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第七十四小節 ~思い出の渚~


     

  

 それは、どこまでも平穏で、退屈なほどに穏やかな昼下がりの出来事だった。


 アダーの町を包む空気は、海から運ばれてくる湿った塩の香りと、降り注ぐ太陽が熱した砂の匂いが混じり合い、どこか微睡まどろみを誘うような重たさを持っていた。


 ロウェルは一人、不揃いな貝殻が散らばる波打ち際を歩いていた。


 足裏に伝わる砂の熱さと、波が引くたびに足首を掠めていく冷たい海水。寄せては返す波の音は、絶え間なく続く肺の呼吸のように規則正しく、世界から一切の争い事が消え去ったかのような錯覚を覚えさせる。


 ふと視線を上げると、少し先の防波堤に、見慣れた背中がぽつんと佇んでいた。


「……フィルか」


 今朝、誰に声をかけるでもなく、何かに急かされるようにして家を出ていった相棒の姿だった。


 フィリップは、年季の入った……というよりは、至る所に傷や染みがこびりついた古びた画材一式を足元に置き、今にも脚が折れそうなほどガタついたイーゼルに向き合っていた。


 その上に広げられた画用紙は、湿気と経年劣化によって端が丸まり、黄ばんでいる。


 彼は筆を動かすわけでもなく、ただじっと、指先で空中に輪郭を描くようにして構図を練っている。


 フィリップには、ハンターとしての荒々しい顔の裏に、「絵画」という繊細な趣味が隠されていた。


 以前、姉のレーネから聞いたことがある。


 彼はかつて、本気で絵の道を志し、寝る間も惜しんで学んでいた時期があったのだと。

 だが、無情な現実は彼の筆を折り、夢を奪った。


 その手を握りしめるべきは筆ではなく、姉の薬代と日々の糧を稼ぐための武器だった。貧困という名の怪物は、少年の才能を飲み込み、彼を血生臭いハンターの道へと突き動かした。


 ロウェルは足音を砂に吸わせながら、静かに彼へ近づいた。


 背後数メートルの距離まで迫り、彼がキャンバスに注ぐ情熱の熱量を感じ取ってから、努めて穏やかな、耳に心地よい低音で声をかけた。


「今日も精が出るなあ。良い絵は描けそうか?」


 その瞬間、フィリップの肩が跳ね上がった。


「っと! ロウェルか! イキナリ後ろから話し掛けるなよ! かなりビックリしたぜ!」


 心臓が口から飛び出しそうなほどの驚きようだ。慌てて振り返る彼の左手にはパレットが握られていたが、その角度は無残にも大きく傾いでいる。

 練り合わされたばかりの青や白の絵の具が、重力に従って縁のギリギリまで滑り落ちていた。


「おいおいフィル、絵の具が溢れるだろ。勿体ないじゃないか」


 ロウェルは苦笑しながら、フィリップの震える左手にそっと自分の手を添えて支えた。その指先から伝わる彼の体温は、驚きのせいか、あるいは創作の昂ぶりのせいか、普段よりも少し高く感じられた。


 支えがてら、ロウェルは書きかけの絵に視線を落とす。


 そこに描かれていたのは、今まさに彼らの眼前に広がる大海原だった。しかし、明らかな違和感があった。


 今は太陽が天頂から少し傾いたばかりの、明るい午後であるはずだ。なのに、絵の中の世界は、燃えるような朱色に染まっていた。水平線の彼方へと沈みゆく巨大な夕日が、海面に一筋の血のような光の道を刻んでいる。


 その画力は、素人目にも確かなものだった。水彩特有の、色がにじみ、溶け合う絶妙なグラデーション。波の飛沫は繊細な白で表現され、今にも画面から潮騒が漏れ聞こえてきそうなほどだ。


「なあフィル。なんでこの絵は夕方なんだ? こんな真っ昼間に描いているのに」


 ロウェルは眉の間に薄い皺を刻み、純粋な疑問を投げかけた。

 

 フィリップは、支えられた手を離すと、深く、重い溜息を吐き出した。


「夕方だと姉ちゃんの世話があるだろ? 仕事も入ったりもするしな。……まあ、想像だけでこれだけの夕日が描ける俺って、もしかして天才かも?」


 彼は少しだけ得意げに、鼻の頭を指でこすりながら「したり顔」をしてみせた。だが、その言葉の裏には、自由な時間に好きな光景を描くことすら許されない、彼の過酷な現状が透けて見える。


 ロウェルはそんなフィリップの冗談を、いつものように適当に受け流しながら、彼の金色の髪を乱暴に掻きむしった。


「やめろよ!」と抗う声を無視して絵を眺め続けていたロウェルの目は、さらに別の奇妙な点を見つけ出した。


 風景の中、黄金色に輝く波打ち際に、一人の少女の後ろ姿が描き込まれていた。


 両手を大きく左右に広げ、まるで潮風を全身で受け止めようとしているかのような、自由で、どこか儚げなシルエット。


 そういえば、フィリップが描く風景画には、必ずこの少女がいた。


 港町アダーの喧騒を描いたときも、荒れ果てた草原を描いたときも、構図の片隅には必ず、この正体不明の少女の後ろ姿があったのだ。


「なあフィル、何でお前の絵には、いつもこの女の子がいるんだ? どう見てもレンじゃなさそうだし……」


 ロウェルは、その少女の褐色がかった長い髪の描写を見つめながら問いかけた。


 フィリップは、それまでの軽薄な態度を急に変えた。耳の端まで朱色に染め、照れ隠しに人差し指で鼻の下を何度も掻いている。


「へへ……実は、俺の初恋の人を必ず入れてるのさ」


 彼の声は、寄せては返す波の音に消されそうなほど小さく、だが確かな熱を帯びていた。


 絵の中の少女は、肩甲骨のあたりまで伸びた艶やかなストレートの褐色の髪を、夕風になびかせている。

 その立ち姿からは、彼女が放っていたであろう清廉な空気感が、数年の時を経た今もフィリップの心の中で色褪せずに生きていることが伝わってきた。


「へぇ、初恋の人ねえ。シスコンのフィリップ君は、レンにベタベタなだけかと思ってたぜ」


 ロウェルがわざとらしく嫌味な声色を混ぜると、フィリップは顔を真っ赤にして反論した。

 手に持った筆から、鮮やかな青の絵の具が飛沫となってロウェルの服に飛ぶが、彼は気にする様子もなく笑っている。


「うっせえ! この修道女さんは、可愛くて、優しくて、ダンスも踊れる……まさに俺の理想の人なんだよ! あんなガサツな姉ちゃんと一緒にするな!」


「そのガサツ姉ちゃんの彼氏は俺なんだが?」


 ロウェルが呆れたように、けれどどこか楽しげに肩をすくめると、フィリップは勢いよく語り始めた。それは、彼が大切に胸の奥に仕舞い込んでいた、宝箱を開けるような行為だった。


 フィリップの話によれば、それはまだ彼が幼い頃、アダーの街角での出来事だった。


 雑踏の中で、一人の修道女が踊っていた。その身のこなし、指先の動き、そして何より周囲の人々を惹きつける朗らかな笑顔に、少年だったフィリップの心は一瞬で奪われた。


 その後、夕食の食材を探しに浜辺へやってきた彼は、運命の再会を果たす。


 目の前の波打ち際に、あの時の修道女が座っていたのだ。


 心臓の鼓動が耳の奥で激しく打ち鳴らされ、少年はいてもたってもいられなくなった。震える足で彼女に近づき、声をかけた。


 勇気を振り絞って対面した彼女は、その時のレーネと同じくらいの年齢に見えた。

アルカスル教の修道女でありながら、その着こなしはどこか奔放で、襟元が少しはだけていても気にしないような、あっけらかんとした雰囲気を持っていた。


 彼女の瞳は海のように深く、その声は鈴を転がすように人懐っこかった。


「それでな……俺がカッコいい男になったら、必ず迎えに行くって約束したんだ」


 フィリップは、潮風に遠くを見つめながら、初めてその誓いを口にした。


「へぇ、それは初耳だな。で? 愛しの天使様とは、それっきりなのか?」


 ロウェルは、相棒の珍しい色恋沙汰を楽しみながら聞き入った。普段は皮肉を言うか、あるいは生活の重圧に押しつぶされそうな沈んだ顔をしているフィリップが、この時ばかりは少年のように目を輝かせている。


「それが全然……。名前を聞いたからさ、後で教会に問い合わせたんだけど、『そんな人物はいない』って言われちまったんだ。訳わかんねーだろ?」


 フィリップは腕を組み、眉を八の字にして困惑の色を浮かべた。


 その時、二人の間を、少しばかり温度の上がった暖かい海風が吹き抜けた。風は砂を巻き上げ、アダーの町へと駆け抜けていく。


「どういうことだ? 名前、聞き間違えたんじゃないのか?」


 この世界において、アルカスル教の管理能力は絶対に近い。彼らは膨大な名簿を管理し、フルネーム一つあれば、その所在を瞬時に把握できるはずなのだ。


「ちゃんと聞いたっての! 絶対に忘れるわけないだろ。姉ちゃんの名前はエルミナ。……エルミナ=トリシュール。間違いねえよ」


 その瞬間、ロウェルの全身から体温が消えた。


 心臓が不自然に大きく、一回だけ強く脈打つ。


「エルミナ」


 その名は、ロウェルの記憶の最深部に封じ込めていた扉を、暴力的なまでの勢いで抉じ開けた。


 景色が歪み、波の音が遠のく。


 テドの町の祭壇に「供えられた」、あの……。



 数秒。時間にして、わずか数瞬の出来事だったが、ロウェルにとっては永遠のような沈黙だった。


「……そ、そうか。そういう名前だったんだな、その子は」


 絞り出した声は、自分でも驚くほどに掠れ、くぐもっていた。


「なんだよ急に静かになって。別に俺が誰を思い出して描こうが、お前に関係ないだろ?」


 フィリップは、ロウェルの異変に気づくことなく、むくれた顔で再び筆を走らせ始めた。


 ざざぁん、という小波の音。そして、キャンバスを擦る筆の乾いた音。


 ロウェルは、震える指先を、絵の中の少女の髪へと伸ばした。


「ちょっ、何してんだよ! 触るな!」


「この子が、お前の初恋の人ねえ……」


 ロウェルは無理矢理にニヤついた表情を作り、伸ばした手をそのままフィリップの頭へと持っていった。


 そして、先ほどよりもさらに激しく、その金色の髪をぐしゃぐしゃに掻き回した。


「ああもう、やめろってば!」


 軽い鼻笑いを残し、ロウェルは背を向けてアダーの街へと歩き出した。


 ……そう、この港町アダーは、かつてロウェル自身が訪れた場所。アルカスル教の牧師を名乗るレッツォという男、そして――フィリップの初恋の相手、エルミナと共に。


 かつての恋人が描かれたキャンバスを背に、ロウェルの胸の内には、心地よい日差しとは裏腹の、暗く冷たい澱が溜まっていくのだった。




 町中を歩くロウェルの肌を、昼過ぎの柔らかな陽光が撫でていく。太陽はすべてを等しく照らし、一時的にでも陰鬱な気分を忘れさせてくれるかのようだ。潮風の香りが鼻腔をくすぐり、高揚感に似た感覚を呼び起こす。


 街中で小さな音楽団が演奏する音色が、気分を少しだけ和らげる。


「なぜ『あの日』、俺は彼女が帰る夕刻まで、あんなに深く眠りこけていたんだろうな……」


 独り言のように苦笑いを漏らしながら、彼はいつの間にか、ハンターの詰所の前に辿り着いていた。


「仕事……探さないとな」


 視線の先にあるのは、潮風に晒されて外壁の塗装が剥げ落ちた、冴えない二階建ての建物だ。一階は広々とした木造のホールになっており、数台の待合テーブルと受付があるだけの殺風景な造りだが、日中は仕事を求めるハンターたちでごった返している。



 現在のハンター制度は、厳格な階級社会だ。

最底辺のF級は、ドブ掃除やネズミ退治といった便利屋以下の仕事しかなく、報酬はパン一つ買うのにも苦労する「雀の涙」程度。


 魔石の欠片を持つような魔物を辛うじて狩れるようになるのがD級。


 そしてC級以上――ここからが、真の意味での「ハンター」の領域だ。魔物だけでなく、対人討伐……つまりは「殺し」の仕事も受注可能となる。

ロウェルとフィリップは、現在このC級に位置していた。


 ロウェルは、壁一面に貼り出された依頼書を一つずつ眺めていく。


「どれも、いつもと同じだな」


 黄ばみ、端がボロボロになった依頼書の数々。何度も使い回され、誰も受けたがらないような過酷で低報酬な案件。彼は溜息をつき、視線を横にずらした。


その時。


 視界の端で、一枚の紙が、不自然なほど白く、新しく揺れていた。


 その文字を目にした瞬間、ロウェルの心臓が冷たく凍りついた。



『~ビルデン王朝民主化にご協力を~』

 内容は、過激極まるものだった。


 ビルデン王制度を撤廃し、平等を謳うため、現国王および現近衛騎士団長の「討伐」――すなわち、暗殺を依頼するというもの。


「……王制度は現在弱体済み、残るは上記二名の討伐のみ。報酬は、言い値で払う、か」


 依頼人の名は、マスカル=アーバスタ。かつての近衛騎士副団長。


 国家反逆。血の匂い。そして、法外な報酬。


 真新しい依頼書は、乾いた風にパタパタと音を立てていた。それはまるで、破滅への招待状が手招きをしているかのようだった。


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