第六十小節 ~パッヘルベルのカノン~
静寂……。
それは、ルヴェンたちを飲み込む、あまりにも唐突で暴力的な静謐だった。
猛り狂っていた夜の嵐さえ、その一瞬だけは存在を忘れたかのように鳴りを潜めている。
誰一人としてピクリとも動かない。吹雪の中に立ち尽くし、ただ呆然とレッツォの背中を見つめていた。
「レッツォさん……?」
ルヴェンが震える声で呼びかけ、一歩足を進めた。
そのわずかな動きが呼び水となったのか、空間を支配していた圧迫感が弾け、正気を取り戻したセイセルの殺意が再燃した。
獣と化した兄は、天を仰いで短く咆哮した。
そして、獲物を定める本能に導かれるように、右腕に銀の闘気を凝縮させ、レッツォへと襲いかかる。この場で自分を最も脅かした「危険因子」を、本能が察知したのだ。
足元に積もった雪を爆ぜさせ、セイセルは地を這うような加速でレッツォとの距離を詰める。銀色の爪が、無防備なレッツォの胸元へと突き出された。
「レッツォさーーん!!」
ルヴェンが叫ぶ。足元を掴む死人たちの手を強引に振り切り、全速力で駆け出そうとした。だが、その声が届くよりも早く、鈍い切断音と衝撃音が屋上に響いた。
レッツォの身体が鮮血を撒き散らし、後方へと無残に吹き飛ばされる。
その絶望の最中、ルヴェンの脳内に重低音の響きが轟いた。
『……ヴェン! ルヴェン、貴様何をしておるか! さっさとワシを纏ってケリを付けんかい!』
「黒竜……! 貴方の力は使いたくないって言ったはずだ! それに、どうして今頃出てくるんだよ!」
脳内での対話は、互いの苛立ちを孕んで激しく火花を散らす。
『ワシはずっとお前に声を掛けておったわ! それを無視しおって……! たかが人間風情が「石」を狩れるわけなかろうが。ヌルいことを言っておらず、さっさとワシを纏え!』
ルヴェンの足が止まった。
黒竜の声など、今の今まで一言も聞こえていなかった。レッツォの放ったあの「焔の闘神」の残光が、あるいはセイセルの狂気が、黒竜の意志さえも遮断していたというのか。
「でも……!!」
言い返そうとした刹那、セイセルが倒れ込んだレッツォに、止めの一撃を加えようとするのが見えた。
「くっ……! 黒竜! 共に戦おう、力を貸してくれ!」
背に腹は代えられない。ルヴェンは形振り構わず、左手のグローブを毟り取った。
溢れ出す漆黒の霧が全身を包み込み、背中には黒い鱗を帯びた翼が形成される。ルヴェンは弾かれたように地を蹴り、一気にレッツォの元へと跳んだ。
凄まじい衝撃波。着地点の雪が舞い上がり、視界を真っ白に染め上げる。その轟音と竜の気配に、セイセルは一瞬、戸惑うように足を止めた。
「レッツォさん! 大丈夫ですか!?」
ルヴェンは眉をハの字に下げ、レッツォの傷口を確認した。胸から溢れる大量の血に、ルヴェンの顔が青ざめる。彼は気絶したレッツォを抱え上げ、エルミナが隠れている塔の陰へと一瞬で運んだ。
「エル! レッツォさんが危ないんだ。止血を頼む、お願いだ!」
ルヴェンの必死の眼差しに、エルミナは恐怖で言葉を失い、震えながら何度も頷いた。
「エル!! しっかりしてくれ!」
普段の彼からは想像もつかない、芯の通った鋭い声。それが、凍りついていたエルミナの意識を現実に引き戻した。
「あ……ごめん、ルヴェン。私、精一杯やってみる。……ルヴェンも、これ以上傷つかないで。お願いだよ」
涙を浮かべる彼女に、ルヴェンは微笑んだ。安心させるための、震える笑顔。
彼はエルミナの額にそっと唇を寄せると、再び吹雪の荒れ狂う屋上へと身を躍らせた。
――そこには、もはや人としての輪郭すら危うい「狂戦士」がいた。
セイセルは目標を見失い、辺りの石壁を八つ当たりのように殴りつけ、苛立ちの呻き声を上げている。
やがて、雪を踏みしめるルヴェンの足音――いや、その身に宿した「竜の波動」を察知し、獣の瞳をぎらりと光らせた。
「オオオオオオッ!!」
不気味な咆哮と共に、口端から汚らわしい涎を撒き散らしてセイセルが突進してくる。
巨大な爪となった銀の闘気がルヴェンに襲いかかるが、ルヴェンの周囲を渦巻く黒い霧が、その全てを冷酷に弾き返した。
ルヴェンの心境は、複雑にねじ曲がっていた。
黒竜の力を使えば、目の前の魔石など、踏み潰す羽虫にも等しい。だが、その魔石を宿しているのは、誰よりも慕った実の兄なのだ。
(……急所さえ、急所さえ外せば……)
ルヴェンは一瞬だけ瞳を閉じ、次いで鋭い眼光でセイセルを射抜いた。
振り下ろされたセイセルの右腕を、ルヴェンは竜の力を乗せた左拳で力任せに弾き飛ばす。体勢を崩したセイセルの懐へ、ルヴェンは最短距離で踏み込んだ。
水平の一閃。
闘気の防御を解いていたセイセルの肉は、紙のように容易く断ち切られ、生暖かい鮮血がルヴェンの顔に降り注いだ。
「ぶ……ルルルァ! るヴぇん……殺ス……!」
痛みすら感じていないのか。セイセルは一歩下がると、胸の深い傷も厭わずに再び闘気を練り始める。
「兄さん……。せめて、最後は騎士として眠って欲しかった」
頬を一筋の涙が伝う。ルヴェンは止めを刺すべく、剣を低く構えた。
吹雪はさらに激しさを増し、二人の間に白い帳を下ろす。
暗闇と雪の中、互いの気配だけを頼りに、死の距離を測り合う。
「るヴぇあーー!!」
獣の叫びと共に、銀色の爪が何度も虚空を裂きながら迫ってくる。地響きのような足音が近づくのに合わせ、ルヴェンはカッと目を見開いた。
狙うは、胸元に醜く輝く魔石。
黒竜の闘気を乗せた鋭い突きが、暴風を纏って放たれた。
刃が魔石に届く、あと数センチという、その刹那――。
――どこからか、優しいハーモニカの旋律が響いてきた。
それはゆったりとした、どこか寂寥を感じさせる、美しいメロディーだった。
突き出された剣が止まった。それだけではない。獣の形相で襲いかかっていたセイセルも、時が止まったかのように静止している。
ルヴェンは驚愕した。
そのメロディーが耳に届くと同時に、自分を包んでいた漆黒の霧が霧散し、体内の竜の気配が急速に萎んでいったのだ。
「何故だ……黒竜!?」
塔に目を向けると、そこにはエルミナに支えられながら、必死にハーモニカを奏でるレッツォの姿があった。
四小節を一つの周期として繰り返されるその旋律が二度奏でられたとき、屋敷の屋上は眩いばかりの金色の光に包まれた。
「レッツォさん! 大丈夫なんですか! それに、この光は……」
問いかけるルヴェンに、レッツォは痛む胸を押さえながら、静かににこやかな表情を向けた。
レッツォとエルミナの周囲に、三本の幻影のヴァイオリンが現れる。それらはレッツォの主旋律を追いかけるように、一音、また一音と輪唱を始めた。
光が一層強まり、吹雪の冷たさが消えていく。
レッツォは一度ハーモニカを離し、穏やかな声で言った。
「ルヴェン君……お兄さんは、もう魔石には囚われていない。今の私にできるのは、この数分間、彼の精神を呼び戻すことだけだ。……さあ、お兄さんの本当の願いを聞いてあげなさい」
金色の空間。そこは春の陽だまりのように温かかった。
ルヴェンがふと自分の手を見ると、いつの間にか左手のグローブが元通りに装着されていた。黒竜の力は、レッツォの「調和」の音色によって完全に封印されたのだ。
「ルヴェン……。そこにいるのは、ルヴェンなのか?」
懐かしい、落ち着いた声。
顔を上げると、そこには獣の被毛が消え、下着一枚の痛々しい姿で立ち尽くす兄、セイセルの姿があった。だが、その胸には依然として、不気味な光を放つ魔石が根を張っている。
「兄さん!」
ルヴェンは剣を投げ捨て、セイセルの痩せた身体に抱きついた。
「……? なぜ、お前が泣いているんだ。私は……闇塚で魔石の破片を見つけたところまでは覚えているのだが」
セイセルの言葉に、ルヴェンは息を呑んだ。
この屋敷に着いてからの兄は、ずっと魔石に見せられていた「幻」だったのだ。
セイセルはルヴェンを愛おしそうに抱き締め返したが、すぐに魔石の疼きに顔を歪めた。
「すまない、ルヴェン。私としたことが、魔石の魔力に魂を売ってしまったようだ。お前や、大切なお客人に、取り返しのつかない迷惑をかけてしまったな……」
コバルトブルーの瞳から大粒の涙が零れ落ち、ルヴェンの頬を濡らした。
「兄さん、どうして……どうして魔石なんて」
ルヴェンが問いかけると、セイセルは絞り出すように語った。
あの日、ルヴェンが『異端者』として追われる身となった後、フェルダイの騎士たちが弟を殺すことが、彼にはどうしても耐えられなかったのだ。
ならば、せめて自分の手で……。だが、足を失った彼に、竜依戦士となった弟を止める術はなかった。
焦燥が、彼に魔石の破片を手に取らせた。力を制御し、弟を救うための力に変えようとした。だが、魔石は彼のそんな純粋な献身を嘲笑うように、その精神を根こそぎ食い尽くしたのだ。
「本当に、すまない……。私は間違った道を選んでしまった。この音楽が止まれば、私は再び魔石の奴隷となり、またお前を殺そうとするだろう」
セイセルは震える声で告げ、演奏を続けるレッツォに、万感の思いを込めて深く頭を下げた。
「兄さん、この石を……体から引き離す方法は無いの?」
「無理だ、ルヴェン。既に私の心臓そのものに根を張っている。……引き離せば、その瞬間に私の命も果てるだろう」
セイセルはルヴェンの頭を優しく撫でた。そして、穏やかな、しかし拒絶を許さないトーンで言った。
「ルヴェン。私の、最後のお願いだ。……誇り高きエスメラルダ家の騎士として、そしてお前の兄として。……私を、眠らせてくれないか」
その笑顔は、かつてビルデンの英雄と謳われた時のように、気高く、美しかった。
ルヴェンの心が激しく揺れる。
これまで、セイセルがルヴェンに口にしたのは、常に「命令」か「教育」だった。兄として、あるいは領主として、彼は常に正しい道を示す「導き手」だった。
その兄が、初めてルヴェンに「お願い」をしたのだ。
「兄さん……。それを言うなら、『最初』の、でしょ?」
ルヴェンもにこやかに笑い返した。だが、涙は止めどなく溢れる。
実の兄をこの手で葬る。その行為に躊躇いはなかった。ただ、家族として深く愛しているからこそ、自分がやらねばならないのだと、魂が理解していた。
レッツォの旋律が、中盤の盛り上がりを迎える。
ルヴェンは先ほど投げ捨てた剣を、震える手で拾い上げた。
対するセイセルは、両手を広げ、自らの胸にある「呪いの核」をルヴェンへと差し出した。
「ありがとう、ルヴェン……。お前が弟で、本当に良かった」
瞳を閉じ、その時を待つ兄の言葉に、ルヴェンは顔を伏せたまま、深く、深く頷いた。
――時間が止まったかのような、永遠の数秒が流れる。
ひたすらに、淡々と、同じ低音の主題を繰り返し、ヴァイオリンが重なっていく。レッツォの奏でる旋律は、もはや音楽を超え、魂を浄化する祈りの儀式となっていた。
支えるエルミナも、溢れる涙を拭おうともせず、その光景を網膜に焼き付けている。
彼らの足元に広がる「金色の雪」は、いつの間にか柔らかな草原のように揺れ、光の粒が空へと舞い上がっていく。その光の向こう側に、かつての幸せだった街の人々の笑顔が、幻影となって揺らめいていた。
俯いたまま、ルヴェンは激しく震えていた。
どんなに決意しても、剣の重みが鉛のように増していく。愛が深ければ深いほど、最後の一歩が踏み出せない。
レッツォの額からは滝のような汗が流れ、肺が裂けそうなほどの執念でハーモニカを奏で続けている。彼は、ルヴェンがその「一歩」を踏み出すまで、決して音楽を途絶えさせまいとしていた。
そして。
レッツォが奏でるフレーズが、二十八回目を数えた。
旋律は徐々に速度を落とし、すべての楽器が一つに溶け合う、最後の和音へと向かう。
テンポは徐々に遅くなり……。
そして完全に静止する、最後の一拍。
レッツォは微かに目を開き、まるで奏者が指揮者のタクトが振り下ろされるを待つかのように、ルヴェンを見つめた。
タクトは震えていた……が、暖かい風が指揮者の前髪を少し吹き上げた時だ。
そのタクトの震えは止まり、指揮者は叫ぶ。
「兄さぁぁぁぁぁーーん!!」
咆哮と共に、ルヴェンの剣が魔石を貫いた。
それと同時に、レッツォが最後の一音を吹き抜く。
金色の光が爆発し、聖なる和音が屋上に響き渡る。
それが、美しき旋律の終わりであり、一人の偉大な騎士が、一人の兄として還った瞬間だった。




