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第七十五小節 ~この素晴らしい愛は、もう二度と……~



 太陽が水平線の彼方へと沈み、空が群青色から深い闇へと溶け落ちていく頃、ロウェルは家の裏手にある馬小屋で愛馬の世話をしていた。


 手にしたブラシで馬の毛並みを整えるたびに、乾いた埃が舞い、獣特有の温かな匂いが鼻を突く。いつもなら心を落ち着かせてくれる作業だが、今日のロウェルの頭の中には、昼間に見たあの「真新しい依頼書」の文面が、焦げ付いたようにこびりついて離れなかった。


「ふう……。さすがにあの仕事は、受けられないな。地道に稼ぐしかないか」


 独り言を吐き出し、自分に言い聞かせるように大きく首を振る。


 王の首を獲る。そしてその前に立ちはだかるのは実の父、平穏な生活を完全に捨て去り、血塗られた修羅の道へ足を踏み入れることを意味する。


 かつて、愛しい妹の頭蓋を砕き、尊敬する兄の心の臓を貫き、親友の命をももぎ取った左手のグローブを、言葉にならない表情で見ていた。



 そんな時、背後から「ロウェルさーん!」という明るい声が届いた。


 振り返ると、ユイーブが今にも跳ね出しそうな満面の笑みを浮かべてこちらへ駆けてくるところだった。


「こんばんは。今日のご飯は、期待してもらっていいですよー?」


 彼女の口元には可愛らしいえくぼが浮かんでいる。


 背負った籠の中から、植物の大きな葉に包まれた5尾ほどの魚を取り出し、自慢げに突き出してきた。


「ジャジャーン。今日はマントさんの獲ったドリャンが大漁です!」


 ドリャン――この地方の名物である、鯛に似た白身魚だ。20cmを超えるその魚体は、月光を浴びて銀色に輝いている。


「いつもごめんね、こんなに良くしてくれてありがとう」


「ううん、大丈夫ですよ、私にはご飯を作る事しか出来ませんから」


 ユイーブは少し申し訳なさそうに笑顔を作る。何故、彼女はこんなにもファウリー家に尽くしてくれるのか、それはロウェルがまだこの地に来る前の事だ。


 かつてこの貧しい海岸の集落には、ユイーブの家族も暮らしていた。


 そしてレーネとフィリップはユイーブの幼馴染だ、とても仲良く暮らしていたとある日、このアダーの町に津波が襲いかかった。



 ユイーブの両親はその時に命を落としたが、レーネ達2人の祖父、ガズリュイがその命と引き換えにユイーブの命を掬い上げた。


 それからというもの、ユイーブは「恩返し」としてファウリー家にとても良く接してくれている。


 ……彼女自身、本当はフィリップに好意を抱いているらしいのだが……。


 ロウェルはそんな彼女の頭をポンと撫でて礼を言い、彼女の背中を見送った。


 やがてキッチンから、魚を焼く香ばしい匂いと、ハーブの爽やかな香りが漂ってきた。空腹を訴える腹の虫を無視し、ロウェルは日課の素振りのため、海岸沿いの崖へと足を向ける。


 ふと見上げたレーネの部屋は、灯りも消え、重苦しい静寂に包まれていた。


 窓からこっそり中を覗き込むと、ユイーブが手入れをしてくれたのだろう、レーネの金色の髪が枕の上に丁寧に広げられていた。それはまるで、闇の中に横たわる美しい草原のようだった。


 だが、その中央にある彼女の横顔は苦しげに歪み、呼吸は浅く、小刻みに震えている。


「……最近、調子の悪い日が増えてきたな。早く、薬を調達しないと」


 呟きは夜風にさらわれ、波の音にかき消される。



 彼は窓際を離れ、腰の長剣を引き抜いた。


 スラリと細身の刀身が、天頂に輝く月を映し出し、冷ややかな光を帯びる。


「……ふぅっ!」


 大きく息を吸い込み、肺を夜気で満たす。


 次の瞬間、ロウェルの体はしなやかに躍動した。

ゆっくりとした初動から、一転して雷光のような鋭い刺突へと繋がる演武。どこかの国の正式な型だろうか、一寸の迷いもなく振り抜かれる剣先が、空気を切り裂く「ヒュッ」という鋭い音を響かせる。


 刀身に宿った月光が、彼の周囲に幾重もの光の円弧を描いた。


 演武が終わり、ロウェルが剣を鞘に収めようとしたその時、背後から荒い足音が近づいてきた。


「ロウェルー! 朗報だぜー!」


 フィリップだ。街の方から全速力で走ってきたらしく、肩を大きく上下させている。その右手には、見覚えのある「白い紙」が握りしめられていた。


「おい、見ろよこの依頼! こんなの一発で、姉ちゃんの薬代が稼げるぜ!」


「おいおい、こんな暗がりで見せられても読めるわけないだろ。……なんだ、今回は上級の魔石でも狩りに行くのか?」


 ロウェルはフィリップの手から、乱暴にその受領書を奪い取った。


 暫し歩き、灯りの漏れる家屋の近くまで着いた頃、書かれた文字を追う。


 ……内容を理解した瞬間、ロウェルの足が、凍りついたように止まった。


「……ッ!」


 次の瞬間、ロウェルは後ろで呑気に口笛を吹いていたフィリップの胸倉を、片手で掴み上げていた。


「お前……『殺し』を引き受けたのか?」


 鬼のような形相。低く、怒りに震える声。



 フィリップが持ってきたのは、あのビルデン国王と近衛騎士団長の暗殺依頼だった。


 彼らはこれまで、C級として魔物や罪人の討伐はこなしてきたが、明確な「政治的暗殺」には一度も手を染めたことはない。それは、かつてフィリップ自身が「一線は越えない」と決めたことだったはずだ。


「でもよ! 今はもう、四の五の言ってらんないだろ! 背に腹はかえられないんだよ!」


 フィリップも負けじと声を荒らげ、ロウェルの手を振り払った。だが、その瞳には怒りだけでなく、絶望に近い悲しみが溜まっていた。


 一筋の涙が彼の頬を伝い、砂の上に落ちる。


「受けるしか、ないんだよ……。もう、姉ちゃんには時間が……っ」


 鼻をすする音が、夜の静寂に響く。


 ロウェルは天を仰ぎ、深く、長く、肺の中の毒をすべて吐き出すような溜息をついた。


そして、フィリップの震える肩に手を置き、優しく数回撫でた。


「……わかったよ。行こう、ビルデンへ」


 ロウェルはその時、決心したのだろう。

 ……実の父を、数々の愛する人達の命を奪ったその手で、『愛する人の為に』屠ることを。


 だが、その横顔には、決意と、拭いきれない葛藤が混ざり合っていた。


「その代わり、この依頼の内容はレンとユイーブちゃんには伏せておく。こんな『殺し』、二人は絶対に許さないだろうからな」


 フィリップが無言で数回頷くのを確認し、二人は家へと向かった。


 扉を開ければ、温かな灯りと、美味しそうな料理の匂いが二人を包み込む。



 それが、これから向かう「地獄」の前の、最後の安らぎのように思えてならなかった。




 

 翌日の昼間。


 抜けるような青空の下、ロウェルとフィリップは「話がある」と、ユイーブとレーネをリビングに呼び出した。


 窓の外では、ウミネコたちの影が屋根をかすめて通り過ぎていく。熱気を孕んだ潮風が、薄手のカーテンを激しく羽ばたかせていた。


「で? 話ってなんなのよ?」


 沈黙を破ったのは、痺れを切らしたユイーブだった。彼女は腕を組み、不審そうにフィリップを睨んでいる。


「てかさ、何だか深刻そうな話を、フィルから切り出すなんて、なんか変じゃない? いつもはロウェルさんなのに」


「まあ、今回は俺が見つけてきた仕事だしさ。……それに、目的地がちょっと遠いんだ」


「遠いって、どれくらい? 往復3日? ……まあ、多く見て5日なら許してあげるよ!」


 フィリップとユイーブのやり取りは、傍目には微笑ましいほど「夫婦喧嘩」のそれによく似ていた。


 将来この二人は結ばれるのだろうな――そんな確信が持てるほどの信頼関係が、そこにはあった。


 ふと、レーネがロウェルの顔を覗き込んだ。


 彼女の目は、ロウェルの表情が微かに強張っていることを見逃さなかった。


「ねえロウェル。二人で話さない?」


 そう言った彼女の顔は、昨夜の苦しげな様子とは一変し、どこか高揚して頬を赤らめていた。


「折角だから少し歩きましょう。今日は、とっても体調が良いの」


「構わないが……無理はするなよ」


「顔面蒼白の貴方に言われたくないわよ」


 クスリと笑ったレーネ。その細い腰に手を添え、ロウェルは彼女と共に外へと出た。


 二人の歩みに合わせて、砂浜がギュッ、ギュッと音を立てる。


 もうすぐ昼凪。波が鏡のように静まり返り、遠くを魔導漁船がゆっくりと横切っていく。


「海を越えるんだ……。次は」


 沈黙に耐えかねて、ロウェルが口を開く。


「そんなことだろうと思った。ロウェルって、都合が悪くなると黙り込むものね」


 レーネの返事は驚くほどあっけらかんとしたもので、ロウェルは拍子抜けしてしまった。


「……往復で3ヶ月はかかると思う。行き先は、ビルデンだ」


「3ヶ月かぁ、なかなか長いね。……でも、外国じゃない。そんなところまで、何の御用かしら?」


 レーネは後ろ手で手を組み、鼻歌でも歌いそうな足取りで歩き続ける。そして、不意に立ち止まると、ロウェルを正面から見据えた。


「じゃあ……いい加減、その胸ポケットの物、出したら?」


 満面の笑顔。彼女はすべてを見抜いていた。


 ロウェルが彼女と会う時、いつも胸元を不自然に膨らませ、そして言い出せずに言葉を濁していた理由を。


「……まさか、せびられるとはな。一応、覚悟はいつも決めてたんだぜ? タイミングってもんがあるだろ」


 苦笑いを浮かべながら、ロウェルは胸元から小さな木箱を取り出した。


「そう、それそれ」


 彼女は子供のようにサッと箱を奪い取ると、蓋を開けた。


 中には、宝石一つ付いていない、質素な白銀のリングが二つ。


 だが、雲一つない空から降り注ぐ太陽の光を浴びたその指輪は、どんな高価な宝石をも凌駕する、まばゆい輝きを放った。


「さてさて……この綺麗なリングを、どうするんだっけ、ロウェル?」


 レーネは意地悪そうな笑みを浮かべ、大きい方のリングを指先でつまみ上げた。


「ちょっ……、お前な……」


 いつもの冷静な表情が崩れ、ロウェルは少年のような焦りを見せる。


「ふふっ、やっぱり貴方って、元々可愛い顔してるのね。思った通りだわ」


 にこやかな彼女の背後で、太陽の光が海面に乱反射し、まるで彼女に後光が差しているかのように見えた。


「さてと、それじゃ始めるわね」


 レーネはロウェルの左の薬指を掴み、そっとリングを滑り込ませた。


「……二人は病める時も健やかなる時も、お互いを思いやり、愛の女神への信仰を続け、その寵愛を受け続けることを誓いますか?」


 それは、アルカスル教に伝わる婚姻の儀式だった。


 本来なら男性から始めるべきものだが、彼女は煮え切らないロウェルをリードするように、茶目っ気たっぷりに式を進めていく。


 ロウェルは困ったように髪を掻き回した。


 遠くで魔導漁船の汽笛が「ボーッ」と響き渡る。


 それを合図にするかのように、ロウェルの瞳に鋭い決意が宿った。


「……誓います。いや、誓おう。二人で」


 ロウェルはもう一つのリングを手に取り、レーネの細い左手を取った。


 指先から伝わる、驚くほどの軽さと、柔らかさ。彼は壊れ物を扱うかのような手つきで、その薬指に銀の輪をはめた。


「私も誓います。……で、この後は何をするんだっけ?」


 さらに追い打ちをかけるような彼女の言葉に、ロウェルはもう迷わなかった。


 彼は彼女の腰を引き寄せ、その唇を奪った。


 重なり合う体温。絡み合う吐息。


 昼凪の熱気が二人を包み込み、頬を伝うのは、流れる汗か、あるいは込み上げる感動の涙か。


「……これで、気が済んだか?」


「ふふ……。夫婦の出来上がりね」


 二人の指で光る銀の輪は、これから始まる過酷な旅路を照らす、唯一の標火しるべのように輝いていた。


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