第七十三小節 〜HOME Made Family〜
夕闇が迫るアダーの街。
活気ある商業区を通り抜け、レンガ造りの美しい街並みが途切れたその先に、彼らの帰る場所はある。
街の門をくぐれば、夕食の準備を急ぐ住人たちの笑い声が聞こえてくる。先ほどまで森の近くに魔物が出ていたことなど、人々は知る由もない。
キラフ共和国が表向きに公表しているのは、便利屋のような「クエスター制度」だけだ。ハンターという血塗られた存在は、社会の裏側に巧妙に隠されている。
「んじゃ、俺はサクっと詰め所に寄って換金してくるわ!」
フィリップは元気な声を上げると、愛馬を走らせて群衆の中へと消えていった。
昼間の喧騒は息を潜め、太陽のきらびやかな熱気は、広大な海へと吸い込まれていた。
ロウェルは1人、馬から降りて手綱を握り、海沿いの小道へと足を進める。
二階建ての家々の間に張られたロープでは、洗濯物が潮風に煽られてパタパタと音を立てていた。潮の香りが濃くなり、視界がパッと開ける。
目の前に広がるのは、沈みゆく夕日に照らされた広大な砂浜。
「ふう……」
ロウェルは深く息を吐き出し、馬の柔らかな頬を愛おしそうに撫でた。そのまま海岸沿いを歩くと、やがて古びた集落が見えてくる。
そこは、街の華やかさとは無縁の場所だ。潮風に晒されて色褪せた木造の小屋が並び、痩せ細った住人たちが細々と暮らしている。
「よう、ロウェル。今日も終わりかい? ご苦労さんだな」
声をかけてきたのは、40才代の髭面の男だった。薄汚れた服装だが、その笑顔は少年のように屈託がない。
「ああ、また魔石をぶっ壊してきた。今度、酒でも奢ってやるよ」
「よせやい。レンちゃんの薬代、まだ足りないんだろ? 無理すんなよ」
男は安っぽい釣竿を片手に、笑って去っていった。
貧しいが、ここには確かな「生活」があった。
ロウェルは1軒の、特に古びた、しかし手入れの行き届いた小屋の前に立った。窓辺には、色鮮やかな花が活けられた花瓶が見える。
「……ユイーブちゃん、来てるんだな」
ロウェルは馬を簡易的な厩舎に繋ぎ、扉を開けた。
ギギギ……と、古い木材が擦れる乾いた音が響く。それと同時に、食欲をそそる芳醇な香りが鼻をくすぐった。
「今日は魚の煮物か……」
目を閉じ、その香りを味わうように呟く。
居間に入ると、そこには1人の少女が立っていた。
身長150cmほどの小柄な体に、赤みを帯びた黒髪。継ぎ接ぎだらけのグレーのワンピースを着ているが、その瞳は意志の強そうな紅い輝きを放っている。
「あ、お帰りなさい、ロウェルさん! 今日はレンお姉ちゃん、調子がいいみたいですよ」
お玉を片手に、ユイーブが愛らしいえくぼを浮かべて笑う。
「いつも悪いな、ユイーブちゃん。お礼もしなきゃいけないんだが」
「もう、水臭いですよ!」
ロウェルが壁に剣を掛けると、ユイーブは首を傾げて尋ねた。
「で、あのバカ……フィルは?」
「ああ、バカは詰め所で今頃、武勇伝でも語ってるだろうさ。そのうち帰ってくる」
「ロウェル? 帰ってきたの?」
奥の部屋から、かすれ、咳き込みながらやせ細った声が聞こえた。
ロウェルは表情を和らげ、寝室の扉を開けた。
そこには、ベッドの上で上半身を起こした金髪の女性――レーネがいた。
彼女の緑色の瞳は、病による衰弱で輝きを失いかけてはいるが、それでも弟のフィリップと同じ、負けん気の強さを宿している。
「もう……返事も待たずに入るなんて、野獣ね」
「いいだろ、俺もここに住んでるんだから。……今日は元気そうだな、レン」
ロウェルは彼女の隣に腰掛け、細くなった肩を優しく抱き寄せた。先ほどまで魔物を屠っていた殺気は消え、そこにあるのはただの恋する男の顔だった。
「ねえ、今日はユイーブちゃんの煮付けが食べられそうなの。嬉しいわ」
普段は流動食しか受け付けない彼女が、そう言って微笑む。その小さな幸せのために、ロウェルは剣を振るっているのだ。
「ああ、薬代も貯まってきている。もう少しの辛抱だ」
「無理しないでね。……代わりに、あのバカ弟を死ぬほどこき使っていいから」
レーネが悪戯っぽく笑う。ロウェルはその愛らしさに抗えず、彼女の唇を奪った。
「あー、やっぱり野獣だー!!」
窓の外から、間の抜けた叫び声が響いた。
見れば、フィリップのツンツン頭が窓枠から覗いている。
「お熱いねえ、お二人さん! 噂のこき使われる弟が帰ってきましたよっと!」
この後、不法侵入(窓からだが)を働いたフィルが、姉とその恋人と幼馴染の3人にたっぷりとお説教を食らったのは、言うまでもない。
夕食の時間になった。
小さなテーブルを囲み、4人はユイーブ特製の魚料理をつつく。海水の塩気とハーブの香りが絶妙に絡み合い、素朴ながらも五臓六腑にしみわたる味だ。
「うめぇ! やっぱユイーブの料理は最高だな! お前、早くどこかに嫁に行けよ」
フィリップの無神経な一言に、その場の空気が凍りつく。
ユイーブは頬を赤らめ、俯きながらボソリと呟いた。
「……うるさいわね。レン姉ちゃんを放って仕事ばっかりしてるバカに言われたくないわ」
「はぁ……」
「ったく……」
ロウェルとレーネが同時に溜め息をつく。
当のフィリップだけが、何のことやらと首を傾げながら、豪快にパンを口に放り込んでいた。
食事が一段落した頃、フィルは満足げに胸のポケットから、あの魔石の欠片を取り出した。
「姉ちゃん、これ。今日の獲物だ。綺麗だろ?」
「……ええ、本当に。でも、これが魔石だなんて、信じられないわね」
レーネがその光に見惚れていると、ロウェルの声が、室温を数度下げるような冷たさで響いた。
「フィル。お前の部屋の『お宝ボックス』とやらに、他にも隠してるだろ」
「げっ! なんでそれを……」
フィリップは苦笑いを浮かべながら、左の頬をポリポリと掻いた。
これは彼が嘘をつくとき、あるいは極度に緊張したときに出る、幼い頃からの癖だ。
「お前の考えてることなどお見通しだ。変なことに使おうとしたら、この家から叩き出すぞ」
ロウェルは立ち上がり、フィルの胸ぐらをぐいと掴み上げた。
その瞳は、昼間の戦闘時よりも鋭く、昏い。
「いいか、フィル。よく聞け。……もしお前が魔石の力に魅入られるようなことがあれば、俺がこの手でお前を殺してやる」
凍りつくような殺気。
フィリップは冷や汗を流しながら、強張った笑みを浮かべた。
「じ、冗談きついってロウェル……俺たち、相棒だろ?」
「……冗談じゃない。俺は以前……」
ロウェルは言いかけて、言葉を飲み込んだ。
……かつて自分の手で、愛する家族と友人を殺めた過去。それを今のこの温かな光の中で話すことなど、できるはずもなかった。
「……夜も更けた。ユイーブちゃんを家まで送ってやれ」
急にトーンを変えたロウェルに促され、フィリップとユイーブは慌てて家を後にした。馬の嘶きが遠ざかっていく。
その後、ロウェルは1人、家の裏手の波止場に腰を下ろした。
寄せては返す波の音。頭上に広がる満天の星。
彼は左手の紅いグローブをじっと見つめ、誰もいない夜の海に問いかけた。
「……なあ。俺たちの夢って、一体何だったっけな?」
答えを運んでくるのは、彼の金髪を冷たくなでる、夜風だけだった。




