この劫火を放っている者たちも、その火線に命を懸けている者たちも、全員が彼の人生の断片を彩ってきた「知っている顔」なのだ。



 殺したくない。



 けれど、ここで足を止めれば、これまでに積み上げてきた全ての犠牲が、ただの無駄死にへと成り下がる。


「……ああ。分かったよ、全部」


 ロウェルは荒れ狂う火炎の中で、深く、地を這うような溜め息を一つ吐き出した。


 脳内を巡る思考は、瞬時にして氷のような冷徹な結論を弾き出す。


 『進まなければならない。この手で、全てを終わらせるために』


 ロウェルは構えていた剣を低く下げ、眼前に迫る炎の壁を、光の消えた瞳で射抜いた。


「俺を本気で焼きたきゃ、『神のほむら』でも持って来るんだな!!」


 怒号の声で言い放つと、彼は左手のグローブを、歯で食いちぎるようにしてわずかに捲り上げた。


 手の甲さえも露出していない、わずか数センチの隙間。

 そこから、この世の物理法則を拒絶するような、どす黒い霧が噴き出した。


 霧は一瞬にして霧散し、周囲を埋め尽くしていた紅蓮の炎を貪り食うように侵食していく。


 次の瞬間、それは熱も光も持たない、地獄の『黒い炎』へと変貌を遂げた。


 それは、一瞬の出来事だった。


 息子の最期を知らぬ父も、かつて飴をくれた老騎士も。


 その劫火を前にしては、最期の言葉を発する時間すら与えられなかった。


 黒い炎は、音もなく、ただそこに存在していた「命」という概念を、無慈悲に、そして完全に消し去った。


 後に残されたのは、焦土と化した大地と、虚空を舞う微かな塵。


 そこに居たはずの、彼がかつて愛した『知っていた顔』は、もはやこの世界のどこにも存在しない。


「ハァ……ハァ……。クソッタレが……ッ!」


 ロウェルは剣を荒々しく大地に打ち付け、内臓から絞り出すような悪態を吐いた。


 常に冷静沈着を貫いていた彼が、肩を大きく上下させ、醜く顔を歪めている。


 ロウェルは喉を激しく上下させ、競り上がってくる『全て』を、力任せに飲み込んだ。


 そうして、左薬指に嵌められた細いリングを、縋るように見つめる。


「レン、待ってろよ」


 再び歩き出したその背中は、以前よりも心許なく、小さく見えた。


 彼はビルデン城の背後に広がる、静寂に包まれた王族の墓地へと足を向ける。

 古びた墓守たちの小屋。それこそが、隠し通路の最終到達地点であった。


 ロウェルは眼光鋭く、その小屋を射すくめた。

 不気味なほどに人の気配がない。敢えて警備を最低限に抑えることで、ここが要人の避難場所であることを隠匿しているのか。あるいは、既に――。


 ロウェルは乱れた呼吸を整え、極限の警戒と共に一歩を踏み出した。


 ――その時だった。


 鼓膜を直接引き裂くような、巨大な崩壊音が世界を揺らした。


「何だ……ッ!?」


 ロウェルが振り返り、その光景に言葉を失った直後。

 数秒遅れて押し寄せた、不可視の衝撃波が彼の全身を叩いた。


 大地が震え、大気が悲鳴をあげる。


 抗う術もなく吹き飛ばされたロウェルは、近くの巨樹に背中から激突した。


「ぐっ……、はぁッ……!」


 背骨を伝う鈍い激痛と、耳の奥を刺す耳鳴り。

 彼は耳を押さえ、泥を噛みながら這い上がると、視線の先に広がる地獄絵図を凝視した。


 ビルデン城の約半分が、まるで巨大な獣に食いちぎられたかのように消失し、そこから悍ましいまでの火柱が立ち昇っていた。


 それは魔法による火炎ではない。火薬と熱量が生み出した、もっと原始的で、圧倒的な物理の暴力。


 しかし、その規模はあまりにも常軌を逸していた。


「何を……何をすれば、城を半分も消し飛ばせるんだよ……!」


 呆然と立ち尽くすロウェルの脳裏に、ふと、水平線の彼方で豪快に笑い飛ばす、あの大男の貌がよぎった。


『ガハハ! 細かいこたぁ気にするな! 気合だ、気合!』


「……ジル。あんたかよ」


 ロウェルは、乾いた笑いを漏らし、手の甲で口元の泥を拭った。


「加減ってものを知らないのか、あの人は。いつも……いつも大雑把で、無茶苦茶だ」


 眼前に広がる破壊の光景。


 それは本来、騎士として、そしてこの国を愛する者として、嘆くべき惨劇のはずだった。


 だというのに、今のロウェルには、その爆風さえもが不思議と心強く感じられた。


 自分が独りで過去の亡霊に怯え、感傷に溺れている間に、仲間たちはこうして全力で、それぞれの戦場を切り拓いている。


「加勢はしてやるが、後は『気合と根性』でなんとかしろ――ってか。全くだ」


 ロウェルは力強く立ち上がり、装備にこびりついた枯れ葉や雑草を乱暴に払い落とした。


 先ほどまで彼を縛り付けていた、重苦しい停滞の空気は霧散していた。


 仄暗かったコバルトの瞳に、再び、鋭い戦意の火が灯る。


 彼は再び、墓守の小屋へと歩みを進めた。

 小屋の周囲には、濃密な静寂が張り付いていた。


 外の地獄が嘘のように、建物の中は埃っぽさと古い木材の匂いに満ちている。


 無人か――そう断定しかけた、その瞬間だった。


「……陛下、こちらでございますぞ。足元にご用心を」


 聞き間違えるはずのない、懐かしく、そして世界で一番聞きたくなかった声。


 それが、部屋の奥にある古びた用具棚の裏から漏れ聞こえてきた。


 重厚な石が擦れ合う鈍い音と共に、棚が滑るように横へと移動する。


 開かれた隠し通路の闇。


 その深淵から、一人の男が静かに姿を現した。


「……!」


 そこに立っていたのは、ビルデン近衛騎士団長。

 『金剛獅子』の異名で知られる、エーウディア=エスメラルダ。


 二人は、相見えてしまった……。



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