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第七十二小節 ~Cadenza ad lib.~(Royne's SOLO)



 天を仰げば、そこには雲ひとつない虚無に近い紺碧が広がっていた。


 吸い込まれそうなほどに澄んだ夜空の頂に、鋭利な刃物で切り取ったかのような三日月が、冷ややかな、しかしどこか慈愛に満ちた白銀の輝きを放っている。肺の奥まで入り込む風は、冬の訪れを予感させる鋭い冷気を帯びていた。


 湿り気を含まないその乾いた風は、肌を撫でるたびにわずかなちりちりとした刺激を与え、周囲に漂う「死の静寂」を際立たせている。


 視線を遠くへ投げれば、うっすらと山脈の稜線が、闇の中に巨大な巨人の影のように浮かび上がっていた。それはまるで、この無惨に破壊し尽くされた地を、これ以上の穢れから守り、あるいは見捨てられた歴史を閉じ込めようとする結界のようにさえ見える。


 どこか遠くで、夜に紛れる野生の獣、あるいは死肉を漁る魔物のものだろうか、喉を震わせるような細く、かすれた呻き声が、風に乗って耳を打つ。その響きには、生きるもののたくましさよりも、抗いようのない運命に打ちひしがれたような哀愁が混じっていた。


 その時だ。何もないはずの虚空に、奇妙な歪みが生じた。


 木製の重厚な両開きの扉が、まるでもとからそこにあったかのように唐突に姿を現す。扉の表面には歳月を経た深い年輪と、無数の傷跡が刻まれていた。


 どこからともなく差し込んだ一筋の光が、劇場のスポットライトのようにその扉を照らし出す。


 周囲の静寂を切り裂くように、扉が開いた。湿り気を帯びた古い木材が擦れ合い、軋みを上げる鈍い音が、密度を増した大気を震わせて響き渡る。その暗い隙間から、一人の男が静かに足を踏み出した。


 褐色の、所々が綻びた古びたローブを羽織った男、ロインである。


 彼の足元には床も道もない。しかし、彼は重力から解き放たれたかのように、音もなく虚空を歩んだ。夜風に長めの髪をなびかせ、彼が夜空の月を見上げると、その薄い唇から微かな白い吐息が漏れる。


 重い荷を一つ下ろしたかのように、ロインは肩の力を抜いた。使い込まれたローブの内側から、しなやかな曲線を描くリュートを取り出す。

 彼の細い指先が弦に触れた瞬間、しっとりと穏やかな、それでいて胸の奥を締め付けるような切ないメロディーが夜の闇へと溶け出していった。弦が震えるたびに、微かな木の残響が周囲の空気を優しく波立たせる。


 彼の足下、はるか下方に広がるのは、言葉を失うほどの絶望の光景だった。


 そこにはかつて、人々の営みがあり、笑い声があり、栄華を誇ったであろう文明の欠片が、ただの「瓦礫の山」と化して積み重なっている。粉々に砕け散った石材、焼け焦げた木材の残骸、それらが幾層にも重なり合い、不気味な凹凸を大地に描いている。


 ロインが浮遊する高度から見下ろしても、その破壊の爪痕は果てしなく続いていた。直径数15kmは優に超えるだろうその灰色の荒野は、巨大な都市一つがまるごと、神の怒りに触れて押し潰されたかのようだ。


 かつての街路も、広場も、今はただの塵の堆積に過ぎない。


 ロインの奏でていた調べが、最後の残響となって夜風に消えていく。彼は演奏を終えると、慈しむような、それでいて深い憐れみを込めた眼差しで足元の死せる大地を見つめ、静かに、朗々と声を響かせた。


「皆様、私の試練の一つはお楽しみ頂けたでしょうか? 彼の者の過去を語り継ぐのが私の試練、そして……」


 ロインは再びリュートの弦に指を掛けた。今度はメロディーではなく、低く沈むような寂しげな和音を一つ、深く弾く。


 その音に応じるかのように、瓦礫の間から、あるいは夜の闇の底から、淡い光が湧き上がってきた。

 

 この地方にのみ生息する、特有の発光器を持った甲虫たちだ。一つ、また一つと宙に舞い上がったその群れは、翡翠色の淡く、幻想的な光を放ちながらロインの周囲を包み込んでいく。

 それはまるで、無数の小さな魂が、一時の救いを求めて彼に集まっているかのようだった。光の粒が彼のローブを照らし、空中にあるはずの彼の姿を、この世のものとは思えぬ美しい舞台へと変えていく。


「彼の者の『今』を伝えるのも私の試練」


 小さく呟かれたその言葉は、誰に聞かせるためでもない独白のように。しかし、その憂いを帯びた瞳には、月の光を反射する以上の輝き――こらえきれぬ涙が潤んでいた。


「愛する者を失い、友を手に掛け、

 その心壊れても、守るべき正義を貫く。

 例えその手が血塗られようとも、

 幼き決意に思いを馳せ、彼は勇者の名を継ぐ」


 彼の手にするリュートは、もう音を奏でてはいない。ただ、夜を支配する虫たちの羽音と、吹き抜ける風が建物の残骸に当たって鳴らす口笛のような音だけが伴奏となった。


 その静謐な調和の中で、ロインは歌い上げた。彼の歌声は、破壊された大地の底に眠る魂を鎮めるかのように、どこまでも深く、澄み渡っていた。


 歌い終えた後、ロインはしばらくの間、祈りを捧げるように俯いていた。肩が微かに震え、彼の中に渦巻く感情の激しさを物語る。だが、やがて彼はゆっくりと顔を上げると、再び夜空に浮かぶ孤高の月を見つめ、真実を紡ぎ出した。


「あの後、彼は歴史を動かしたのです。この場所はかつてフェルダイ帝国の帝都、ライカンが『あった』場所の空」


 その穏やかな、春のせせらぎのような口調からは想像もつかない、あまりにも重く無慈悲な事実。

 

 足元に広がる約15km以上にも及ぶ瓦礫の正体は、かつて大陸最強の一角を担った帝国の心臓部、その成れの果てだった。


「さぁ、そろそろ彼の時間に戻りましょうか。そう、約束のあの名前を名乗る彼のところへ……」


 ロインは懐から、一冊の分厚い楽譜を取り出した。革の表紙は使い込まれて黒ずみ、縁はボロボロに擦り切れている。


 彼はその楽譜を愛おしそうに開き、とあるページの四十二小節目を指先でなぞった。彼の口元に、どこか悲しげで、けれど確かな期待を込めた微笑が浮かぶ。


「その名を……ロウェル、と」


 彼がその名を小さく、けれど意志を込めて発した瞬間、背後の扉が生き物のように口を開けた。吸い込まれるように、あるいは光の中に溶け込むように、ロインの姿はそこから消え去った。



 扉が閉まる音すら響かない。ただ、扉があったはずの空間がわずかに揺らぎ、次の瞬間には、再び夜の静寂だけがこの死の平原に舞い戻ってきた。


 ――ロインの言葉は、この地に刻まれた残酷な歴史そのものだった。


 フェルダイ帝国帝都ライカンは、地図からその名を消し、完全に滅んだ。


 もう数年前のことになるだろうか。平和を享受していた帝都の空を、突如として黒い影が埋め尽くした。それは、紛うことなき「竜」の大群だった。


 数多くの屈強な竜討騎士たちが守護し、鉄壁を誇ったはずの帝都。しかし、天から降り注ぐ炎と、大気を引き裂く咆哮、そして大地を粉砕する巨体の前では、人間の築き上げた城壁など砂の城に過ぎなかった。


 彼らは三日三晩にわたって街を焼き尽くし、命あるものを蹂躙し、最後には石造りの建物さえも塵へと変えたのだ。


 本来、竜という種族はこれほど統制された行動をとることはない。強大な力を持つがゆえに個であり、徒党を組んで国家を襲うなど、生物学的な理屈からも外れていた。


 遥か昔、伝説の時代に神竜メガイエルは英雄によって討たれ、それ以来、竜族を束ねる王は存在せず、その統率も弱まっていたはずだった。


 また、政治的な面を見ても、隣国のビルデン王国とは表面上の緊張こそあれど、裏では密接な繋がりがあった。他国が帝都まで侵攻を許すような手引きをすることも、現実的には考えにくい。


 しかし、現実に起きたのは、最悪の推測を肯定する事態だった。


 フェルダイ帝国の各地方に潜んでいた竜や、竜と共に歩む竜戦士、さらには竜の力をその身に宿した「竜依戦士」までもが、何かに憑りつかれたかのように一斉に帝都への総攻撃を開始したのだ。


 彼らの瞳には知性の色はなく、ただ自らの死さえ厭わない狂乱の炎が宿っていた。それは歴史に類を見ない、人間と竜族との、凄惨極まりない殲滅戦となった。


 そして、その狂乱の軍勢の先頭を、静かに、しかし誰よりも苛烈に歩んでいたのは、金髪をなびかせ、氷のように冷たく澄んだ蒼い瞳を持った一人の青年。


 彼の左手には、この世成らざる漆黒の劫火が渦巻いていたと言う……。


 帝都ライカンは陥落し、そこに居を構えていた皇族は、幼子に至るまで全てが絶えた。フェルダイ帝国は、その歴史の幕をあまりにも唐突に、そして暴力的に閉じ、国家として事実上の崩壊という悲劇的な末路を辿った。



 しかし、完全な暗黒の中に、わずかな希望の光が差し込む。


 北のキラフ共和国に本拠を置く、平穏と慈愛を説くアルカスル教が、この混乱の最中に手を差し伸べたのだ。


 主を失ったフェルダイの領土は、一部がキラフ共和国と合併。統治機構が崩壊したことで、各地の辺境の村などで起きていた役人による圧政や腐敗が、期せずして一掃されることとなった。


 それは、何百万人という犠牲の上に成り立つ、皮肉な「不幸中の幸い」であった。


 帝都の瓦礫は今も、夜の静寂の中で眠り続けている。だが、ロインがその名を呼んだ時、運命の歯車は再び、重々しい音を立てて回り始めた。


 歴史は止まることを知らない。また、新たな潮流が生まれようとしていた。


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