第六十三小節 〜風と君と竜と~
陽光が世界を黄金色に染め上げる、穏やかな昼下がりだった。
ビルデン国の南西に広がる大草原には、人の営みを拒絶するかのような、気が遠くなるほど真っ直ぐな一本道が地平線の彼方まで伸びている。その頼りない轍の上を、2人の男女を乗せた簡素な馬車が、西へ、西へとゆっくり進んでいた。
見上げる空はどこまでも高く、透き通るような青が広がっている。所々に千切れた綿菓子のように散らばる白い雲が、広大なキャンバスに絶妙なアクセントを添えていた。
視線を地上に落とせば、そこには名も無き数多の花々が咲き誇る、色彩の海が広がっている。薄紅、淡黄、瑠璃色……。陽だまりの中でそよ風に吹かれ、花々はまるでこの平穏な時間を祝福するように、楽しげに身を揺らして踊っている。
乾いた土埃を上げながら走る馬車の御者台で、ルヴェンは手綱を握り直し、目を細めた。
3年前、雪の降り積もるコエグレジンを発ったあの時から、世界は劇的に、そして残酷なほど緩やかに変わり続けていた。
彼らが求めたのは、ただ静かに寄り添って生きていける安住の地。しかし現実は非情だった。行く先々の街や村で、彼らの特異な素性は音を立てて露見し、その都度、王国の騎士たちの冷徹な追跡にさらされてきた。逃亡と潜伏。それがこの3年間の彼らの歩みそのものだった。
(いつか、本当に終わる日が来るのだろうか……)
ルヴェンは心の中でそう自問する。しかし、背後から聞こえてくる快活な声が、彼の不安を瞬時に霧散させた。
「ねー! 村があるよー!」
荷台に乗っていたエルミナが、弾むような声を上げた。
ルヴェンが振り返ると、そこには3年前よりも少し大人びた彼女の姿があった。
腰まで伸びた豊かな褐色の髪を、活動的なように右肩の前で一つにまとめ、意志の強さを感じさせるキリリとした黒い眉の下で、ブラウンの瞳が爛々と輝いている。
濃い紫色のローブを羽織り、清潔感のある白いシャツに桃色のスカートを合わせた旅装束。その手には、精霊召喚に用いる立派な杖がしっかりと握られていた。
対するルヴェンもまた、厳しい旅の中で戦士としての風格を増していた。
肩の少し上で切り揃えられた綺麗な金髪は、優しげな雰囲気を醸し出す同じ色の眉と調和している。遠くの村を見つめるコバルトブルーの瞳は、かつての迷いを振り切ったかのように澄んでいた。
青地に白の刺繍が入ったマント、黒を基調とした機能的な革製の鎧。そして腰には、斬撃よりも鋭い「突き」に特化された長剣が。
首元で揺れる、牙と三日月型の石器を組み合わせたネックレスが、馬車の振動に合わせてカラカラと乾いた音を立てる。それはどこか遠い異郷の風習を感じさせる不思議な装飾品だった。
ビルデンを離れ、海を渡ってキラフ共和国へ。
それが今の彼らの目的だ。かつての「異端者達」というレッテルを脱ぎ捨て、ただの2人として生きていくための最終目的地。今はその足掛かりとなる、人里離れた漁村を目指している途中だった。
この3年という月日は、彼らに確かな力を与えていた。
ルヴェンは、内なる「黒竜」の強大な力に頼らずとも、襲いくる盗賊や野獣、あるいは人間を敵視する獣人たちと互角以上に渡り合えるほどの剣技を身に付けた。
そしてエルミナ。彼女は独学で古の精霊魔法を習得し、今やルヴェンの背中を預けるに足る最高のパートナーとなっていた。さらに、ビルデン人の血を引く彼女にも、いつしか竜の言葉を解する資質が芽生え始めている。
「本当だ。エル、あの村で水と食料の調達をしよう」
ルヴェンは楽しそうなエルミナに微笑みを向けた。
村まではまだ30分ほどかかりそうだったが、人恋しさが彼を急かせる。ルヴェンは軽く馬の横腹を蹴り、速度を上げた。
だが、ここは開発の進んでいない未開の地。蒸気機関車すら開通していない土地の道は、舗装など望むべくもない。剥き出しの石ころだらけの悪路だ。急に速度を上げたことで、荷台は激しく上下に跳ね、乗っているエルミナを振り落とさんばかりに揺れ動いた。
「ちょっ、何やってんのルヴェン! もうちょっとゆっくり走りなさいよ!」
エルミナは必死に荷台の縁を掴みながら、顔を真っ赤にして叫んだ。彼女は鬼気迫る表情で身を乗り出すと、手に持った杖でルヴェンの頭をポカッと思いきり叩いた。
「ぐはっ! ……あだだっ」
鈍い音とともに、ルヴェンの情けない奇声が草原に響く。
おかげで馬車は再び穏やかな速度を取り戻した。2人の笑い声が風に乗って流れていく。
しかし、その和やかな空気は突如として霧散した。
「!?」
ルヴェンが唐突に手綱を引き、馬を止めた。その表情から笑みが消え、戦士の鋭い眼光へと変わる。
「ルヴェン、どしたの?」
不安げに尋ねるエルミナに、彼は短く、だが断固とした口調で命じた。
「しっ!」
エルミナも息を呑み、耳を澄ます。
そよ風が草花を撫でる、ざわわという音。その背後に、不気味に響く重低音があった。地面の底から這い上がってくるような、不規則な地響き。
『……お前と嬢ちゃんで大丈夫じゃろう。ワシは眠っておくぞ』
脳内に直接響く、黒竜のあくび混じりの低い声。
その直後、馬車の周囲の地面がボコボコと不自然に盛り上がり、激しい砂煙とともに「それ」が飛び出した。
「あっ! ルヴェン、あれ!」
エルミナが指差した先には、獣特有の低い呻き声を上げながら姿を現した4つの影があった。
それは、巨大なモグラが直立したような姿をした獣人だった。
「ドガル」と呼ばれるその種族は、地中深くに独自の社会を築き、人間とは滅多に交わらない。体長は長身の人間と同じ180cmほど。全身を硬い針のような体毛が覆い、地中を掘り進むための強靭かつ巨大な爪が、鈍い光を放っている。
普段は地上の小動物を捕食しているはずだが、飢えや縄張り意識から、稀に人間を襲うこともあると聞く。
4体のドガルは特有の耳障りな言語で何かを相談するように鳴き交わしていた。
土の蒸れた臭いと、獣人特有の鼻を突く野獣臭が、風に乗って2人の元へ漂ってくる。
「ドガルか……」
ルヴェンは静かに馬から降り、腰の長剣を抜いた。
研ぎ澄まされた切っ先が、午後の日光を受けてキラリと冷たく煌めく。
次の瞬間、ドガルたちは地面を蹴り、驚異的な跳躍力で一斉にルヴェンへ襲い掛かってきた。
「エル!」
ルヴェンの短い合図を受け、エルミナは瞬時に応えた。
彼女は瞳を閉じ、微かな祈りの言葉を紡ぎながら、杖の先で空中に素早く魔法陣を描く。円の中に複雑な、だが洗練されたシンボルを書き込み、最後の一振りをトン、と地面に突くと、魔法陣は眩い緑色の光を放った。
一方、ルヴェンは空中で巨体を躍らせ、体重を乗せた鋭い爪の連撃を仕掛けてくるドガルたちに対し、舞うような身のこなしで対峙していた。
最初の1体の攻撃を、紙一重の差でスルリとかわす。ドガルの足が地面に着いた瞬間、ルヴェンは踏み込み、その脇腹を閃光のような一撃で切り裂いた。
怯んだ隙を逃さず、今度は全体重を乗せた突きがドガルの胸を貫く。
「ギギィッ!」
耳を劈く奇声とともに、周囲に血液の雨が降り注ぐ。1体が絶命し、ルヴェンは次の攻撃に備えて、硬直した獲物の肉から剣を力強く引き抜いた。
その隙を突き、残りの3体が同時に飛び上がる。今度は逃がさぬとばかりに、空中で円陣を組むような機動を見せる。
だが、彼らは着地することができなかった。
ルヴェンが横目でエルミナを確認すると、彼女は指をVの字にして、勝ち誇ったようにニッコリと微笑んでいた。
「ルヴェン、1匹ずつ落とすよー!」
その可愛らしい声とは裏腹に、彼女の隣では魔法陣から召喚された緑色のつむじ風が荒れ狂っていた。
それはこの地方に宿る「風の精霊」だ。精霊の姿は土地によって千差万別だが、この大草原の精霊は、小さな甲虫を模したような愛らしい姿をしている。
エルミナは精霊に魔力を流し込み、ドガルたちの足元に「逆巻く風の障壁」を固定させたのだ。空中へ逃げたドガルたちは、見えない風の足場に拘束され、もがきながら宙に浮き続ける。
「オッケー! 任せたよ!」
ルヴェンは剣を上段に構え、エルミナの操作によって風から解放されるドガルを、確実に一突きで仕留める体制に入った。
……その時だった。
2人の頭上に、急激に大きな影が落ちた。
一瞬、雲が太陽を遮ったのかと思った。だが、エルミナが魔法を解き、1体のドガルを地上へ落下させた瞬間、異変が起こった。
「グモッ!?」
ジタバタと手足を動かしながら落下するドガルの体。その背後、遥か上空から、目に見えぬほどの速度で放たれた「風の刃」が飛来したのだ。
シュバッ、という鋭い風切り音。
それは落下中の1体のみならず、空中で無防備を晒していた残り2体の首を、一瞬のうちに正確に跳ね飛ばした。
辺りには、おぞましいほどの鮮血と肉片が降り注ぐ。
「えええ!?」
驚愕したエルミナは、破片が自分たちにかからないよう、慌ててルヴェンとの間に風の幕を張った。
「何なのよ!? いったい!」
彼女が目を白黒させて問いかける。一方、ルヴェンは冷静に視線を遥か高空へと向けていた。
「どうやらド派手な加勢だったみたいだよ。……もうちょっと大人しくできないものかなぁ?」
ルヴェンは困ったような、だがどこか親しみを感じさせる苦笑いを浮かべていた。
エルミナも空を仰ぐ。そこには、金色の陽光を背に受け、悠然と翼を広げて旋回する一匹の「翼竜」の姿があった。
すると、2人の脳内に、落ち着きのある成熟した男性の声が直接届いた。
『旅の人間よ、大丈夫だったか? 竜の村トザファイへようこそ。今、主と共にそちらに降りよう』
翼竜は大きな翼をしならせ、空気を力強く押し出しながら、ゆっくりと2人の目の前の草原に舞い降りた。
凄まじい風圧とともに、砂塵と色とりどりの花びらが舞い上がり、スノードームのように2人を包み込む。
目の前に降り立ったのは、この地方特有の褐色の鱗に覆われた堂々たる体躯の竜だった。険しい顔付きは猛々しいが、その深い色の瞳には知性と優しさが宿っている。
そしてその背には、一人の少年の姿があった。
年齢は15歳くらいだろうか。黒い短髪を無造作に遊ばせ、元気いっぱいの瞳を輝かせている。よく日に焼けた健康的な肌には、清潔感のある白い半袖と半ズボンがよく似合っていた。
「お、兄ちゃんたち旅人さんだね? この辺はドガルたちが徘徊してるから気を付けな。村まで行ったら地竜たちが守ってくれるけどさ」
少年は竜の背から器用に飛び降りると、ニッコリと無邪気な笑顔で話しかけてきた。
「とにかく助かったよ。さっきの風魔法は、そこの翼竜さんかな?」
ルヴェンは少年の手を取り、しっかりと握手を交わした。そして、隣で自らの翼を丁寧に舐めて手入れをしている竜に視線を送った。
竜もルヴェンの視線に気づいたようで、喉を鳴らしながら再び言葉を紡ぐ。
『左様。1体は君が倒したようだな。なかなかの身のこなしと見える。だが、この辺りは我々の縄張りだ。客人に苦労はさせんよ』
落ち着いた大人の雰囲気を持つ竜だったが、言葉を終えた直後、彼はルヴェンの顔をその巨大な舌でベロリと大胆に舐め上げた。
「わ! ちょっと待って。そんなに舐めたら顔が涎だらけに……」
竜の愛情表現は思いのほか激しい。ルヴェンは抗う間もなく押し倒され、草原の上で尻餅をついてしまった。
竜族にとって、これは最大限の敬愛を示す行為なのだが、その無残な姿を見たエルミナと少年は大爆笑だ。
「とにかく、服もかなり汚れちゃったし、一度村にお邪魔してもいいかな?」
エルミナが笑いを堪えながら尋ねる。ドガルたちの返り血を浴びてしまったせいで、彼女のローブも、そして馬車に積んでいた荷物も少なからず汚れてしまっていた。
彼女が少年に向けて、どこか悪戯っぽく微笑むと、少年は誇らしげに胸を張った。
「もちろん! ボクはテイマーのサーユ。んで、こっちの相棒はウェリークさ!」
サーユは、未だにルヴェンの顔を執拗に舐め回している翼竜・ウェリークを指差した。
「もうすぐ村祭りの時期だから、ちょうどいい時に来たよ。何日かゆっくりしていくといいよ!」
「ありがとう、サーユ。じゃあお言葉に甘えようかな? ねぇ、ルヴェン、いいでしょ?」
エルミナは咲き誇る花々のような愛らしい笑顔でルヴェンを見た。当のルヴェンは、ウェリークの熱烈な愛情表現を受け続け、顔をぐちゃぐちゃにされながらも、必死にコクコクと首を縦に振っていた。
竜の村トザファイは、ビルデン国内に点在する、竜戦士や「竜依戦士」たちが共生する隠れ里のような場所だった。
もちろん、人とペアを組む竜たちもそこに住んでいる。土地の風土から、この村には「翼竜」と「地竜」の2種類が主に生息していた。
村に足を踏み入れると、そこには懐かしさを覚えるような原風景が広がっていた。
のどかな木造の家々が整然と並び、豊かな実りを予感させる田畑がどこまでも続く。村の北端には、生命を運ぶ清らかな河がさらさらと音を立てて流れている。
村の門をくぐると、作業の手を休めた村人たちが、物珍しそうに新参者の2人を見つめた。しかし、そこに向けられた視線に険しさはなく、どれも陽だまりのように暖かく穏やかなものだった。
ウェリークは一度彼らの頭上を旋回したが、客人が来たことを他の竜たちに知らせるため、丘の上にある翼竜の巣へと一目散に飛び去っていった。
「たぶん、これから騒がしくなるよ、兄ちゃんたち?」
サーユが意味深な笑みを浮かべた、その直後だった。
足元の地面が、先ほどのドガルの時とは比較にならないほど激しく振動し始める。
最初に姿を現したのは「地竜族」だった。
大地の中に生息する彼らの表皮は、まるで切り立った岩肌のようにゴツゴツとした外殻で覆われている。彼らは周囲の土や岩と分子レベルで一体化して移動することができるため、その巨体で移動してもトンネルが崩落したり、地盤沈下が起きたりする心配はない。
ズズズッ、と音を立てて地面から首をもたげた地竜は、尖った口先に細長い瞳を持っていた。口を開くと、周囲の空気が震え、地面が揺れるほどの重低音の唸り声が響く。初見の者であれば、間違いなく恐ろしい魔物と見間違えるだろう。
しかし、その実、地竜は竜族の中でも最も性格が穏やかで、思慮深く、そして非常に長寿な種族だ。
『おお……、かわいい客人だのぉ。ようこそ我が村へ』
地竜は大きな頭をルヴェンたちの目の前にひょっこりと出し、穏やかなテレパシーを送ってきた。
頭だけでも、大人4人がかりで抱えきれないほどの大きさがある。その迫力ある外見と、声のあまりにも優しいギャップに、エルミナは驚愕のあまり「ひゃっ」と声を上げ、ルヴェンの腕にしがみついた。
しかし、驚きはそれだけでは終わらない。
次々に地面が盛り上がり、村のあちこちから地竜たちが顔を出し始めたのだ。大地が激しく揺れ、ルヴェンたちも立っているのがやっとの状態になる。
地竜たちは口々に歓迎の挨拶を述べるが、それらが重なり合って、鼓膜が痛くなるほどの音圧となって押し寄せたのだ。
ルヴェンとエルミナが必死に耳を塞いで耐えていると、村の家々から地竜たちの主らしきパートナーたちが現れた。彼らは苦笑いしながら2人にペコリと頭を下げると、竜たちを優しく諭して地中へと帰していった。
ようやく静寂が戻ったかと思うと、今度は村人たちが2人の周りにわっと集まって来る。
「アンちゃん、よく来たな! 遠いところから大変だったろ」
「ゆっくりしていってね。今夜はご馳走だよ!」
初対面の旅人に対して、警戒心の欠片もない。ビルデン国内で追われてきた身としては、このあまりにも無防備な歓迎ぶりにルヴェンは戸惑いを隠せなかった。
一方のエルミナは、すっかりこの温かな空気に馴染んだようで、ノリノリで村人たちに挨拶を返している。
「エル、もう少し警戒した方がいいんじゃ……」
ルヴェンは小さく呟いたが、彼女の耳には届いていないようだった。
「兄ちゃん、ボクらの村長さんに挨拶に行きなよ。案内するよ」
サーユがルヴェンの手を取り、ぐいぐいと歩き出した。
村人たちの賑やかな喧騒を抜け、村の外れまで歩くと、田園のど真ん中に建つ小さな藁葺きの小屋が見えてきた。
入り口に掛かった、素朴な麻製のカーテンをくぐる。
中に入ると、30代後半くらいの男性が、一心不乱に藁細工に励んでいる。
「村長ー、客人を連れてきたよ!」
サーユが明るい声をかけると、男性は顔を上げた。サーユは役目を果たしたとばかりに、軽く手を振って村の方へと帰っていった。
小屋の中にいた男性は、ボサボサに伸びた黒髪に、吸い込まれるような力強い碧眼を持っていた。普段からよく笑うのだろう、目元や口元に刻まれた笑い皺が、彼の寛容な人柄を物語っている。
身長は180cmほど。ゆったりとした服の上からでも、無駄のない筋肉がバランスよく整っていることがわかる、理想的な体躯をしていた。
「おお! 珍しいな。今茶を沸かすからちょっと待ってな」
男性が立ち上がり、台所へ向かおうとした、その瞬間だった。
自分の足元に置いていた作りかけの藁に足を取られ、彼は「うわわっ!」と豪快に転倒してしまった。
ガシャーン! ガラガラ!と、近くにあったヤカンやカップ、さらには花瓶までもが、耳を劈くような凄まじい音を立てて床に散らばる。
あまりの失態に、エルミナは呆気に取られて苦笑いを浮かべていたが、ルヴェンは慌てて駆け寄った。
「ああ、いいですよ! お気になさらずに。お手伝いします!」
ルヴェンは手際よく散らばった食器を拾い上げ、完璧なフォローを入れる。その所作には、長年の旅で培われた気遣いと柔軟さが滲み出ていた。
「ああ……、すまないね。慣れてないからなぁ」
男性は頭をポリポリと掻きながら立ち上がると、照れくさそうに右手を差し出した。
「とりあえず、ようこそトザファイへ。俺はこの村で村長をやってるマルセイドだ」
白い歯をキラリと見せて笑うマルセイド。その屈託のない笑顔には、不思議と人を安心させる力があった。
「お邪魔します。僕はルヴェン。彼女はエルミナっていいます」
ルヴェンも笑顔で握手を返し、エルミナも丁寧に頭を下げた。
マルセイドの話によると、3日後にこの村では年に一度の「収穫祭」が開催されるという。彼は、せっかくだから2人も参加していけと熱心に誘ってくれた。
この祭りは、竜と人間の絆を再確認し、友好を深めるために古くから続いている伝統行事らしい。
ビルデン国において、竜とテレパシーで交信する技術は、適切な訓練を受ければ誰にでも習得可能だ。だが、合理化が進んだ都会ではその必要性は薄れ、ルヴェンが正規の教育を受けられなかったのもそのためだった。
しかし、大自然と向き合って生きるこの村の人々にとって、竜は単なる使役動物ではなく、命を分かち合う真のパートナーなのだという。
ルヴェンは自分が「黒竜の竜依戦士」であることは伏せたまま、会話を進めた。
この平穏な竜の村であっても、希少かつ特に不吉とされる黒竜を宿し、ましてや「異端者」の来訪は、波風を立てるに違いない。そう判断したからだ。
「で、マルセイドさんのペアの竜は? 空ですか、それとも土?」
その後、暫くは3人で呑気な会話をしていると、 出されたクッキーを美味しそうに頬張りながら、エルミナが興味津々に尋ねた。
「もちろん空だ。あ、それに俺のことは村長じゃなくて『マル』でいいからな? 堅苦しいのは苦手なんだ」
マルセイドの言葉に2人は親しみを感じて相槌を打つ。そこでルヴェンが思い出したように言った。
「へぇ、それじゃマルさんの竜にも挨拶したいな。さっきウェリークが飛んでいった、あの丘の上にいるんですか?」
ルヴェンの純粋な問いかけに対し、マルセイドの表情が一瞬だけ、奇妙に強張った。
彼は慌ててクッキーを一つ口に放り込み、無理やり飲み込んだ。
「あー……、あいつはちょっと悪戯っ子でな。……今は、ちょっとした『家出』の最中なんだよ」
そう言って笑うマルセイドの顔は、単なる照れ笑いというよりは、何か重大な秘密を必死に覆い隠そうとしているかのように、ルヴェンの目には映った。
窓の外では、黄金色の草原が風に揺れている。
この穏やかな村の空気の底に、ルヴェンは微かな違和感を感じ取っていた。だが、それが何であるかを確かめる前に、マルセイドの賑やかな声が再び小屋の中に響き渡った。




