第七十六小節 ~A Journey to Kill~
東の空が白み始め、夜の帳が徐々に剥がれ落ちていく。水平線から滲み出した朝日は、冷たく淀んだ大気を黄金色に染め上げ、世界に色彩を取り戻させていった。
木々の梢で羽を休めていた小鳥たちは、朝露に濡れた羽を震わせ、玲瓏たる囀りを競うように奏で始める。その音色は、爽やかな風に乗って窓の隙間から滑り込み、新たな一日の始まりを告げる福音のように室内に響き渡った。
そんな静謐な朝の空気を切り裂くように、フィリップは慌ただしく動いていた。寝室の床には革製の鞄が口を開け、旅の必需品が散乱している。
「装備よし、替えの下着よし、保存食の確認完了、調理器具一式よし、と……」
彼は一つ一つの物品を指差し、まるで呪文を唱えるかのように確認を繰り返す。その指先は微かに震え、彼の内にある高揚感と、それと同量の不安を物語っていた。旅支度の基本動作を過剰なほど丁寧に行うことで、彼は己の心を鎮めようとしているのかもしれない。
「朝から精が出るな、おはようフィル」
背後からかけられた落ち着いた声に、フィリップは肩を跳ね上げた。振り返ると、そこには既に身支度を整えたロウェルが、穏やかな微笑を浮かべて立っている。
「お、おう。長旅は初めてだからな、万全を期さねぇと……って、そういうロウェ……『兄貴』は用意しなくても良いのかよ?」
慣れない呼称を口にする際、フィリップは気恥ずかしさに頬を赤らめ、左頬を掻いた。
「ははっ、お前に『兄貴』なんて呼ばれる日が来るとはな。人生とは分からないものだ」
ロウェルもまた、口元を緩め、照れくさそうに鼻の下を擦る。血の繋がらない男二人が、互いに「家族」という新しい枠組みに収まろうとして、こそばゆい空気を醸し出している様は、どこか滑稽でありながらも温かい絵画のようだった。
ふと、ロウェルの表情から笑みが消えた。彼は真剣な眼差しで、フィリップの瞳の奥を射抜くように見据える。
「話がある。少し外の風に当たらないか?」
「……急にどうしたんだよ? 別に構わないけどよ」
フィリップはロウェルの真剣な声音に、ただならぬ気配を感じ取ったのか、茶化すことなく頷いた。
二人は家から離れ、人気のない海岸へと足を運んだ。
朝の潮風は、頬を撫でる冷たさが心地よい。遠くで旋回する海鳥の哀愁を帯びた鳴き声、寄せては返す波が砂を洗う律動的な響き。
それらが織りなす自然の交響曲は、澄み切った大気と共に、前日に澱んでいた陰鬱な感情を洗い流してくれるようだ。レーネやユイーブ、そしてこの集落に住む人々が、物質的な貧しさとは裏腹に、清廉な心を持ち続けられる理由が、この風景の中に凝縮されているようにロウェルには思えた。
「なぁフィル、お前の目に、俺の左手はどう映っている?」
ロウェルは、自分にしか見えない、真紅のグローブに覆われた左手を突き出し、フィリップの目の前に掲げた。
フィリップは一瞬、呆気にとられたように瞬きを繰り返したが、次の瞬間、腹を抱えて噴き出した。
「冗談キツイぜ兄貴! 新婚早々、結婚指輪を見せびらかしてんのかよ! ヒューヒュー!」
彼は身体を折り曲げ、涙を滲ませながら笑い声をあげる。
「……はは、バレたか」
ロウェルは苦笑いで誤魔化し、掲げた手を下ろした。だが、その胸中には鉛のような失望と安堵が複雑に渦巻いていた。
心の何処かで、この左手に宿る異形の力が、フィリップにだけは見えていて欲しかったのかもしれない。あるいは、見えないことで「人間」としての日常が保たれることに安堵したのかもしれない。
ひとしきりフィリップから冷やかしの言葉を浴びせられた後、二人は再び荷造りの続きをするために家路についた。東の空はさらに明るさを増し、もうすぐレーネが目を覚まし、朝の世話をしにユイーブがやってくる時刻が迫っていた。
ロウェルは、歩きながら左手を強く握りしめた。
かつて『エルミナ』という名の少女がこの世を去ったあの日、彼の内側に巣食っていた黒竜の意識は、断ち切られた糸のように唐突に消滅した。今、彼と『かの存在』を繋ぎ止めているのは、自分にしか視認できないこの左手のグローブのみである。
無論、その拘束を解き放てば、彼は黒竜の力を行使する『竜依戦士』へと変貌を遂げることができる。だが、その力はあまりに強大で、あまりに禍々しい。
そして、自らの意思で『復讐』のためにその力を行使した後、彼は己の名前すら捨て去りたくなるほどの、どす黒い罪悪感に苛まれた。その記憶は、魂に刻まれた刺青のように消えることはない。
だからこそ、彼はその力を使うことを封印し、平穏な日常に身を浸しているのだ。
ロウェルが空を見上げ、過去の暗い淵に沈みかけていると、銀鈴のような少女の声が思考を引き戻した。
「ロウェルさん、おはようございます!」
弾むような足取りで近づいてくるのは、満面の笑みを浮かべたユイーブだった。
「おはよう、ユイーブちゃん。フィルとの件は、もう決着がついたのかい?」
ロウェルは努めて明るい声を作り、悪戯っぽい視線を彼女に向けた。フィリップとユイーブ、二人の間に流れる空気は、傍目に見れば相思相愛そのものである。もどかしい距離感に、年長者としてはつい世話を焼きたくなってしまう。
「もう! 既婚者になったからって、余裕ぶらないでくださいよ!」
ユイーブは頬をぷっくりと膨らませ、抗議の声を上げた。
「本当に嫌になっちゃう、あの鈍感男! 昨日だって、私が乙女の涙を見せたっていうのに、頭の中は『姉ちゃん姉ちゃん』ばっかり。乙・女・の・涙ですよ!? 信じられます?」
彼女は早口でまくし立て、眉を吊り上げて感情を露わにする。その怒った顔さえも愛らしく映るのは、彼女の若さと純粋さゆえだろう。
「ロウェルさんは『落ち着いたスマートな大人の男性』って感じが売りなんでしょ? なのに、義理の弟があの鈍感さだなんて! 少しはロウェルさんを見習いなさいよって言ってやりたいです。もう、大っ嫌い!」
彼女の剣幕に、ロウェルは苦笑いを浮かべながら後頭部を掻いた。
「えっとね、ユイーブちゃん。実は俺も、君の大嫌いな鈍感男の類なんだ。こう見えて、妻の尻に敷かれるタイプなんだぜ?」
「ええっ!? 全然そうは見えません! だって、いつも堂々としてて、頼りがいのある格好良いお兄さんなのに……」
ユイーブが目を丸くして驚いている最中、渦中の男の能天気な声が響いてきた。
「おーい兄貴! 姉ちゃん起きたぞー! お、ユイじゃねーか。今日の朝飯は何だー?」
ロウェルとユイーブは同時に肩を落とし、呆れ果てた視線を交わした。
「「……お前は馬鹿か」」
二人の声が見事に重なり、次の瞬間、堪えきれずに大笑いした。ちょうどその時、秋の冷気を孕んだ一陣の風が海岸を吹き抜け、三人の髪を悪戯に乱していった。
ロウェルとユイーブが家に入ると、フィリップの肩を借りて、レーネがリビングへと歩を進めているところだった。
「おはよう、ロウェル、ユイちゃん」
彼女は春の日差しのような穏やかな笑みを浮かべ、呼吸も安定しているように見えた。今朝は、ここ数日の中でも特に体調が良いようだ。
「今日は出発の日ね。こんな大切な日に、私が体調を崩して寝込んでいるわけにはいかないわ」
彼女は弟に支えられながら、慎重に椅子へと腰を下ろした。
「姉ちゃん、無理すんなって。見送りなんてベッドからでも十分だったんだぜ」
「あらフィル、ベッドに寝たきりだったら、アンタ『寂しい寂しい』って泣いて、いつまでも出発しないじゃない?」
「ンなことあるかよ! 俺は、俺は……男だぞ……」
フィリップは反論しようとしたが、図星を突かれたのか言葉を詰まらせ、俯いてしまった。
「ほーら、結局シスコンじゃん」
ユイーブがすかさずツッコミを入れる。
テーブルには、ユイーブが持参した具沢山のサンドイッチと、ロウェルが丁寧に淹れた紅茶が並んだ。湯気と共に立ち上る香ばしい香りが食欲をそそる。豪勢な食材など何一つない質素な食卓だが、作り手の『愛情』という最高のスパイスが効いた、何よりも贅沢な朝食だった。
「っかー! 美味すぎる! やっぱユイの飯は最高だわ。しばらくこれが食えないと思うと、流石に名残惜しいぜ」
フィリップは頬袋をリスのように膨らませながら絶賛する。その単純明快な反応に、ロウェルとレーネは顔を見合わせ、『いい加減くっ付けばいいのに』という無言のメッセージを目で送り合った。
「だーっ! 何時でも作ってあげるから、さっさと仕事を終わらせて帰って来なさいよ! この馬鹿フィル!」
ユイーブは照れ隠しに声を荒げるが、その口元は緩んでいる。
「マジで!? んじゃ速攻で終わらせてくるぜ」
「そ、その時は色々忘れるんじゃないわよ? その、アレとか……アレとか……お土産とか、約束とか……」
ユイーブは顔を林檎のように赤く染め、フィリップから視線を逸らした。
見かねたレーネが、くすりと笑って助け舟を出す。
「フィル、男ならケジメぐらいは付けなきゃ、姉さん怒るからね?」
しかし、フィリップの頭上には無数の疑問符が浮かぶばかり。
「ケジメ? 何の話だ?」
その場にいた三人は、「ダメだこりゃ」と言葉には出さずとも完全に心を一つにし、その日一番の笑い声をあげた。
窓の外では小鳥が囀り、遠くからは魔導漁船の重低音の汽笛が聞こえてくる。朝漁を終えた船が帰港する合図だ。潮風が運んでくる空気は、いつもより湿度を含んで重く、天候が崩れる前兆を感じさせた。
「ロウェル、フィル、道中気をつけてね。私も身体を治すために頑張るから」
「ああ。必ず君の病を治す方法を見つけてくる。それまで待っていてくれ。愛してる、レン」
「任せとけ姉ちゃん! 世界中探してでも、飛びっきりの薬を買ってくるからよ!」
ロウェルはレーネとユイーブを力強く抱きしめ、それぞれの温もりを胸に刻み込んだ。対するフィリップは、全身で喜びと別れを表現するように飛び跳ね、大きく両手を振りながら家を後にした。
アダーの街の中央へ向かう道中、二人は幾人もの知り合いに呼び止められた。
「今回は随分と大荷物だな、遠出か?」
「ごきげんようロウェル、この間はありがとう」
人々の温かい声援。いちいち立ち止まっていては日が暮れてしまうため、ロウェルは軽い会釈で応じたが、フィリップは興奮を抑えきれない様子で、
「船旅だぜ!」「今回は外国に行くんだ!」
と、聞かれてもいないことまで吹聴して回っている。
「フィル、いい加減に落ち着け。遠足じゃないんだぞ」
「これが落ち着いてなんて居られるかよ! もうワクワクして心臓が飛び出しそうだぜ」
はしゃぐフィリップの横顔を見ながら、ロウェルは冷や水を浴びせるように静かに告げた。
「これから俺たちは、戦地へ赴くんだ。『人殺し』をしにな。その覚悟だけは決めておけよ」
その言葉に、フィリップの表情から少年のような無邪気さが消え失せた。
「……お、おう。すまねぇ、ロウェル」
重苦しい沈黙が二人の間に降りた。
賑わう商店街を抜け、港区へと足を踏み入れる。
強烈な潮の香りと、燦々と降り注ぐ太陽の光。水揚げされたばかりの魚介の生臭さと、漁師たちが吸う安煙草の紫煙が混じり合い、独特の活気を生み出している。今日は大漁だったらしく、男たちの野太い笑い声や競りの怒号のような掛け声が、港の熱気を一層高めていた。
船着き場には、古びた木造の漁船や商船が所狭しと並んでいる。どれも親子代々受け継がれてきた年季の入った船で、使い込まれた木材からは歴史の重みが感じられた。空には雲ひとつなく、残酷なほどに晴れ渡っている。
ふと、ロウェルは足を止めた。
よそ見をしながら歩いていたフィリップが、背中に勢いよく衝突する。その拍子に二人はバランスを崩したが、ロウェルは猫のような身のこなしで体勢を立て直し、フィリップの腕を掴んで引き寄せた。
その姿は、まるでダンスのパートナーをエスコートするかのようだった。
「なんで野郎とこんなに密着しなきゃなんねーんだよ……」
「確かに。だが、急に止まるなよ。危ないだろう」
二人は苦笑し合い、互いの服の皺を直して離れた。
ロウェルは、視線を遠くへと投げかけ、ポツリと呟いた。
「……あの日も、ここからだったな」
船着き場の東の端。木造コンテナが乱雑に積み上げられたその向こう。彼の脳裏には、鮮烈な記憶が蘇っていた。アルカスル教の純白の修道服に身を包んだ少年少女たちが、希望に満ちた笑顔を浮かべ、この港から船に乗り込んでいく光景。
少年の瞳には、未来への輝きが宿っていた。しかし、その輝きは、やがて絶望の闇に塗りつぶされ、ロウェルの心に永遠に癒えない傷跡を残すことになったのだ。
「んあ? なんか言ったか?」
「……いや、なんでもない」
ロウェルの返答には、一瞬の躊躇いが含まれていた。過去の亡霊は、今も彼に付き纏っている。




