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第七十小節 ~紅の鎮魂歌~



 夜空の星々は、地上で繰り広げられた惨劇など知らぬげに、ただ静かに瞬いている。


 荒野を渡る風は、先刻までの熱気を奪い去り、代わりに冷ややかな静寂を運んできた。立ち込めていた砂煙は沈み、鉄の匂いを含んだ空気が重く澱んでいる。

 狂乱の時間は過ぎ去り、世界には再び、拒絶しようのない「夜」が訪れていた。


 男は、もはや断末魔の叫びを上げる余裕すら残されていなかった。


 荒い呼吸が、乾いた地面をわずかに震わせる。薄れゆく意識の淵で、彼は自らに近づいてくる「死」の足音を聞いていた。

 

 胸を貫くのは、かつて自らが振るっていたはずの巨大な凶刃。その柄を掴む右手には、手の皮を保護するためのグローブが填められていたが、今は溢れ出した自らの血でヌルつき、その感触さえ定かではない。


「……さぁ、人間。この右足と同じように、一本ずつ、丁寧にその手足を引き抜いてやろうか?」


 黒竜の声は、もはや理性の破片すら留めていなかった。


 彼はゆっくりと男に歩み寄る。その手には、先ほど引きちぎったばかりの「男の右足」が握られていた。黒竜は、断面から滴り落ちる生温かい血液を、長い舌で厭らしく受け止め、啜り上げる。


「て……め……っ……」


 男が、血の混じった唾を吐き捨てながら口を開こうとした瞬間だ。


「やはり、一思いに殺すのは勿体なイ。ゆっくりと時間をかけて、貴様の絶望が極みに達するまで……甚振ってから殺シテやノレ!!」


 黒竜の漆黒の瞳が、歓喜に歪んで見開かれた。


 彼は手に持った「肉塊」――男の右足を振り上げた。そして、それを鈍器として、横たわる男の頭部を、胴体を、何度も、何度も、無慈悲に殴りつけた。


 ――グチャリ。

 ――ベチャリ。


 水分を含んだ、耳を塞ぎたくなるような凄惨な打撃音が響き渡る。大量の血液が夜の空に舞い散り、周囲の岩石を紅く染め上げていく。


「死ね! シネ! 死ネ、シネ、シネェエエエエ!!」  


 呪詛のような連呼と共に、黒竜は狂ったように腕を振るい続けた。


 もはや、ここには神の救いも、人の情けも存在しない。あるのは地獄絵巻そのものの光景だ。



かつて心優しかった青年の肉体を使い、憎き男の身体を、その欠損した肉体の一部で損壊し続ける。黒竜は、腹の底を震わせるような嘲笑を、荒野の端まで届かんばかりに轟かせた。


 男の身体も、黒竜の身体も、降り注ぐ返り血が空気に触れて、徐々にどろりとした塊へと変わり始めた頃。


 彼らの肉体に、決定的な異変が起こった。


 狂気によって我を忘れていた黒竜は、突如として襲ってきた脱力感に動きを止めた。


 自らの身体から溢れ出る「黒い霧」と血液の量が、この肉体を維持できる限界値を、とうに超えてしまっていたのだ。


「ぐぅ……っ……。遊び、すぎたか……。だが、貴様の、息の根だけ、は……っ……」


 左手に鋭利な爪を形成し、男の喉元を掻き切ろうとした。


 ……しかし、その刹那、黒竜の意識は急速に霧散し、深い闇へと没していった。


「こんな、ところで……っ……」


 黒竜だった異形の身体は、まるで操り糸を切られた人形のように、その場に崩れ落ちた。うな垂れ、俯き、荒い呼吸を繰り返す。


 殺気も、邪気も、すべてが嘘のように消え去った。


 眠りについていた東の空の端が、薄らと目覚めの準備を始めている。世界は青白い薄明かりに包まれ、微かな虫の音と、絶え絶えな男の呼吸音だけが、命の存在を主張していた。


 やがて、黒竜だった存在が、ゆっくりと顔を上げる。


 そこにいたのは、漆黒の鱗を失い、血に塗れたボロボロの紳士服を纏った、一人の金髪の青年だった。


「……僕は……? エル……エルは……ど唸ったんだ……?」


 ルヴェンだった。


 彼には、ここ数時間の記憶がまったくない。教会を飛び出し、鍛冶屋を訪ね、絶望に襲われ、「あの鐘」の音が響いてからの時間が、まるごと欠落していた。


 視界に入るのは、朝日によって照らし出された、凄惨極まりない自分の姿。


「え……っ!? な、なんだ、この血は……っ!?」


 右手に、ズシリとした重みを感じた。


 恐る恐る視線を落とすと、そこには自分がしっかりと掴んでいる「人間の足」があった。


「うわぁああああああああ!!」


 悲鳴を上げ、彼はその無残な肉片を放り出した。腰を抜かし、尻餅をついたまま後退る。


 そして、その先に横たわっている「持ち主」の姿が、ルヴェンの瞳に飛び込んできた。


 胸に、巨大な剣を突き立てられ、大地に釘付けにされた男。


 血まみれになった紅いマント。その首元には、色褪せた蒼いマフラー。



 間違いなく、それは「竜討騎士」の装束だった。



 ルヴェンの脳内は混乱を極めていた。

 自分の記憶では、まだ夜中のはずだ。なのに、なぜ今、太陽が昇ろうとしているのか。なぜ自分はこんな血の海に立っているのか。


 震える呼吸を整えようと、彼は目の前の騎士の顔を見つめた。



 苦痛に歪み、蒼白になったその横顔。

 見間違えるはずがなかった。



「……オル……ス……?」



 その名は、祈りのようでもあり、絶叫のようでもあった。


 炎のような赤い短髪。意志の強そうだった黒い瞳は、今は虚ろに天を仰いでいる。


 男の右手に填められたグローブは、今ルヴェンの左手に装着されているものと全く同じ意匠。そして、胸に刺さる大剣のわずか上、血に汚れながらも鈍く光る一対のネックレス。


 それは、かつて共に笑い、共に幸福を噛み締めあった、人狼兄弟の形見。


 親友であるオルスが、竜討騎士として、今まさに自分の手によって生命の灯火を消そうとしていた。


「嘘だ……。嘘だ、オルス! どうして……どうして君が、こんなことに……っ!」


 ルヴェンは這いずりながら彼に歩み寄り、その血に濡れた身体を抱きしめた。


「オルス! 目を開けてくれ! 嘘だと言ってくれよ!」


 ルヴェンの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。それは、死にゆくオルスの頬に落ち、血を薄めて流れていく。


「……わり……ぃ……っ……」


 オルスは、焦点の合わない瞳で、懸命にルヴェンの姿を探していた。


 失われすぎた血液。奪われた視力。それでも彼は、親友の声に応えようと、その震える唇を動かした。


「オルス! なんで君がバスターなんだよ!? どうして僕たちが戦わなきゃいけなかったんだよ……っ!」


 ルヴェンは、オルスの冷たくなりつつある右手を強く握りしめた。

 だが、オルスの耳には、もう友人の悲痛な叫びは届いていないのかもしれない。ただ、何かを伝えようと、口を小さくパクつかせている。


 混乱し、半狂乱になったルヴェンは、彼の胸に深々と突き刺さったドラゴンスレイヤーに手を掛けた。


「いま抜いてあげる……! 待ってろ、いま……っ!」


 渾身の力を込める。しかし、かつての黒竜が放った一撃は、大地にその剣を、文字通り根付かせていた。ピクリとも動かない。


「どうして……教えてくれよ、オルス……っ! どうして、僕が君を斬らなきゃならなかったんだ……!」


 自分の不甲斐なさに、ルヴェンは何度も何度も大地を拳で殴りつけた。

 すると、優しく、ルヴェンの頭の上にオルスの右手が置かれた。


 ハッとして顔を上げると、オルスは涙を流しながら、最期の力を振り絞って、その声帯を震わせた。


「わりぃ……。お前……を……殺し……て……。俺も……死ぬ……つもり……で……」


 言葉の途中で、彼は大量の鮮血を吐き出した。内臓は、すでにドラゴンスレイヤーの波動によって破壊され尽くしていたのだ。


「オルス!! しゃべっちゃダメだ! 僕はここにいる、ここにいるよ!」


 ルヴェンは彼の横に寄り添い、その重い身体を支え続けた。オルスの手を自分の頬に押し当て、自らの温もりを伝えようとする。


 オルスは、首元にある一対のネックレスに指を触れ、満足そうに、小さく頷いた。


「僕たちは、ずっと一緒だ……! ネックレスが二つ揃ってるじゃないか! だから……だから、死なないでくれ……っ!」



 ーー数秒の間。

 オルスの瞳に、一瞬だけかつての光が宿った。彼は、ルヴェンの瞳をまっすぐに見つめ返し、この世で最も穏やかな微笑みを浮かべた。



 朝日が、地平線の向こうから力強く、目覚めの光を放つ。

 鳥たちの囀りが遠くから聞こえ始め、爽やかな朝風が、二人の少年の髪を優しく撫でて通り過ぎる。



 その瞬間。



 ルヴェンが握っていたオルスの手から、すべての緊張が消えた。


「……オルス? オルス! 返事をしてくれよ、オルス!!」


 オルス=ド=ヴァイア=ゼディアーク。


 一人の少年が、自らの運命に抗い、友と朽ちるために剣を取った時間は、ここで永遠に止まった。


「イヤだぁあああああああああああああ!!」


 ルヴェンの絶叫が、テドの荒野を劈いた。

 彼は泣き崩れ、もはや物言わぬ肉塊となったオルスの頬に、何度も何度も自分の頬を擦り付けた。



 時間は、残酷なまでに流れ続ける。昇った太陽は、容赦なく地上の凄惨さを照らし出していく。それが、この世界の必然なのだ。


 しばらくの間、ただひたすらに泣き続けていたルヴェンの耳に、ふと、優しく、どこか浮世離れしたハープの音色が届いた。


 この世のものとは思えない。血の匂いと死に満ちたこの荒野に、あまりにも不釣り合いな、清廉な旋律。


 ルヴェンは顔を上げ、涙を拭って辺りを見渡した。



 いつの間に、そこにいたのか。

 自分のすぐ背後に、褐色の煤けたローブを纏った人物が、ゆったりとした手つきでハープを奏でていたのだ。


「な……っ!? だ、誰だ、あなたは……っ!」


 咄嗟に身構えようとしたが、不思議とその人物からは、刃のような敵意は一切感じられなかった。


「やっと気がついたね。私はロイン。遥かな時を旅し、物語の結末を見届ける『時空の語り部』だよ」


 高低差のない、しかしどこか幼さを残した青年の声が、ルヴェンの脳内に直接響く。それは、黒竜が語りかけてくるときと同じ、意識の深淵からの響きだった。


 ルヴェンとロインの間には、しばらく言葉がなかった。ただ、風が砂埃を巻き上げ、二人の間を通り抜けていく。


「あなたは……いつからそこに……?」

 

 ルヴェンは、背後に立つロインの、朧げな瞳を見つめた。

 ローブのフードから覗く銀色の長い前髪。その奥にある漆黒の瞳は、まるで無限の暗闇を吸い込んだかのように、何の感情も映し出していない。


「いつから? ――君は、おかしなことを言うね。私は、常に君と一緒にいたよ。その、永遠の眠りについた君の友人よりも、ずっと長く、ずっと親密にね」


 ロインの声は、淡々と事実を告げる。

 ルヴェンはその言葉の真意を理解できず、ただ茫然と彼を見つめるしかなかった。すると、ロインはハープの弦を軽く弾き、一際穏やかで、懐かしいメロディーを紡ぎ出した。


 それは……ルヴェンが幼い頃、母から聴かされた子守唄だった。


「その、曲は……っ……」


「君の友人に、最後の子守唄を歌ってあげなさい。君の心が、壊れてしまう前に。君の心が感じるままの、祈りをね……。その歌が、「私たち」の歌う『鎮魂歌レクイエム』の、始まりとなるのだから」


 ロインの言葉が胸に沁み込むと、ルヴェンの狂乱していた心に、不思議な静寂が訪れた。


 彼は、腕の中に抱かれたオルスの頬を、もう一度だけ優しく撫でた。


「オルス……。ごめんね……。安らかに、眠ってくれ……」


 ルヴェンは瞳を閉じ、ロインの奏でる旋律に身を委ねた。


 溢れ出す感情を、言葉に乗せて、空へと放つ。

 

 『紅に染められし、我が友よ、

 悲しいつるぎ、胸に抱き、

 黄昏に沈み行く、儚き思いよ……。

 

 定めに捕らわれては、誰が為に戦い、

 全て終わりし日に、

 永遠の安らぎを……』

 

 透き通るような美しい声が、朝日に溶けていく。


 歌い終わると同時に、ルヴェンの瞳からは再び涙が零れ落ち、彼は昇りきった太陽を仰ぎ見た。


 ふと背後の気配が消えた。


 ロインは自らのローブから一綴りの楽譜を取り出すと、光を放つ「第一小節」を慈しむように撫で、霞の中に消えるように、その姿を消していた。




 ――この日、炭鉱の町テドには、三つの「大輪の華」が朝日を浴びて咲き誇った。


 一つは、荒野のクレーターで、ドラゴンスレイヤーに串刺しにされたオルスの背中に咲いた、紅い鮮血の華。


 一つは、誰もいない教会の祭壇の上。虚ろな瞳のまま供えられたエルミナの首から流れる、深い紅の華。


 そして。


 オルスの亡骸を丁寧に弔い、ようやく教会へと戻ったルヴェンが。


 愛する彼女の「それ」を見た瞬間に咲いた、絶望という名の華。


「ああああ……ああ、ああああああああああああああああああ!!!」


 彼の優しい心は、その瞬間に完全に崩壊した。


 怒り。憎しみ。絶望。それらが一つの巨大な渦となり、彼の魂を漆黒に塗り潰す。


 何への怒りなのか、もはや彼自身にもわからなかった。


 自分たちを追ったビルデン王国への怒りか。騎士として彼女を手にかけたオルスへの怒りか。あるいは、こんな運命を用意した神への怒りか。

 

 善悪の足枷は、音を立てて外れた。

 



 炭鉱の町テドは、この日、世界から消滅した。

 ルヴェンが解き放った、底なしの憎悪が具現化した「漆黒の炎」。それは一瞬にして街を飲み込み、人々を灰に変え、すべてを虚無へと帰した。


 燃え盛る黒炎の中で、ルヴェンは一人、空を見上げていた。


 その瞳に映るのは、もはや希望でも愛でもない。

 ただ、美しくも悍ましい、漆黒の死の華だけだった。


紅の鎮魂歌 第一楽章 「過去編」 ーー了。

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