第六小節 〜父の手綱〜
背後に感じたのは、殺気ではなく、温かな獣の吐息だった。
オルスが恐る恐る振り返ると、そこには闇夜に溶け込むような漆黒の巨躯――父レグレントの愛馬、サルースが佇んでいた。
戦場を駆け抜けるために鍛え上げられた筋肉、鋼のような毛並み。主を失った今もなお、その瞳には屈強な意志が宿っている。
「サルース……! お前、無事だったのか!?」
オルスは裏返った声で叫ぶと、泥と血にまみれたその首に縋り付いた。
生き延びていたことへの安堵と、父だけが逝ってしまったという残酷な対比に、感情がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
サルースは、小さく震えるオルスの体を大きな鼻先で小突き、慰めるように、あるいは叱咤するように顔を擦り付けてきた。その生温かい感触だけが、ここにある唯一の「生」だった。
「サルース、なぁ……。もう、いいよな? 俺たちも、父上のところで休もうか」
オルスは力が抜けたように父の亡骸の傍らへ腰を落とそうとした。
もう何も考えたくない。このまま父の冷たい腕のそばで、泥のように眠ってしまいたい。
……だが、サルースはそれを許さなかった。
座り込もうとするオルスの襟首を甘噛みし、激しく頭を振って彼を立たせようとする。鼻を鳴らし、蹄で大地を掻くその姿は、明らかに拒絶していた。
――ここで終わるな、と。
「おい? どうしたんだよ……。父上だぞ? お前のご主人様だぞ? 傍にいてやりたいだろ……?」
涙声で言い聞かせるが、サルースは頑として動かず、むしろオルスの背中を鼻先でグイと押した。その視線は、北の空――友が連れ去られた方角を真っ直ぐに見据えている。
「お前……、まさか……?」
オルスの脳裏に電流が走る。
この馬は、まだ戦おうとしているのか。主を失ってもなお、主が守ろうとした「未来」を追いかけようとしているのか。
オルスは涙を袖で乱暴に拭うと、サルースの鞍に手をかけ、その背に跨った。
視線の先に、革の手綱がある。
父が何千、何万回と握りしめてきた、使い古された手綱だ。
「父上の手綱……。こんなに擦り切れて……。こんなに太いのに……」
オルスはその手綱を握りしめた。
父の掌の熱が、汗が、そして魂が染み付いている気がした。
自分の手はまだ父よりも小さく、頼りない。けれど、今は強く握らなければならない。
溢れそうになる涙を、その拳の中に押し込めるように。
彼は腹の底から息を吸い込んだ。
「いくぞ! サルース! 闇塚まで突っ走れぇ!!」
裂帛の気合いと共に、オルスはサルースの腹を蹴る。
黒い稲妻と化した人馬は、風を置き去りにして駆け出した。
景色が後方へと溶けていく。頬を叩く風は冷たいが、サルースの体温が足から伝わってくる。
「いける! コイツなら追いつく! 向こうは三人乗りで足が鈍るはずだ!
こっちはビルデン一の鈍足の父上の……いや、父上が育てた、誇り高いビルデン最速のサルースだ! 追いつかないはずがねぇ!」
自らを鼓舞する叫びは、風に千切れて彼方へ消える。
オルスとサルースは駆ける。
見慣れた田舎道を越え、かつての活気を失った荒れ果てた街を抜け、岩肌が剥き出しになった荒野地帯――闇塚へと。
亡き父の背中を追うように、少年はただ前だけを見つめていた。
オルスが去り、静寂が戻った風塚。
煤けた風の中に、ふわりとロインが姿を現す。
彼は主を失った墓標のような場所に立ち、ハープを爪弾いた。不穏な和音が、大気に波紋を広げる。
「少年は走る、友の下へ、
友は待つ、少年が来ることを。
けれど空は哭き、尚も激しく雨が降る、
命を奪う、悪しき光の雨が……」
その歌声は予言のように重く響き渡り、しばらくの無音の後、ロインは揺らめく陽炎のように景色へと溶けて消えた。
一方、北へと続く荒野。
「ガルブスさん! 痛いっ!」
激しく上下する馬の背で、コリアが悲鳴を上げた。
三人乗りの無理な姿勢に加え、整備されていない悪路の衝撃が容赦なく彼女の小さな体を打ちつける。
「我慢しなよコリア、仕方ないだろ? 舌を噛まないようにしっかり掴まってて」
ルヴェンは自身の不安をひた隠しにし、背中のコリアを庇うように声をかけた。しかし、その表情は焦りで強張っている。
「でも、ガルブスさん! 闇塚ってどこなんですか? もう街から離れすぎてますよ? こんな何もないところ……」
不安と痛みで泣き出しそうなコリアが、手綱を握る騎士の背中に問いかけた。
周囲は乾いた岩と痩せた草木が広がるばかり。人の気配など微塵もない最果ての地だ。
「もう少しだ。黒竜様はその強大すぎる力ゆえ、人里離れた地に封印され祀られている。ここならば奴らの目も届かぬはず……」
ガルブスがそう言いかけ、安堵の息を漏らそうとした、その時だった。
上空の雲が、不自然に裂けた。
雷鳴よりも早く、天から凶悪な閃光が怒号を上げて降り注ぐ。
大地がその衝撃に揺れる。
「しまっ……!?」
ガルブスの叫びは光にかき消された。
それは自然の雷などではない。明確な殺意を持って放たれた、天からの「刃」。
まるで、逃げ惑う獲物をあざ笑うかのように、光の雨が彼らの進路へと突き刺さった。
彼らはまだ知らない。自分たちが逃げているのではなく、狩場へと誘い込まれているだけだということに。




