第六十二小節 ~Amazing Dream~(時の回廊)
そこは、光という概念さえもが置き去りにされた、漆黒の虚無であった。
上下も左右も、あるいは過去も未来も判別のつかない、停滞した次元。音一つ届かないその空間を「時の回廊」と呼ぶ者がいたとしても、それを証明する術はどこにもない。
しかし、その静寂は唐突に破られる。
虚空のあちこちに、音もなく「扉」が浮かび上がったのだ。
それらは使い古された木製の両開き扉であった。あるものはすぐ目の前に、あるものは遥か頭上に、またあるものは視界の端で点にしか見えないほど遠方に。無数の、様々な風貌の扉が、まるで星々のように暗黒の空間を埋め尽くしていく。
その中の一つ――年季の入った、湿り気を帯びた木肌の扉が、重々しい音を立てて開いた。
古びた蝶番がこすれ合うギィ……、という低い鳴き声が、本来響くはずのない虚無に波紋のように広がっていく。
扉の向こうから、一人の男が足を踏み出した。
黒いローブを深々と羽織ったその男は、身長175センチメートルほど。金髪に近い、しかしどこか落ち着いた色合いの淡いブラウンの短髪を、几帳面に整えている。
目尻や口元には、刻んできた年月を感じさせる小じわが幾重にも重なっていたが、それは彼が厳しい人生を歩んできた証であると同時に、慈愛に満ちた人物であることを物語っていた。
五十路を過ぎたその顔打ちは、静かな湖面のように穏やかだ。
男の纏う黒いローブの左胸には、純白の糸で十字の紋章が刺繍されている。
前開きの裾からは、まるで戦場を駆け抜けてきたかのような、血液の汚れが目立つ薄汚れた白いシャツと、かつては手入れを怠る事など無かった筈だが、今ではくたびれた褐色の長ズボンが覗いていた。
そして何より目を引くのは、彼の首から下げられた金の十字架だった。それは自ら発光しているかのように、神々しい光を放ち、周囲の闇を微かに押し返している。
男は立ち止まり、その十字架を震える手で握りしめた。ゆっくりと瞼を閉じる。
「いよいよだな……。待っていてくれ、今、終わらせてやる」
その呟きは、誓いであり、祈りでもあった。
男の頬を、一筋の涙が伝い落ちる。その雫が虚無の底へと消えていくのを待たず、彼は再び歩き出した。
男は、浮遊する扉の間を縫うように進んでいく。
足音は聞こえない。重力という枷から解き放たれたこの空間で、彼は迷うことなく、ある一点を目指していた。
通り過ぎるいくつもの扉には目もくれず、彼が足を止めたのは、空間の中央付近で力なく漂う「一人の人物」の前だった。
その人物は、男よりも少しだけ背が高く、煤けて埃を被ったような褐色のローブを纏っていた。
深く被られたフードの隙間からは、くすんだ銀色の前髪が力なく垂れ下がっている。
彼はまるで時間が完全に凍結してしまったかのように、指先一つ動かさず、無重力の海を漂っていた。
黒いローブの男は、その静止した人物を悲しげな眼差しで見つめた。
「何度も邪魔をして、すまなかったね。――時空の旅人、ロイン」
男の声は、深い懺悔を含んでいた。彼はそっと手を伸ばし、ロインの肩を優しく叩く。
それは魔法を解く合図か、あるいは運命を託す儀式か。
……男はそれ以上何も語らず、目の前に現れた別の扉を開き、光の向こう側へと姿を消した。
どれほどの時間が経過しただろうか。あるいは、ここでは「時間」という言葉自体が意味をなさないのかもしれない。
空白の静寂が戻った後、漂っていたロインの体に、生命の拍動が戻り始めた。
凍りついていた時間が一気に解き放たれたかのように、彼は激しく身を震わせる。
「ここは……。私は、何を……?」
掠れた声が口を突いて出た。ロインは混乱した様子で周囲を見渡し、己の存在を確かめるように胸元を探った。
そこから取り出されたのは、革表紙の分厚い「譜面」だった。
彼は取り憑かれたような手つきで、そのページをめくり始める。何事かを必死に調べ、確認し、呟く。
真っ白な五線譜が続く中、ある特定の箇所が、意志を持っているかのように微かな光を放っていた。
「第六十二小節……」
その数字を見つめる彼の瞳に、理性の光が戻っていく。
ロインはゆっくりと譜面を閉じ、ローブの内側へ大事そうに仕舞い込んだ。
代わりに取り出したのは、使い込まれた美しい装飾のリュートだ。
彼が弦に指先を触れると、水晶の弾けるような、柔らかな音色が空間に溶け出した。そのメロディーは、死んでいた空間に脈動を与え、無機質な虚無を色彩豊かな「世界」へと塗り替えていく。
ワンフレーズを弾き終えると、彼は優雅に一礼した。
「失礼いたしました、この組曲をご鑑賞中の皆様。……私の案内なしでも、物語をお楽しみいただけていたでしょうか?」
その声は、先ほどまでの困惑が嘘のように、穏やかで理知的な響きを帯びていた。
「少しの間、席を外してしまいましたが、今一度この壮大な組曲の案内をいたしましょう。さて、彼らの旅はなおも続きます。愛の賛歌と共に送る日々の中で、彼らは何を感じ、何を得て成長していくのか。――あの、逃れられぬ運命の日を迎えるまでは」
すると、語り終えたロインは、再び楽器を収め、もう一度だけ譜面を開いた。
しかし、その表情が不意に険しくなる。
「……何のために、このような編曲が施されているのでしょうか?」
彼は譜面を指でなぞりながら、過去のページへと遡っていく。
そこには、かつては無かったはずの「跡」があった。
第四十七小節の直前に、震えるような手つきで書き込まれた手書きの「括弧」の記号。
ロインの指先が、その括弧の終わりを探してページを追う。
フードの陰で表情は見えないが、彼の困惑は伝わってくる。
「二回目……?」
その括弧は、第六十一小節を囲むように閉じられていた。
そして、欄外には走り書きのような、ひどく乱れた筆跡でこう記されていた。
『(2nd time only) (ad-lib)』
それは、一度決まったはずの楽曲を、演奏者の意志で書き換えることを許す禁断の指示。
ロインは数度、不可解そうに首を左右に振った。この譜面を記したのは自分ではないのか。あるいは、自分以外の「誰か」が、この組曲に干渉したというのか。
しかし、彼はそれ以上追及することをやめた。
今の彼にできるのは、この組曲を、最後まで見届けることだけだ。
ロインは足元に浮かぶ一枚の扉を見つめ、決意を込めて手をかける。
「さあ、また彼らの時間に戻りましょう。物語の続きを奏でるために」
ギシギシと、古い木材が軋む音が響く。
開かれた扉の向こう側には、どこまでも続く穏やかな草原と、眩いばかりの陽光が広がっていた。
ロインはその光の中へと、吸い込まれるように消えていった。




