第七十八小節 ~蒼き月の憂鬱(ブルース)~
港の雑踏を抜け、潮の香りが一層濃くなる場所まで歩を進めると、二人の視界に目的の船舶が飛び込んできた。それは、巨大な帆を天に向かって誇らしげに掲げた木造の旅客船だった。
船体は決して新しくはないが、幾度もの嵐を乗り越えてきたであろう歴戦の傷跡が、かえって頼もしさを醸し出している。定員は十数名の乗客と五人の船員といったところか。
船腹に並ぶ円形の窓は、船内の客室が雑魚寝形式の大部屋であることを示唆しており、甲板の下には食堂と呼ぶには些か簡素な空間が広がっているはずだ。
「……詰め所の親父め、旅費を出し渋ったな」
ロウェルは船の外観を一瞥し、深いため息と共に不満を漏らした。しかし、隣のフィリップはまるで新しい玩具を与えられた子供のように瞳を輝かせている。
「いいじゃんいいじゃん! 文句言ってないで早く乗船手続きしようぜ!」
フィリップはロウェルの背中を押し、弾むような足取りでタラップへと向かう。
船の前では、一人の男が声を張り上げていた。
「本日、業務にて当船をご利用予定のファウリーご兄弟様はいらっしゃいませんかー? 間もなく出航定刻となりますよー」
男は中肉中背、淡い栗色の髪には強い癖があり、潮風に吹かれて奔放にカールしている。彼がこの船の責任者だろう。
「待たせてすまない。俺がロウェル=ファウリー、こっちが弟のフィリップだ」
ロウェルは懐から依頼の受領書を取り出し、男の目の前に提示した。
「へいへい、確かに承りました」
男は舐め回すような視線でロウェルたちを値踏みした。洗練された身のこなしの兄と、野暮ったさが抜けない弟。血縁を感じさせない凸凹な組み合わせに、男は内心で首を傾げているに違いない。
「あっしは船長のナロー=トーと申しやす。今回は内戦で情勢が混沌としているビルデン行きの片道切符ですが、本当によろしいので?」
「ああ、構わない。帰りの手段はこちらで何とかするさ」
「今回は極めて危険な海域を通りますんでね、なんと乗客は旦那方お二人だけです。なにせ詰め所の方から、目の玉が飛び出るような額を頂きましてな」
ナローは下卑た笑みを浮かべ、喉の奥を鳴らした。金さえ積まれれば火の中水の中、といった風情の男だ。
二人は桟橋を渡り、船へと乗り込む。波止場に打ち付ける波が飛沫となって舞い上がり、頬を冷たく濡らす。船体は波のリズムに合わせて軋み声を上げ、まるで生き物のような鼓動を足裏に伝えてきた。
割り当てられた客室に荷物を下ろした瞬間、フィリップは獲物を見つけた獣のようにベッドへとダイブした。
「たーっ! なんだこのベッド、柔らかすぎる! まるで天国だ!」
彼は顔をマットレスに埋め、至福の表情で身をよじっている。その姿は、長年の苦労から解き放たれた囚人のようだ。
「そりゃお前のベッドは、藁を詰めただけの代物だったからな。これでも一般的には硬い部類に入るんだぞ?」
「なんだよ! 居候を始めた頃からつい最近まで馬小屋で寝起きしてた分際で、兄貴になった途端に姉ちゃんのベッドを占領しやがって。あのベッドはな、じいちゃんが買ってくれた最高級品なんだぞ?」
フィリップは文句を垂れながらも、枕に頬擦りを繰り返し、その感触を貪っている。その無防備な寝顔を見ていると、これから向かう場所が戦場であるという事実が嘘のように思えてくる。
やがて、船の心臓部である魔導機関が唸りを上げ始めた。
腹の底に響くような重低音が響き渡り、船体は横揺れから力強い縦揺れへと変化する。出航の合図である長い汽笛が空気を震わせ、マストに止まっていたカモメたちが一斉に空へと舞い上がった。
円窓から外を望むと、慣れ親しんだ陸地が徐々に遠ざかり、水平線の彼方へと霞んでいく。それは、平穏な日常との決別を視覚的に突きつけられる瞬間だった。
船旅は数週間に及び、単調な日々が流れた。そして、目的地であるビルデンへの到着を翌日に控えた夜のことである。
「うわぁあああ!!!」
漆黒の闇に包まれた船室を、悲痛な絶叫が切り裂いた。
叫んだ本人のものとは思えないほど、その声は美しく澄んでおり、まるでガラス細工が砕け散るかのような鋭さで鼓膜を打った。
室内には明かり一つなく、視界は閉ざされている。ただ、円形の小さな窓から差し込む青白い月の光だけが、床に冷ややかな幾何学模様を描いていた。
突如、何か硬いものが壁に衝突する鈍い音が響き、続いてフィリップの不機嫌な声が闇の中に溶け出した。
「……っせーなロウェル! 船旅で疲れてんだから、とっとと寝ろよ! 明日からはデカイ仕事が待ってんだぞ……」
言葉は尻すぼみになり、すぐに規則正しい寝息へと変わった。彼もまた、長旅の疲労と緊張で泥のように眠っているのだ。
「……わかってるよフィル。少し、悪い夢を見ただけだ。起こしてすまな……寝てるか……」
ロウェルは荒い呼吸を整えながら囁いたが、返ってくるのは波音と寝息だけだった。彼は安堵と罪悪感が入り混じった深いため息を吐き出し、額に滲んだ冷や汗を拭った。
衣擦れの音が静寂を揺らす。ロウェルは音を立てぬよう慎重にベッドから身を起こし、靴を履いた。
革底が木の床を踏みしめる乾いた音が、静まり返った廊下に微かに響く。約二十秒ほどの静寂の後、重厚な扉が開閉する音がし、新鮮な夜気が流れ込んできた。
……空には、凍てつくような美しさを湛えた満月が、静かに世界を見下ろしていた。
ロウェルは狭い通路を抜け、甲板へと出た。
遮るもののない頭上には、無数の星々が宝石箱をひっくり返したように瞬いている。月光は海面に光の道を作り、波の揺らめきに合わせて銀色の鱗のように輝いていた。
アダーからビルデンに向かうには、位置的に季節が反転する。
夜の海は、昼間の太陽からの恩恵を須らく奪い去り、腹の底から冷えが這い上がってきた。
それでも、悪夢にうなされた後では、心地よい夜風が頬を撫で、乱れた呼吸を整えてくれる。彼が再び夜空を見上げると、一筋の流れ星が尾を引いて消えていった。
船縁まで歩み寄った彼は、湿った木製の手すりに両肘を預け、広大な海原を見つめた。
湿気を帯びた手摺りが妙に心地良い。
ロウェルは大きな溜め息を一つ、そして、
「……帰ってきたか」
その言葉は誰に向けたものでもなく、ただ夜の闇に吸い込まれて消えた。彼は俯き、左手で胸元を探る。指先が目的の物に触れると、微かな安らぎと共にそれを引き出した。
月明かりの下で鈍い光沢を放ったのは、一本の古びたネックレスだった。
中央には、かつての友、人狼アズルーが愛用した石製のナイフが、刃を削り、粗末な革紐で括り付けられている。
その両脇には、人狼テウロンの牙が二対、歪なバランスで配置されていた。洗練とは程遠い、野性的で荒々しい装飾品。
それは、彼が普段身に纏っている「スマートな男」という仮面とは、あまりにも不釣り合いな代物だった。
ロウェルはそのネックレスを愛おしそうに、しかし力強く握り締めた。掌に食い込む切っ先と牙の痛みが、彼に生の実感を、そして過去の記憶を呼び起こさせる。
「『俺達はずっと一緒』……か……」
漏れ出た言葉は、夜風にかき消されそうなほど弱々しい。彼は再び夜空を見上げた。満月の蒼白い光が、彼のコバルトブルーの瞳を深く照らし出す。
その視線は、ネックレスを握りしめている左手の真紅のグローブと、レーネとの約束のリングへと注がれていた。
竜の力を封じた左手と、友の記憶を宿した首飾り。
深い溜め息が、胸の奥底に沈殿していた澱を吐き出すようにこぼれ落ちる。
「父様……」
その呼びかけに応える者はいない。船首が波を切り裂く轟音だけが、彼の孤独な独白を飲み込んでいく。
彼の瞳に映り込んだ蒼い満月は、涙で滲んだように揺らめき、どこまでも冷たく、そして寂しげだった。
それはまるで、彼の心に巣食う憂鬱を映し出す鏡のようだった。
その光景を、遥か頭上から見下ろす影があった。
いつからそこに居たのか、客室の屋根の上に佇む吟遊詩人、ロイン。彼は愛用のハープを指先で愛でながら、眼下の男の孤独を見つめていた。
「約束の地 離れども
約束の言葉 守れずども
その地に足を踏み入れる運命
その地を離れる運命
戻る者と 戻らざる魂は
時空を超えて 交わるのだろうか」
彼が紡ぐ詩は、風に乗って夜の海へと溶けていく。
一節を歌い終えると、彼の手元にある古びた楽譜の二十五小節目が、蛍火のような淡い光を帯び始めた。
彼はその光を慈しむように優しく指でなぞる。
次の瞬間、ロインの姿は蜃気楼のように揺らぎ、時空の扉の彼方へと吸い込まれるように消滅した。
あとには、ただ蒼き月だけが、波間に揺れる小船と、過去に囚われた男を静かに照らし続けていた。




