第八十二小節〜弾き切るは、永久(とこしえ)の太き弦〜
呼吸をするたびに、乾いた喉が引き攣れたように鳴る。
酸素を求める肺の活動が、風の咆哮にかき消されていく。
「……こんなの聞いてねぇじゃねーか!」
フィリップは、ビルデン城の中腹に突き出た展望塔ーーそのわずかな石造りの影に身を滑り込ませていた。
石壁の向こうでは、世界を切り裂くような暴風が吹き荒れている。
ただの風ではない。見えない刃を含んだ殺意の塊だ。
背中を預けた石壁が、風の刃によって徐々に、だが確実に削り取られていく振動が、骨伝導で直に響いてくる。
それはまるで、死への秒読みのようだった。
「あのマスカルのオッサン! なーにが『その武器が有れば楽勝』だよっ! いきなり前衛全滅じゃねーか!」
恐怖と苛立ちが混ざり合い、フィリップの左手は無意識に動いていた。
爪を立て、皮膚が赤く腫れ上がるほどの力で、左頬を何度も掻き毟る。痛みが、かろうじて彼を恐慌状態の淵から繋ぎ止めていた。
ーーほんの二十分ほど前のことだ。
反王政集団は、ビルデン城へ続く城下町の大通りにその力の全てを集結していた。
延べ百150人は居るだろうか。さまざまな国から、金に釣られて集まった荒くれ者たち。
むせ返るような男たちの汗臭さと、手入れの悪い鉄の匂い。
その熱気の中心から、場違いなほど陰湿で、粘り気のある声が響いた。
「さーて、集まってくれた皆の者! ここから先は早いもの勝ちですよー」
声の主の名は、マスカル=アーバスタ。
白亜の手袋に包まれた指先で、自身の膝を一定のリズムで叩き続けている。
「……妙ですね。王城前だと言うのに、こんなに静かだなんて」
十数年の歳月は、彼の肉体から贅肉という贅肉を削ぎ落としていた。
かつて細身だった体躯は今や骸骨のように枯れ細り、上質な紳士服の中で肩が鋭く角張っている。
神経質に整えられていた黒髪は、今は頭皮に張り付くほど大量の整髪料で塗り固められ、不自然な光沢を放っていた。それは、後退した生え際と、そこにある老いを必死に隠蔽しようとするあがきにも見えた。
眼窩から飛び出さんばかりの眼球が、戦況報告に来た傭兵をねめつける。
その眼下には、何年もの不眠を物語るどす黒い隈が刻まれていた。
そして、駆けつけた傭兵の斥候が肩で息をし、事の重大さを伝える。
「大将さんよ、どうやら敵に竜依戦士が混ざってるみてぇだ……アレはヤバそうだぜ? 何か手はねぇのか?」
「何だって!? 竜依戦士だと?」
その単語を聞いた瞬間、マスカルの膝を叩く指が凍りついたように止まった。
かつてビルデンを魔石以上に恐怖のどん底に叩き落した『厄災』。
彼もその時、その場に居たのだ……。あの絶対的な絶望が、脳裏に蘇る。
顔中にじっとりとした脂汗が滲み、全身を強張らせて一歩、二歩と後退る。
逃げなければ。金も名誉も、命あっての物だ。
その時だ。マスカルの泳ぐ視線の端に、今では歴史の影に潜んだーーだが、彼にとっては希望の光に見える装束が映り込んだ。
蒼いマフラーに紅いマント。
竜を討つための遺物。
「……良い物を、見つけた」
マスカルの唇が三日月型に歪む。彼は薄ら笑いを浮かべながら、その獲物の方へと歩みだした。
一方、フィリップは。
「なぁ、兄貴。すげぇ人だらけだ……しかもゴツい野郎ばかりじゃね?」
周りの傭兵達の迫力、筋肉、そして荒くれた顔立ち。色々な国の言葉がひしめき合うその混沌とした状況に、フィリップは瞬きを繰り返すばかりだった。
極度の緊張からか、無意識に左手が頬に向かって動いていく。
「フィール、いい加減その癖やめろ。人間相手だと、自分がテンパってるのバレバレになるぞ」
不意に伸びてきた手がフィリップの腕を掴み、その動きを制止した。
義兄のロウェルだ。
「え? マジで動いてた? もうこの癖治ったと思ってたんだけど」
「事あるごとに掻いてるぞ、お前。完全に無意識かよ……」
照れ隠しにへらりと笑うフィリップ。
だが、ふと見つめ返したロウェルの瞳には、笑みはなかった。
それは静かで、どこか遠くを見ているようなーー『何か』覚悟を決めた戦士の瞳に見えた。
唾を飲み込んだフィリップの鼻孔を、不意に強烈な香水の匂いが突いた。
戦場の鉄と泥の匂いを無理やり塗りつぶすような、嫌な甘ったるさ。
「やぁ、そこの君! 良い装備を持っているね!」
妙に神経を逆なでする様な声色。
振り返るとそこに、骸骨のような男ーーマスカルが立っていた。
「初めまして、私はマスカル=アーバスタ。君たちの雇い主だよ」
マスカルはその異様に大きな瞳で、フィリップを足先から頭頂部まで、ねっとりと値踏みするように舐め回す。
「んあ? 昨日の集会の時のオッサンか。その雇い主様が俺達に何の用だよ」
「ん? 『俺達』? ……君しか居ないようだが?」
「は?」
その言葉に、フィリップは勢いよく横を向いた。
隣に立っているはずのロウェルの姿を探す。
「あれ? 兄貴? ……っかしーな、さっきまでここにいたのに?」
人混みに紛れたのか? いや、腕を掴まれていた感触は数秒前まで確かにあったはずだ。
「ほう、兄弟で参加かね。もしや君のお兄さんも『竜討騎士』だったりするのかなぁ?」
下品な笑みを深めたマスカルは、さらにフィリップの背中の弓へと視線を這わせた。
おそらく、マスカルの頭の中では皮算用が弾かれているのだろう。竜討騎士の装備が二人分も有れば、自分は安全な場所から高みの見物ができる、と。
「……ま、いい。君だけでも十分だ。とても良い」
マスカルは手袋越しの手で、フィリップの肩をなれなれしく叩いた。
「是非とも主力部隊に入ってはくれまいか? その武器が有れば楽勝だよ」
「え? そうなの? ヤベ、俺って人気者?」
快活な笑みを見せるフィリップだが、マスカルはまたもや口の端を歪める。
「突入は十分後だ、その時に先頭集団まで来ておくれ、頼んだよ?」
「お、おう、任せとけ!」
するとマスカルはフィリップに背を向けて、傭兵達の中へと姿を消した。
「行ったか?」
突如、フィリップの背後からロウェルの声がかかる。
「うわ! びっくりした! 兄貴どこ行ってたんだよ!?」
「ちょっとアイツとは顔を合わせたく無かったんでね、人混みに隠れてた」
ロウェルはフィリップの頭を乱暴に撫で回し、彼を諭す。
「俺は別働隊で動く、お前の前線楽しみにしてるぜ?」
「一緒に行かねーのか? ……行ってくれねーのか?」
フィリップは眉尻を下げながらロウェルの腕を掴む。
「俺はやるべき事があるからな、お前はこの戦いでちゃんと『男』になってこいよ。レンの為じゃなく、ユイーブちゃんの為に。……死ぬなよ」
ロウェルの言葉にフィリップも覚悟を決めた。
「ああ、爺ちゃんのオンボロがどう役に立つか、仮にも竜殺しの装備だもんな! 兄貴も死ぬなよ、絶対に二人で帰ろうぜ」
そうこうしていると、男達が鬨の声を上げた。
そして、戦いの火蓋は切って落とされた。
「行くぞオラァァァ!!」
「この数なら押し切れる! 一番首は俺のもんだ!」
傭兵たちの雄叫びが空気を震わせていた。
フィリップは、熱狂する集団の少し後方で、祖父の形見である蒼いマフラーを口元まで引き上げ直していた。
背には真紅のマント。手には、弦の張られていない奇妙な弓ーー自身の闘気を矢として具現化する『竜討ち』の古き武具。
周りの荒くれ者たちが持つ粗雑な鉄剣とは、明らかに格が違っていた。
(……嫌な予感がする)
フィリップがそう思った、次の瞬間だ。
首に巻いた蒼いマフラーが、まるで氷柱を押し当てられたように鋭く冷たく、肌を刺した。
布地の摩擦ではない。これは、この装備に込められた『殺気感知』の警告。
それも、今まで感じたことがないほどの、桁外れのーー。
「ッ!?」
フィリップは反射的に息を飲み、喉が裂けんばかりに叫んだ。
「全員ッ! 今すぐ伏せろォォォーーッ!!」
その警告は、確かに戦場の喧騒を切り裂いて響いた。
だが、傭兵たちが間の抜けた顔で振り返った時には、もう遅かった。
音はなかった。
ただ、暴風だけがそこに居た。
ビルデン城の城壁から飛び降りてきた『何か』が着地した瞬間、放射状に放たれた衝撃波と風の刃が、前衛にいた数十人の首筋を、その表情を変える暇すら与えずになぎ払ったのだ。
ーーそしてその後、時は現在へと戻る。
「クソッ……! 冗談じゃねぇぞ!」
フィリップが毒づいた瞬間、背中を預けていた展望塔の石壁が、まるで濡れた紙のように真横に裂けた。
大気を震わす轟音と共に、塔の上半分がゆっくりと滑り落ちていく。
断面は鏡のように滑らかだった。
風の刃。それも、城の石材を豆腐のように切断するほどの威力と鋭利さを持った一撃。
(ここに居たら死ぬ……!)
フィリップは反射的に地面を蹴った。
瓦礫が降り注ぐ中、砂煙を巻き上げて飛び出す。
行き先なんてない。とにかく、この「死の座標」から一メートルでも遠ざかるしかなかった。
暴風が吹き荒れる中庭を、低い姿勢で駆ける。
だが、首元の蒼いマフラーが、先ほどから異常な熱を帯びていた。
皮膚を焼くような警告の痛みが、首筋を焼き焦がさんばかりに強くなる。
ーー右だ。
思考より速く、身体が反応した。
フィリップが強引に左へ身を捻った、その刹那。
彼が寸刻前まで走っていた空間を、不可視の衝撃波が貫いた。
地面が抉れ、一直線に亀裂が走る。
「嘘だろ……!? この砂煙の中で、見えてんのかよ!」
フィリップの額を、冷や汗が伝う。
視界は最悪だ。巻き上がった土煙と暴風で、数メートル先も見えない。
だというのに、敵の攻撃は正確無比にフィリップの心臓を狙ってきている。
遮蔽物へ飛び込む。直後、その遮蔽物が粉砕される。
また走る。直後、足元が爆ぜる。
これは戦闘ではない。一方的な「狩り」だ。
マフラーの熱が引かない。それどころか、その警告の熱は、徐々に、だが確実にフィリップとの距離を詰めてきていた。
風が運んでくるのは、土の匂いだけではない。
圧倒的な強者が発する、濃密な死の気配。
(……遊んでやがるのか?)
ふと、そんな直感がフィリップの脳裏をよぎった。
あれほどの威力だ。本気で殺す気なら、このエリアごと消し飛ばすことだってできるはずだ。
それをしないのは、まるで逃げ惑う鼠の恐怖を楽しんでいるかのようにーー。
「……ッ、上等じゃねぇか!」
フィリップは崩れた回廊の柱の陰に滑り込み、荒い息を整えた。
逃げるだけじゃジリ貧だ。いつか足が止まった瞬間にミンチにされる。
彼は震える手で、背中の『竜討ちの弓』を握りしめた。
弦のない、奇妙な湾曲を描く金属素材の弓。
グリップの上に取り付けられた闘動機に目をやる。過去、祖父が数々の竜を討ってきたその武器はフィリップの誇り。
瞳を閉じ、フィリップが丹田に力を込め、全身の闘気を指先に集中させると、弓は低く唸り声を上げ始めた。
連続した駆動音を放ち、弓が目覚める。
無いはずの弦が、上弦から下弦へと光の筋となって接続する。
すると、闘動機はさらにその鼓動を早めた。
フィリップが弦に手を添えると、何もない空間に、黄金の光を纏った「闘気の矢」が具現化する。
祖父が遺した、対竜用の決戦術式。
(マフラーが教えてくれるのは「危機」だけじゃない。「敵の居場所」も逆探知できるはずだ)
首元のマフラーは、今や焼けた鉄板のように熱い。
だが、その熱源はある一点を指し示していた。
暴風の向こう側。土煙の奥。
次にマフラーが最高潮に「反応」した瞬間。
奴が攻撃動作に入った瞬間こそが、最大の好機だ。
マフラーの熱が皮膚を焦がす痛みに変わった。
「ーー今だッ!!」
フィリップは隠れていた柱の陰から、あえて身を晒すように飛び出した。
直後。
彼が隠れていた太い石柱が、見えざる巨大な爪に薙ぎ払われたかのように、半ばから粉砕される。
爆ぜる礫が頬を切り裂くが、構わない。
フィリップの視線は、その攻撃が放たれた一点ーーマフラーが指し示す「熱源」だけに釘付けになっていた。
引き絞った光の矢を、渾身の力で解き放つ。
「喰らいやがれぇぇぇぇーーッ!!」
放たれた闘気の矢は、暴風をものともせず、むしろ周囲の風を巻き込んで加速した。
黄金の彗星が、視界を遮る土煙の壁を一直線に貫通する。
何かが硬いものに衝突し、それを突き破る重苦しい衝撃音が響いた。
「ガァッ……!?」
風の音が止んだ。
いや、正確には、煙の向こう側で誰かが呻き声を上げたことで、術が乱れたのだ。
徐々に晴れていく土煙の向こう。
そこに、その姿はあった。
全身を、鈍い緑色をした竜の鱗のような甲冑に包んだ巨躯。
身体を取り巻く、具現化された緑色の風は彼の守護竜が『何』であるかを明瞭にさせた。
ーー緑竜の竜依戦士。
伝説の色竜の一端だ。
だが、フィリップの攻撃が一矢報いたのは、彼が『制御された竜依戦士化』に留まっていたからだ。
その左肩、分厚い鱗の鎧の継ぎ目に、フィリップが放った黄金の矢が深々と突き刺さり、燻っていた。
傷口から、どす黒い血が流れ落ち、地面の石畳を焼いている。
「……『竜討ち』、か」
兜の奥から、低く、地を這うような声が漏れた。
それは先ほどまでの、羽虫を払うような退屈な響きとは違っていた。
明確な苛立ちと、そして僅かながらの警戒を含んだ声。
竜依戦士は、肩に刺さった光の矢を乱暴に引き抜くと、それを握り潰しながら、兜の奥の眼光をフィリップに向けた。
「チッ……痛ぇな、おい。ただの鼠かと思ったが、存外、骨のある獲物だったらしい」
ただ立っているだけで肌が粟立つような威圧感が、フィリップに集中する。
遊びの時間は終わった。
怪物は、フィリップを明確な「敵」として認識したのだ。
男はさらに闘気を高らかせ、身体に風を纏う。吹き上げられた瓦礫が、彼の周りに物理的な防壁を形成していた。
「へ! 一発入ったならこっちのもんだ! ついでにくれてやる!」
フィリップは叫び声を上げ、弓に闘気を送る。すると身体の周りに光の粒が無数に現れ、それぞれが矢の形を成した。
「行け! 追射!」
光の矢達は一斉に男へと降り注ぐが、男は微動だにしない。
「小僧、付け上がるのも大概にしておけよ。こんな針が降ってくる様な射撃等、私には効かぬ!」
男の周りの闘気と風が一気に爆ぜ、フィリップの矢を全て薙ぎ払った。
次の瞬間。
「肉塊となれ!」
男の声が響き、大きく振りかぶったその時だ。
男の顔に、閃光弾でも焚かれたかのような光が明滅した。
ーーこの戦いの中で、誰かが雷撃魔法でも使ったんだろう。
フィリップはそう思っていた矢先。
背後にあるビルデン城の約半分が、唐突に崩壊した。
男もフィリップも、その景色に理解が追いつかず、呆気に取られていた数秒後だ。世界が一変する。
鼓膜を破らんばかりの破壊音と、人の身体を枯葉のように吹き飛ばす爆風。
……そして闘気を全て防御結界に回さなければ、その『熱』に即座に全てを溶かされる様な炎。
「うぐわあぁ!!」
フィリップは爆風に吹き飛ばされ、近くの建造物の五メートル程上の屋根に転がった。
「何だ!? 爆裂魔法か!? 誰が撃った!?」
左頬を強く搔きむしりながら、自分と男以外の気配を探る。
その刹那、背後五キロメートル後方に広がる『海』が光を爆ぜさせる。自慢のマフラーもマントも、何一つ警鐘を鳴らしていない。
だが、確実に『解った』。
ーー次を防がないと、「死ぬ」。
フィリップは全闘気を今度はマントに込め、物陰に潜む。
視線の先に居る、あの男は狼狽えていた。
次は大地が爆ぜた。家屋も、花壇も、噴水さえも。
その後の爆風と炎は先程経験済みだ。紅いマントは防御に特化され、竜のブレスをも凌げる一級品。
何とか今の魔法は凌げたフィリップは、呼吸を乱しながら背後の海を見た。
水平線近くに見えた、五キロメートルという距離からでも三十センチメートル程の長さに見える『黒く長い板』。その周りには、十センチメートル程の板が無数浮いている。
さしずめ刺繍で使う剣山の様に。
ーー『蒼の鯱船団』だ。
「ジルウスのオッサンかよ!? 無茶苦茶するなオイ!」
フィリップは空に向かって吠えた。だが、暴風と爆音にかき消され、その声が五キロメートル彼方の海まで届くはずもない。
このままでは、敵に殺される前に、味方の援護射撃で消し炭にされる。
(叫んでも無駄だ……なら、これしかねぇ!)
フィリップは素早く弓を垂直に構えた。
弦に指をかけ、闘気を流し込む。
だが、今度は「貫通力」や「破壊力」ではない。イメージするのはーー『輝度』だ。
つがえられた光の矢が、直視できないほどのまばゆい閃光を放ち始める。
敵の竜依戦士が、その輝きに僅かに目を細めた隙をつき、フィリップは弦を弾いた。
「こちとら海の街アダー出身なんだよ! 届けぇぇぇッ!!」
矢は攻撃音というより、破裂音に近い高音を響かせて垂直に打ち上がった。
黒煙と土煙に覆われた薄暗い空を、黄金の光線が切り裂いていく。
そして、上空数百メートルに達したその時だ。
フィリップは残身のまま、指先の闘気操作で、遥か上空の矢に干渉した。
ーー短く二回、そして長く一回の点滅。
ーー短、短、長。
空に留まった光の矢が、激しく、かつ規則的なリズムで瞬きを繰り返す。
それは海の世界で叩き込まれた、光による緊急暗号通信。
『ワレ、ココニ、アリ』
『コノ座標、ウツナ』
必死の信号は、暗雲立ち込める空で、まるでたった一つの希望の星のように瞬いた。
一方、水平線の彼方。
旗艦『イルヴェルズィール』の甲板。
「お頭! 着弾地点より『発光信号』確認!」
監視員の叫び声に、巨大な真鍮の望遠鏡を覗き込んでいた男ーージルウスが、ニヤリと口髭を歪めた。
「ガハハ! あの光り方……フィル坊か! 生きてるとは思っちゃいたが、あの爆撃の中で信号を送る余裕があるとはな!」
ジルウスは豪快に舵輪を叩くと、雷のような声を張り上げた。
「野郎ども! 聞いたか! 坊主はそこの瓦礫の下だ! 照準修正! その『先』に居る、デカい風の化け物を狙え! 坊主に当てるんじゃねぇぞ、一ミリでもズレたら全員海に叩き込むからなァ!!」
『アイアイサー!!』
船団の空気が一変する。
「まぁ、一度は断った艦砲射撃だがよ、俺ァあの兄弟が気に入った!さぁ、お前らの腕の見せ所だぜ!」
ジルウスの言葉を皮切りに、無差別な破壊の雨が止み、意思を持った援護射撃へと変わろうとしていた。
「微速前進、取舵二、目標『緑竜の竜依戦士』、四秒後に一斉射!」
『ヨーソロー!!』
副長カイツことカイツェルバーグが的確な指示を出していた。
そして。
天から降り注いだ光の矢が信号となり、水平線からの砲撃が唸りを上げて飛来した。
竜依戦士の頭上、わずか数メートル。
イルヴェルズィールから放たれた砲弾が、風の防壁を正確無比に打ち砕く。
爆発の閃光と、大気を押し潰すような衝撃波が戦士の巨体を襲った。
最強の強度を誇る竜の風が悲鳴を上げて軋み、戦士の意識がわずかに上空へと逸らされる。
(今だッ!!)
フィリップは迷わず地を蹴った。
土煙を切り裂き、遠距離武器であるはずの弓を、まるで棍棒のように構えて突っ込む。
「なッ……貴様!?」
戦士が接近に気づいた時には、既にフィリップは死の間合いを侵食していた。
踏み込んだ勢いのまま、弓の上部を戦士の兜へ向けて渾身の力で叩きつける。
「フンッ!!」
硬質な打撃音が響き渡り、戦士の巨体が沈み込んだ。
脳を揺さぶる強烈な衝撃に、戦士の頭が強制的に下がる。
だが、攻撃は終わらない。
フィリップは叩きつけた反動を殺さず、手首を返して弓を回転させる。
今度は下部が、下がった戦士の顎めがけて、下から上へと跳ね上がった。
「オラァッ!!」
顎を砕かんばかりの突き上げを受け、戦士の視界が天を仰ぐ。
さらけ出された無防備な喉元。
そこへ、振り抜いた弓のフレームが、吸い込まれるように押し当てられた。
まるで、最初からそこにあるべき拘束具だったかのように。
弓の湾曲が戦士の太い首にへばりつき、逃げ場を完全に塞ぐ。
「……ッ、が……!?」
喉を金属の棒で圧迫され、声にならない呻きが漏れる。
その耳元で、フィリップが不敵に囁いた。
「弓師が全員、遠くからチクチク撃ってくるとは限らねぇぜ!」
至近距離で睨み合う視線。
戦士の瞳に映ったのは、恐怖ではなく、獲物を仕留める狩人の冷徹な光だった。
フィリップは口端を吊り上げ、丹田の底から練り上げた闘気を、弓の両端へと爆発的に送り込む。
「爺ちゃんの……取っておきだぜ!」
大気が悲鳴を上げ、膨大なエネルギーが奔流となって駆け巡る。
すると、弓の上端と下端を繋ぐように、高密度の闘気が「弦」となって顕現した。
それは、ただのエネルギーラインではない。
無防備な喉元をゼロ距離で捉えた、光の断頭台。
抵抗など許さなかった。
竜の硬い鱗も、鍛え抜かれた肉体も、熱線と化した弦の前には無に等しい。
フィリップは、巨体の背後から喉に弦を宛てがい、まるで大型の弦楽器を奏でるかの如く、横薙ぎに一閃させた。
通り抜けた光の刃が、戦士と世界との繋がりを絶ち切った。
風の唸りが止む。
一拍の静寂の後、噴水のように鮮血が舞い上がった。
緑色の堅牢な兜ごと、戦士の首が虚空を回転して落ちていく。
「……へっ、悪いな。俺の弓は、ちっとばかし音がデカいんだよ」
フィリップは具現化していた弦を霧散させると、崩れ落ちる巨体には目もくれず、乱れたマフラーを直しながらそう吐き捨てた。
だが、戦いは終わらない。
しかし、フィリップは初めての対人戦闘、それも国家戦力並みの力を持つ竜依戦士からの勝利に、高らかに咆哮した。
「勝ったぞおおおぉぉぉ!」




