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第七十七小節 〜その旗艦(ふね)の名は〜 (前)



 翌日の午後、太陽が中天から少し西へと傾き始めた頃、ロウェルとフィリップの二人はビルデンの地に降り立った。


 海を渡る風は湿り気を帯び、肌にまとわりつくような独特の重さがある。

 ここは港区。整然とした石造りの建物が並び、衛兵たちが巡回する本城周辺の規律正しい空気とは、まるで別世界のようにかけ離れた場所だ。


 錆びた鉄の臭い、腐りかけた魚の臭気、そして人々の汗と欲望が入り混じったような、むせ返るような生活臭が鼻孔を突き刺す。


 初めて踏む異国の荒々しい土地に、フィリップは明らかに動揺していた。視線は定まらず、絶えず周囲をキョロキョロと見回し、落ち着きなく左の頬を掻いている。


「なぁ兄貴……勢いで来ちゃったけどよ、ここって言葉通じないんじゃね? 看板の文字、ミミズがのたうち回ってるみたいで全然読めねーんだけど」


 フィリップが不安げに眉を寄せ、すがるようにロウェルの袖を引く。


「今更言うかお前。そんな事だろうかとは思ったけどよ」


 ロウェルは呆れたように息を吐きながらも、その視線は鋭く周囲を警戒していた。行き交う人々の視線、路地裏の暗がり、建物の屋根の上。あらゆる場所に危険の種が潜んでいないか、無意識のうちに探ってしまうのは彼の習性だった。


「でもどうするんだよ!? 依頼書はキラフ文字だったぜ? ここの連中に言葉通じんのかな。飯も頼めねぇじゃんかよ」


「心配すんな。俺がついてる」


 ロウェルは硬くなっているフィリップの肩を、安心させるようにポンポンと一定のリズムで叩いた。その手の温もりに、フィリップの強張った表情がわずかに緩む。


「まぁ、通訳は全部俺がしてやっから気にすんな。お前は腹一杯食うことだけ考えとけ」


「マジで? 兄貴マジ神! 一生ついてくわ!」


 フィリップの現金な反応に苦笑しながら、二人は港の目抜き通りを歩き始めた。


 活気があると言えば聞こえはいいが、そこにあるのは健全な賑わいではない。内戦が勃発しているという情報の通り、港を行き交う人々の表情は一様に暗く、その瞳からは生気が削ぎ落とされていた。疲弊し、何かに怯え、あるいは諦観ていかんを漂わせている。


 建物の壁や街灯、至る所に貼られたビラが、風に煽られてカサカサと乾いた音を立てていた。


『圧政を許すな』

『自由は人民の為に』

『血税は我らが食卓へ還元されるべき』


 殴り書きのような文字で書かれた民主化を訴える文言の数々。それらは希望の言葉というよりは、もはや悲痛な叫びのように街全体を覆っていた。


「もっと賑わっていたのにな……」


 かつての記憶にあるビルデンの姿と重ね合わせ、ロウェルはポツリと呟いた。その声は雑踏にかき消されたが、彼の胸中には一抹の寂しさが去来していた。


 その時だった。多数ある魚屋の一つから、耳をつんざくような怒号が響き渡った。


「はぁ? パーシャーとマカレンドがこの値段!? ふざけるな! 昨日まではこの半値以下だっただろうが!」


 早口で、明らかに喧嘩腰のキラフ語だ。

 ロウェルが視線を向けると、一人の男が店主と対峙していた。店先には、氷の上に並べられた魚たちが死んだ目で空を見上げている。

 パーシャーとは泥臭いが脂の乗ったナマズに似た淡水魚、マカレンドは塩焼きにすれば美味な鯵に似た大衆魚だ。どちらも本来ならば、庶民の食卓を支える安価な食材であるはずだった。


「あなた、がいこくじん。このくにのひとじゃないひとに、やすくうれない。かえれ」


 魚屋の店主は、あからさまに嫌悪感を剥き出しにした片言のキラフ語で吐き捨てた。排他的な空気。異邦人に対する敵意。それがこの街の現状なのだろう。


 ロウェルは、店主に食って掛かっているその男を観察した。


 短めに切り揃えられてはいるが、潮風に晒されたせいか波打ち、手入れの行き届いていない黒髪。

 その所々に、苦労を滲ませるような白髪が混じっている。顔立ちは彫刻のように深く、鼻筋は意志の強さを表すように真っ直ぐ通り、無精髭がワイルドな印象を与えていた。


 何より目を引くのはその瞳だ。カッと見開かれた黒い瞳は、獲物を狙う猛獣のように野性的で、底知れぬエネルギーを秘めている。

 袖から覗く腕は健康的に日焼けし、胸板と二の腕の筋肉の隆起は、ただ剣を振るうだけの騎士や兵士のものとは明らかに違っていた。重いロープを引き、不安定な足場で踏ん張ることで培われた、実戦的な海の男の筋肉だ。

 左肘の少し上には、十字架と薄れて判読不能な文字の刺青が刻まれている。


 身長は180センチを優に超え、そこに立っているだけで周囲の空気を圧するような頼り甲斐のある体躯。


 ……既視感は否めない。どこか、懐かしい匂いがした。


「ちょっといいか」


 ロウェルは人混みをかき分け、流暢なビルデン語で店主に話しかけた。その発音は現地の人間と変わらないほど自然で、店主が驚いて目を丸くする。


「ちょっとその人には恩があってな。地元の値段で売ってやってはくれないか? 俺の顔に免じてさ」


「ありゃ? お兄さん、この野蛮そうな人と知り合いかい?」


「ああ、知り合いだ。旅の途中で二回も世話になったからな。チップは共通銀貨しかないが良いか?」


 ロウェルが懐から銀貨を弾き、親指でピンと跳ね上げると、店主は慌ててそれを空中でキャッチした。手のひらで銀貨の感触を確かめ、店主の顔が途端にほころぶ。


「いやいや! この国もその内共通貨幣に変わるから嬉しい限りですよ。へへっ、毎度あり!」


 現金の威力は凄まじい。店主は手のひらを返したように男に向き直り、満面の笑みで捲し立てた。


「このおにいさん、わたしのともだち! いちばんやすく、うるよ! どんどんかって! オマケもしちゃう!」


 あまりの態度の変わりように、男は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で目を白黒させている。


「はぁ? ……なんだこりゃ」


 男はロウェルに向き直ると、ニカッと白い歯を剥き出しにして笑った。


「兄ちゃん、この国の言葉喋れるのか? 悪い、助かったわ! 諦めて残飯漁るところだったぜ」


 豪快な笑い声が周囲の空気を震わせる。


「なぁ、今夜一杯どうだ? 助けてもらったお礼に奢るぜ! 酒は好きか?」


「なら弟と一緒でいいか?」


 ロウェルは親指で背後を指差した。そこには、状況が飲み込めずポカンと口を開けたままのフィリップが立っている。


「構わないぜ! ドンと来いってんだ!」


 男は自身の分厚い胸板をドンと叩き、快活に笑った。


「んじゃ夕暮れに、そこの角を曲がった酒場で落ち合おう。約束だぜ」


 男はロウェルに近づくと、初対面とは思えない距離感で軽く抱きつき、背中をバシンと叩いた。肺の中の空気が押し出されるほどの力強さ。

 それは、キラフの海の男たちが交わす、古い友情のサインだった。


 そう言うと男は先程の魚屋で、まるでこれから宴会でも始めるかのように大量の魚を購入し始めた。パーシャーとマカレンドを木箱毎、さらには氷の下に埋もれていた巨大な魚の切り身まで。


 その量は、大家族が待っているのか、それとも底なしの胃袋を持っているのか。少なくとも、只者ではない雰囲気がその背中から漂っていた。



 時は流れ、空が茜色から群青色へと染まる夕暮れ時。


 ロウェルとフィリップは、辛うじてキラフ語が通じる安宿に荷物を預け、約束の酒場へと足を運んだ。


 港町の夜は早い。遠くで野良犬の遠吠えが聞こえ、それが何とも言えない哀愁を誘う。湿った潮風が建物の隙間を吹き抜け、ヒューヒューと低い音を立てていた。


「なぁ兄貴、あのオッさん信じて良いのかよ? いきなり奢るとか怪しくね?」


 神妙な顔つきでフィリップが言う。彼の警戒心はもっともだった。見知らぬ土地で、見知らぬ人間に酒を奢られる。罠を疑うのが定石だ。

 ロウェルは生暖かい風に髪をなびかせながら、静かに口を開いた。


「大丈夫だ。以前会った事は有るが……今は伏せておく。本当に世話になった人だ。悪い人間じゃない」


「ふーん……そうかよ。兄貴がそう言うなら信じるけどさ。なら今夜はたらふく奢らせてもらうぜ! 外食なんて爺ちゃんが生きてた頃以来だからな! 腹の皮がはち切れるまで食ってやる!」


 フィリップの思考は既に食欲へと切り替わっていた。


 そうこう言っている間に約束の酒場に着いたが、男の姿は見当たらない。

 店の前でキョロキョロしていると、建物の物陰、闇に溶け込むような場所から少し抑え目な声がした。


「おーい、お二人さん。コッチだコッチ」


 声の主は、深いローブのフードを目深に被り、まるで犯罪者のように周囲を警戒していた。ロウェルたちが近づくと、男はフードを少しだけ持ち上げ、昼間のあの野性的な笑顔を見せた。


 ……何故、昼間あんなに堂々としていた男が、こんなにもコソコソしているのだろう? ロウェルとフィリップは顔を見合わせたが、男は気にする素振りもなく、長い両腕を広げて二人の肩をガシッと抱き寄せた。


 岩のように硬く、それでいて温かい感触。頼り甲斐のある身体付きだ。掴まれた肩がビクともしないほど固定される。


「悪い悪い、ちょーっと抜け出すのにコツが要ってな。言わば『お忍び』ってやつなんだよ。さ、飲もうぜ! 喉が渇いて干からびそうだ!」


「へー、『お忍び』ねぇ。そりゃ大変そうだ」


「なんだ? オッサン賞金首かなんかか? 追われてんのか?」


 フィリップが無遠慮に尋ねるが、男はケラケラと笑い飛ばし、二人を抱えたまま近くの酒場へと強引に連れ込んだ。


 重厚な木の扉を開けると、そこには光と熱気が渦巻いていた。


 店内は暖色のランプで明るく照らされ、四人掛けのテーブルが六つ、カウンターが八席。所狭しと並べられた席は労働者や船乗りたちで埋め尽くされている。


 オーダーを取るウェイトレスの甲高い声、客たちの下品な笑い声、厨房から聞こえるジュウジュウという脂の爆ぜる音と、料理人の威勢のいい掛け声。それらが混然一体となって、活気という名の塊になっていた。


 運良く空いていた奥のテーブル席に、ロウェルたちは滑り込んだ。


「いらっしゃいませー!」


「お! キラフ語通じるじゃねえか、流石港だなぁ!」


「下調べしてないのかよ。通じなかったら俺に通訳させるつもりだったな?」


「へへ、バレたか」


 男は悪びれもせず、ペロリと舌を出してはにかんだ。その仕草は年齢不相応に子供っぽいが、不思議と憎めない愛嬌がある。


「よーし奢りだ奢り! ここは俺の財布に任せろ。じゃんじゃん飲んで食えよ! 二人とも身体の線が細いからな、もっと食って逞しくなれ。おーい姉ちゃん! とりあえずエール三杯! それとこの店オススメの肉料理だ! 一番デカいやつな! 大盛りで頼むわ!」


「肉!? 大盛り!? マジで良いのかオッサン! うひょー楽しみ!!」


 フィリップは椅子の上で跳ね上がり、目をキラキラと輝かせた。貧しい生活の中で、肉の塊やアルコールなど夢のまた夢だったのだ。

 その純粋な喜びように、「オッサンは無いだろ」と男は苦笑しつつも、どこか嬉しそうに目を細めた。


「改めて俺はジルウス。ジルウス=ハルバートだ。宜しくな、お二人さん」


 ジルウスは分厚い手を差し出し、にこやかに名乗った。


「俺はロウェル、ロウェル=ファウリー。こいつは弟のフィリップだ」


 自己紹介が終わるや否や、テーブルの上に所狭しと料理が運ばれてきた。


 湯気を立てる骨付き肉のロースト、香草とニンニクの香りが食欲を刺激する魚のパイ包み焼き、山盛りのフライドポテト、そして黄金色に輝くエールが並々と注がれたジョッキ。


「オッケー、ロウェルとフィ……、フィッペ……? 面倒くせー名前してんな弟! フィルでいいじゃねぇか!」


「やっぱそーなるのね……」


 フィリップはガクリと肩を落とし、大袈裟に溜息を吐いた。


「まぁ兄貴の方はなーんか見たことあるような無いような? 俺達どっかで会ってねえか?」


 ジルウスはジョッキを持ったまま、探るような視線でロウェルの顔をジロジロと覗き込んだ。鋭い眼光がロウェルの奥底を見透かそうとする。


 しかしロウェルは表情一つ変えず、「いや、初対面だぜ? ジルウス」と、呆れたように肩をすくめて見せた。


「お、おう、そうか。気のせいか。まぁとりあえず乾杯と行こぜ」


 ジルウスは疑念をあっさりと捨て去り、ニッコリと微笑んで乾杯の音頭を取り出した。


「この広大な大海原を超えて巡り会った奇跡と、ファウリー兄弟に、信頼と友情を!」


 三つのジョッキが高々と掲げられ、勢いよくぶつかり合う。


「「「乾杯!」」」


 ガチャン! という小気味良い音と共に、泡が飛び散る。賑わう店内に三人の声が響き渡ると、周りの客たちもつられてジョッキを掲げた。


「お! 良い乾杯じゃないか!」

「この暗いご時世にいい声だなぁ、おい! 俺からも一杯奢らせろや!」


 店内は一瞬にして連帯感に包まれ、三人は注目の的となった。

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