第六十一小節 ~R.est I.n P.eace~
ルヴェンの長剣が貫いたセイセルの魔石は、断末魔のような軋み声を上げた直後、まばゆい閃光となって弾け飛んだ。
それは、一人の誇り高き騎士を呪縛していた忌まわしき枷が、ついに解き放たれた瞬間でもあった。
ルヴェンは溢れ出す涙を堪えきれず、震える肩を抱いて立ち尽くす。背後から、雪を踏みしめる穏やかな足音が近づいてきた。
振り返ると、そこにはいつもの柔らかな微笑を湛えたレッツォが立っていた。彼は何も言わず、大きな掌でルヴェンの泥と血に汚れた頭を、愛おしそうに撫でた。
「……よくやったね、ルヴェン君」
その一言が、ルヴェンの胸の奥に澱んでいた感情の堤防を崩した。
「ああ……あああああッ!」
ルヴェンは子供のように声を上げて泣きじゃくり、レッツォの胸に顔を埋めた。レッツォの法衣はルヴェンの涙と、そして彼自身の胸の傷から流れる鮮血で汚れていく。
だが、レッツォは嫌な顔一つせず、ただ静かに、少年の魂が落ち着くのを待っていた。
傍らではエルミナも、ルヴェンの背中にそっと手を添え、共に静かな涙を流していた。
ひとしきり泣き続けたルヴェンがようやく顔を上げたのは、レッツォが「おっと、少しばかり傷が疼くかな」と小さく苦笑いを漏らした時だった。
三人はその夜のうちに、応急処置だけを済ませてこの呪われた街を去る決意をした。
それはレッツォの提案だ。
「この街に残された全ての魂を、弔わなければならない。そのためには、ここではない場所へ行く必要があるんだよ」
出発の準備を整える間、エルミナはレッツォを屋敷の医務室へと連れて行った。
そこには領主邸らしく、高価な薬草や包帯、精製された薬剤が整然と並んでいた。これから先の過酷な旅路を思えば、ここは宝の山と言っても過言ではない。
幸い、レッツォの胸の傷は見た目ほど深くはなかい。エルミナの献身的な手当てにより出血は止まり、二人は予備の薬を革袋に詰め込めるだけ詰め込んだ。
一方、ルヴェンは一人、小さなランタンを手に、静まり返った屋敷の廊下を歩く。
数時間前までの喧騒が嘘のように、建物は冷たい沈黙に支配されている。ただ、ルヴェンの足音だけが、孤独なリズムを刻んで響いていた。
辿り着いたのは、兄セイセルの書斎だ。
扉を開けると、そこには無数の蔵書が並ぶ本棚と、兄が公務に励んでいた重厚な机が残されていた。
「兄さん……」
ルヴェンは腰に下げた長剣の柄に触れ。先ほど、兄の命を終わらせたあの剣だ。彼はこの日の決意を、そして兄の最期を片時も忘れないために、この剣を生涯の友とすることを誓っていた。
ふと見ると、机の傍らに一本の剣が立てかけられていた。
それは、セイセルがかつて愛用していた銀製の特注品だった。鍔の部分には、ビルデンとエスメラルダの双紋様が見事に刻まれている。
ルヴェンはその剣を手に取ると、しばしその重みと冷たさを掌で確かめた。
その後、彼は部屋を去ろうとするが、ふと思い立ち、踵を返して兄の机に戻る。と、引き出しの中から小さな革製の財布を見つけた。
「兄さん、これは少しだけ借りていくよ。……いいよね?」
銀の剣に語りかけるように呟き、彼はそれをポケットに忍ばせた。これから生きていくために、そして旅を続けるために……。
冷気漂う館内をさらに奥へと進む。
響き渡る足音が、時の流れを止めてしまったこの館に、時間を与えているかのようだ。
次に彼が扉を開けたのは、豪華な絨毯が敷き詰められた、主寝室だった。
部屋の中央には、透き通るような薄い生地の帳が垂れ下がる大きなダブルベッドが鎮座している。窓は全て開け放たれ、そこから差し込む月光と雪が、室内を零下の静寂で満たしていた。
ベッドの上には、一人の女性が横たわっている。
まるで、心地よい夢でも見ているかのような、安らかな死に顔。
「ファー義姉様。……兄さんの剣を持ってきました」
ルヴェンは、兄の銀剣を彼女の胸の上に静かに置いた。
「騎士として、ビルデンの誉れと共に眠りについた兄の証です。どうか、これからは二人で、安らかに……」
ルヴェンはベッドの横で片膝をつき、深く首を垂れた。
窓から吹き込む夜風が、彼の頬に残っていた涙の跡を乾かしていく。
彼が再び立ち上がったとき、その瞳からは迷いが消えていた。
その後ルヴェンはレッツォとエルミナと合流し、高台へと移動した。
レッツォは飄々とした声で、
「さあ、この辺りでいいかな。眺めも最高だ」
場所は、コエグレジンの街を一望できる、緩やかな丘の上だった。
観光名所としても知られるこの高台からは、白銀に包まれた街の全景が見渡せる。
街を離れる際、ルヴェンとエルミナは無数に転がる住人たちの遺体に心を痛めていた。「たった三人で、これほど多くの人々を弔うことなんてできるの?」というエルミナの不安に対し、レッツォは「大丈夫、とっておきの葬式を挙げよう」と笑ってこの場所を指定したのだ。
吹雪はいまだ止まず、周囲の木々を激しく撓らせている。
「レッツォさん、こんな場所でどうやってお葬式をするんですか?」
エルミナが首を傾げると、隣のルヴェンも同意するように頷いた。
「準備が必要だからね。まずは少し休もう。二人とも、さっきの戦いで疲れ果てているだろう? とりあえず焚き火を焚いて、一息つくんだ」
レッツォの明るい声に促され、三人は暖かい炎を囲んだ。
エルミナは野営の準備に関しては手慣れたものだった。田舎の村で育った彼女にとって、凍てつく夜の火起こしも、毛布の準備も、身体に染み付いた習慣のようなものだ。
彼女は、怪我を負った二人に代わって甲斐甲斐しく働き、食料の準備が整うと同時に、力尽きたように毛布にくるまって寝息を立て始めた。
「……さて。そろそろ始めようか」
焚き火の爆ぜる音を聞きながら、ルヴェンも心地よい睡魔に襲われ始めた頃。レッツォが静かに立ち上がり、衣服に積もった雪を払った。
「え……何を、始めるんですか……?」
寝ぼけ眼で問いかけるルヴェン。
「お葬式に決まっているじゃないか。丁度、エルちゃんも寝静まったことだしね」
レッツォは悪戯っぽく微笑み、懐から銀色のハーモニカを取り出した。
「どうしてエルがいちゃダメなんですか? 彼女だって、街の人を弔いたいって……」
「ちょっとばかり、都合が悪くてね。……君にしか、見せられないものなんだよ」
レッツォは軽くウィンクをして見せた。
「どうして僕だけなんですか?」
「企業秘密、かな」
お茶目に笑うレッツォに、ルヴェンは毒気を抜かれ、苦笑するしかなかった。
だが、次の一瞬。
レッツォの表情から一切の冗談が消え、その眼差しは神聖なまでの厳粛さを帯びた。彼は楽器を唇に当て、低く呟いた。
「――レクイエム(鎮魂曲)」
旋律が流れ出した。
それは、どこか聞き覚えのある、母が歌う子守唄のように優しい音色だった。
ルヴェンが瞳を閉じ、その調べに身を委ねていると、瞼の裏側から温かな黄金の光が差し込んできた。
驚いて目を開けたルヴェンは、その光景に絶句した。
丘の眼下に広がるコエグレジンの街全体を囲むように、巨大な金色の円環が出現していたのだ。そしてその周囲には、実体を持たない無数の楽器たちが浮かび上がり、主の合図を待つようにゆったりと拍を取っている。
「すごい……」
レッツォの背後から、荘厳な声が響く。
「罪なき魂たちよ、安らかに眠れ。……その苦しみも、悲しみも、すべては慈悲の光の中に」
瞬間、街全体がまばゆい黄金の光に包まれた。
浮かび上がった楽器たちが一斉に鳴り響き、壮大な、それでいて心に寄り添うような温かいメロディーが夜の闇を塗り替えていく。
「レッツォさん、これはいったい……!? これが、アルカスル教の儀式なんですか?」
尊敬の念を込めて振り返ったルヴェンは、再び言葉を失った。
ハーモニカを吹くレッツォの姿が、透き通るような金色に輝いていたのだ。
褐色の髪は白銀へと変わり、その背中には――。
純白の、あまりにも巨大な鳥の翼が、左右に六対、計十二枚。
それは柔らかに羽ばたき、周囲の吹雪さえも温かな微風へと変えていた。
「えっ?……あ……?」
ルヴェンはあまりの神々しさに、腰を抜かして雪の上にへたり込んだ。
音楽が最高潮に達したとき、街の至る所から無数の「金の粒」が舞い上がった。
それは、街で命を落とした住人たちの魂だった。粒は川のような光の帯となり、ゆっくりと、しかし確かな意志を持って天へと昇っていく。
やがて、一際輝く小さな光の粒が、レッツォの目の前へと飛来した。
レッツォは演奏を続けながら、にっこりと微笑み、胸元の漆黒の十字架を差し出した。光の粒は、まるで慈しむようにその十字架へと寄り添う。
「ルヴェン君。……君のお義姉さんが、力を貸してくれるそうだ」
レッツォが楽器を離し、囁くように言った。
「君とお兄さんを仲直りさせてくれたお礼、だそうだよ」
ルヴェンは錯乱状態のまま、ただ何度も首を縦に振ることしかできなかった。
演奏が終わりを告げ、街を包んでいた黄金の光は静かに消えていった。魂の粒たちも、すでに星々の彼方へと昇りきったようだ。
レッツォだけが、まだ十二枚の翼を広げた姿のまま、ルヴェンの元へ歩み寄り、手を差し伸べた。
「驚かせたね。大丈夫、すぐに元に戻るさ」
その言葉通り、彼の姿は徐々に、いつものくたびれた法衣を纏った牧師の姿へと戻っていった。ただ、胸元の十字架だけは、内側から消えることのない聖なる光を放ち続けていた。
「レッツォさん、貴方は……一体何者なんですか?」
震える声で問うルヴェンに、レッツォは光り輝く十字架を様々な角度から眺めながら、はぐらかすように答えた。
「おっと、そろそろ時間かな」
「はぐらかさないでください! 貴方は、神様か何かなんですか!?」
「あ、これかい? この十字架は、教団に代々伝わる『聖剣』でね。ちょっとばかりメンテナンスが必要で……」
「そうじゃなくて!!」
詰め寄るルヴェンに、レッツォは両手を広げて大きな溜め息を吐いた。
「何者か、と言われてもね。私はただの、しがない牧師だよ。愛の女神に誓ってもいい」
その飄々とした態度は、先ほどの神々しい姿が幻だったのではないかと思わせるほどだった。
「一仕事終えて、少し疲れた。……さあ、座ろう」
レッツォに促され、ルヴェンは焚き火の傍らに再び腰を下ろした。
傍らでは、エルミナが何も知らずに幸せそうな寝息を立てている。
二人は無言で温かいお茶を啜り、朝日が昇り始めた東の空を見つめていた。
「なあ、ルヴェン君」
レッツォがポツリと口を開いた。
「はい……?」
エルミナの寝息が三回ほど響く。
「もし私が、本当は神様の一人だったとしたら、君は信じるかい?」
「え……?」
「すまないね。もう少し、君たちと旅をしたかったんだが。……私の『目的』も、どうやら達成できたみたいなんだ。そろそろ戻らなければならない」
レッツォが見せた十字架は、朝日の光を吸い込んで激しく輝いていた。
ふと、エルミナが「ふえっ、くしゅん!」と大きなくしゃみをした。
毛布を蹴っ飛ばして寒そうに丸まる彼女を見て、ルヴェンは溜め息をつきながら毛布を肩まで掛け直してやった。
「よくわからないですけど、戻るって、どこへ……? あれ?」
ルヴェンが振り返ったとき、そこにはもう、レッツォの姿はなかった。
彼の荷物も、彼がそこに座っていたという僅かな雪の窪みさえも、跡形もなく消え去っていた。
狐につままれたような感覚の中、ルヴェンを強烈な、抗いようのない睡魔が襲う。
彼は吸い込まれるように、深い眠りへと落ちていった。
小鳥のさえずりと、頬を撫でる柔らかな太陽の光。
ルヴェンの意識が、ゆっくりと現実の世界へと浮上してきた。
「ん……?」
ムクリと起き上がり、霞む目を擦る。
「あ、おはよう、ルヴェン。よく眠ってたね」
エルミナの明るい声が聞こえた。
見れば、彼女は焚き火で朝食の干し肉を炙りながら、楽しそうに鼻歌を歌っていた。
「ゆうべは本当に大変だったよね。まさか、お兄さんがあんな怪物のようになって襲ってくるなんて……。でも、ルヴェンが頑張ってくれたおかげで助かったよ。私は、何もできなくてごめんね」
その言葉に、ルヴェンは微かな違和感を覚えた。
「……でも、レッツォさんがいてくれたから。彼が助けてくれなかったら、僕は兄さんを救えなかった」
それを聞いたエルミナは、不思議そうに小首を傾げた。
「……レッ、ツォさん? 誰それ? 」
空気が凍りついた。
つい数時間前まで、共に死線を潜り抜け、食事を共にしていた男の名前を、彼女は「知らない」と言ったのだ。
「何を言ってるんだ、エル! ずっと三人で旅をしてきたじゃないか! 命の恩人のことを忘れるなんて、冗談にもほどがあるよ!」
だが、いくら言葉を重ねても、エルミナの記憶に「レッツォ」という男は存在していなかった。
彼女の記憶では、村を出た後はずっと、ルヴェンと彼女、そしてルヴェンの中に眠る黒竜の「二人と一匹」で旅をしてきたことになっていた。
ルヴェンは混乱し、頭を抱えて考え込んだ。
だが、エルミナはそんな彼を気遣うように、わしゃわしゃとその髪をかき乱した。
「あーもう! ルヴェンは疲れすぎなんだよ。変な夢でも見たんでしょ? それより、これからのこと考えようよ。私たち、行く当てなくなっちゃったんだし」
いつもの、エルミナのペースだった。
彼女は可愛らしい笑顔で、おいしそうに炙られた干し肉とスープを差し出してきた。
「……うん。ありがとう」
素直に受け取ったルヴェンは、晴れ渡った冬の空を見上げた。
澄み渡る蒼穹のどこかに、あの飄々とした牧師が、あるいは十二枚の翼を持つ神が、こちらを見て笑っているような気がした。
「……本当に、神様だったのかな」
ルヴェンの呟きは、新雪の輝きの中に、静かに溶けて消えた。
隣でスープを啜るエルミナの横顔を見つめながら、彼はポケットの中にある兄の財布と、腰にある新しい剣の重みを、そっと確かめた。




