表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
60/79

第五十九小節 ~神の焔~



 深い闇の中、荒れ狂う風の音と、セイセルが放つ獣特有の低い唸り声が、不気味な不協和音となって屋上に響き渡っていた。


「兄さん! その姿は……一体何があったの!?」


 変わり果てた兄の元へ駆け寄り、その身体に触れようと一歩踏み出したルヴェン。だが、それを制したのは、これまでに見たこともないほどの怒りと悲しみを湛えたレッツォの声だった。


「待ちなさい、ルヴェン君! 迂闊に近づいてはいけない。彼は……もう、君の知っているお兄さんではない!」


「でも、兄さんが! 僕が助けないと!」


 ルヴェンの叫びを掻き消すように、セイセルの身体がバキバキと、内側から骨を組み替えるような気味の悪い音を立て始めた。筋肉が膨張し、皮膚を突き破らんばかりに銀色の被毛が噴き出す。


 一瞬のうちに、セイセルは人間の二倍はあるかという巨躯を持つ「人狼」へと変貌を遂げた。


 グルル……と喉を鳴らすその怪物は、月明かりを浴びて銀色に輝く被毛を逆立て、鋭い鉤爪で石畳を切り刻んでいる。


「ああ……」


 ルヴェンの瞳から、絶望の涙が溢れ出した。


「殺す……コロス! ルヴェン……コロス……!」


 荒い呼吸と共に、濁った唾液が雪の上に滴り落ちる。理性を失い、混濁した青い瞳。セイセルはもはや人ではなく、魔石に魂を喰らいつくされた化け物そのものだった。


 だが、その顔立ちに、ルヴェンは見覚えがあった。今も胸元で激しく脈打つペンダントの記憶。彼が愛し、そして共に遊んだはずの……。


「兄さん……貴方は、アズルーとテウロンの遺体まで、魔石の苗床に使ったんだね……」


 その言葉が引き金となった。

 セイセルは奇声を発し、弾丸のような速さでルヴェンへと肉薄した。


「兄さん! 目を覚まして!」


 ルヴェンの悲痛な叫びは空しく風に消えた。人狼の剛腕から繰り出された体当たりを食らい、ルヴェンの身体は木の葉のように吹き飛ばされる。幸いにも、厚く積もった雪がクッションとなり、致命的なダメージは免れた。


「くっ……!」


 ルヴェンは即座に跳ね起き、痛む胸を押さえながら、先ほど装備した長剣を抜いた。


 スラリ……。その刀身は傍らに有る松明の炎を映す。


「貴方は……僕が止めます!」


 ルヴェンの瞳に、これまでにはなかった鋭い決意の光が宿る。

 ルヴェンは剣を正眼に構え、兄の動向を凝視した。


 対するセイセルは、低い唸り声を上げながら右手に強大な闘気を練り始める。太く力強い腕に銀色の光が集束し、それは五本の指の爪へと結集していった。

 爪は闘気によって延長され、六十センチを超える銀色の刃となって彼の拳を飾る。その戦術、その構え――まさしく、人狼テウロンの戦闘スタイルそのものだった。


「兄さんッ!」


 ルヴェンが地を蹴った。同時に、セイセルも爪を振りかぶって襲いかかる。

 通常、闘気を纏った攻撃を防ぐには、同じく闘気による防御が必要だ。だが、今のルヴェンにその自覚はなかった。ただ「兄を止めたい」という一念が、無意識のうちに彼の中に眠る「黒竜」の力を呼び覚ます。


 長剣の刀身に、薄らと、しかし濃密な黒色の闘気が立ち上る。

 ガギィンッ! と、耳を劈くような金属音が響いた。銀色の爪と黒い剣が激しく火花を散らし、互いの振動がルヴェンの腕を痺れさせる。


 鍔迫り合いの至近距離。狼のかおへと変じ果てた兄の顔が迫る。吐息は生温かく、鼻を突くような血生臭い匂いが漂っていた。


「黒竜……。貴方の力で兄さんを傷つけたくはない。でも、少しだけ……少しだけ力を貸して!」


 ルヴェンはセイセルの濁った瞳を睨みつけ、全身のバネを使ってその巨体を押し返した。

 彼の中に迷いがあった。竜依戦士として魔石を狩るのではなく、一人の弟として、実の兄を救いたいという、青臭くも純粋な願いが。


 ルヴェンとセイセルの死闘が続く傍らで、レッツォは吹雪の中に佇む執事レイグを射抜くような視線で睨みつけていた。


 レイグは依然として片膝をつき、主の戦いを見守っていたが、レッツォの放つ殺気に気づいたのか、ゆっくりと立ち上がった。


「牧師様、無駄な抵抗はおやめなさい。この戦いは我が主の本意。外野が口を挟むべきではありませんな」


 その老いさらばえた瞳には、残忍な狂気の光が宿っていた。


「そうはいかない、レイグ殿。私は彼を、そしてこの街を救わねばならない。……それに、貴方の真意も、ここで吐き出してもらう必要がある」


 レッツォは両腰の双剣を抜き放ち、流れるような動作で身構えた。左足を半歩引き、胸の前で二本の刃を交差させる。その構えに、レイグの眉が動いた。


「ほう、闘う気ですか。ならば……私もお相手いたしましょう」


 レイグが両手を天に掲げ、呪文のような呟きを漏らした。瞬間、彼の指先から無数の銀色の糸が、蜘蛛の巣のように街中へと伸びていく。


 その糸が「手繰り寄せた」のは、生ける屍たちだった。

 街の住人だった者たちが、見えない糸に吊り上げられる魚のように屋上へと飛び来たり、五人、十人とその数を増していく。


「さぁ、ダンスのパートナーは揃いましたよ! 牧師様、共に地獄の舞踏会を楽しみましょう!」


 レイグの号令と共に、剣や斧を携えた三十人以上の死人たちが、一斉にレッツォへと襲いかかった。


「……少し、頭を冷やしてもらいましょうか。貴方とは、ゆっくり会話をする必要がある」


 レッツォの動きは、もはや「牧師」のそれではない。


 猛烈な勢いで迫る死人たちの隙間を、風のように通り抜ける。一歩の無駄もなく、刃を一閃させることもなく、彼は包囲網を突破してレイグの鼻先へと到達した。


 その卓越した体捌きに、レイグは驚愕して一歩後退する。


「な……貴方、ただの聖職者ではないな?」


「レイグ殿。私は貴方が何故、その高潔な力を『死人使い』という形で貶めているのか、その理由を知りたいのです。私もかつて……『人形遣い』の一族と深い関わりを持った身ですから」


 その言葉に、レイグは表情を凍りつかせ、構えを解いた。


「やはり……夕刻に貴方が発した、あの古の言葉。同業者……あるいは、関係者でしたか」


 レッツォが屋敷に到着した際に放った、あの奇妙な言葉。それは人形遣いの秘匿言語だった。


『何故、禁忌を犯す?』――レッツォはそう問いかけていたのだ。

 人形遣いにとって、死体を弄ぶことは魂の尊厳を冒涜する最大の大罪。レッツォにとって、街全体の遺体を操るレイグの行為は、到底容認できるものではなかった。


「牧師様……。私はかつて、故郷の集落で家族を不慮の事故で亡くしましてな。その時、悲しみに耐えかね、つい出来心で家族の遺体を操ってしまったのですよ」


 レイグは深い溜め息と共に、独白を始めた。


「禁忌を破った私は集落を追われ、彷徨い歩いた末にこの街へ辿り着いた。私の力、私の罪……その全てを『面白い』と受け入れてくださったのが、セイセル様だったのです」


 隣では、ルヴェンとセイセルが激しく激突し、闘気の余波が屋上を揺らしていた。


 一見して、ルヴェンが劣勢なのは明らかだった。レッツォは加勢したい焦燥に駆られ、極寒の中でも額に脂汗が滲む。だが、レイグの言葉は、この街の謎を解く鍵だ。



 なぜ、この街は死体で溢れかえっているのか。


 それは、セイセルがビルデン本土での会議に赴いている間に起きた、悲劇の結果だった。


 強烈な流行病が街を襲った。交流の少ない閉ざされた氷都では、免疫のない住人たちの間で病は瞬く間に広がり、街はほぼ壊滅状態に陥った。


 が、レイグは元々この土地の人間ではない為、その疫病の猛威を避けることが出来た。


 領主不在の中、変わり果てた街を目の当たりにしたレイグは、自らの禁忌の力を使って、街に「偽りの日常」を再現した。主が帰還した時に、悲しませないために。


 だが、戻ってきたセイセルは、すでに魔石に魅入られ、人としての心を失っていた。


 あるじと従者。どちらも「愛」ゆえに狂い、禁忌の深淵へと足を踏み外していたのだ。


「……それで、貴方は満足なのか? 魔石の傀儡として、主と共に堕ちるのが貴方の望みか?」


 レッツォの問いに、レイグは狂気に満ちた叫びで答えた。


「主のお心は私の願い! あの方がルヴェン様を殺したいと望むなら、私は世界を敵に回してもそれを叶える! 貴方もここで死になさい!」


 銀色の糸が鋭く鳴り、死人たちが再びレッツォへ牙を剥く。


「くっ!」


 レッツォが双剣を握り直し、死人たちの群れを見切り始めた、その時。


「うおおおおおおおおっ!!」


 ルヴェンの魂を削るような咆哮が響いた。


 彼の会心の一撃が、セイセルの胸部を直撃したのだ。漆黒の闘気を纏った斬撃は、巨躯を宙に浮かせ、後方へと豪快に吹き飛ばした。

 ズウゥゥンッ! という地響きと共に、セイセルは雪の中に沈む。


 ルヴェンは肩で息を切り、全身は返り血と自身の傷で赤く染まっていた。


 だが、レッツォが凝視していたのは、セイセルが落下した地点――そこは、レイグが立っていた場所だ。


 セイセルが唸り声を上げて立ち上がろうとした時、足元の雪が鮮血で真っ赤に染まった。


 ……レイグが、セイセルの巨体の下敷きになったのだ。


 グゥルル……と、セイセルの怒りが頂点に達する。その吼え声は屋上全体を震わせ、エルミナの悲鳴さえ掻き消した。


 立ち上がったセイセルの右手には、無惨に潰れたレイグの半身が握られていた。

 セイセルは荒い呼吸を繰り返しながら、躊躇なく、自らを慕い続けた忠臣の肉をバリバリと咀嚼し、その口へと運ぶ。



 涎を垂らし、荒い息遣い。目の前の家臣を『ただの肉』として貪り食う。その瞳には、もう『本能』でしか行動していない、と言わんばかりに無機質な光が宿る。



「……ひどい……なんて、酷いことを……」


 レッツォの声が震えた。


「貴方は……! 魔石に呑まれたとはいえ、貴方に心底尽くしてきた家臣を、ただの『餌』として扱うのか!?」


 だが、理性を失ったセイセルに言葉は届かない。レイグの「人形遣い」の魔力を喰らったせいか、セイセルの身体から放たれる銀色の糸が、より太く、強固なものへと変質していく。


「おおおおおっ!」


 ルヴェンが特攻を仕掛けた。黒色の闘気が剣全体を覆い、一閃。セイセルの右腕を肩口から斬り飛ばした。


「いける! 今なら……!」


 勝利を確信したルヴェンの足首を、何かが強く掴んだ。


「!? なんだ……っ」


 見れば、レイグが呼び寄せた死人たちが、地の底から這い出るようにしてルヴェンの動きを封じている。


 そして、セイセルの身体から伸びる無数の銀色の糸が、周囲の死人たちを強引に引き寄せ始めた。

 引きちぎられた死体の一部が、セイセルの右腕の断面へと吸着していく。


 魔石の鼓動――ドクン、ドクンという脈動に合わせ、他人の肉がセイセルの肉へと癒着し、瞬く間に新たな腕を形成していった。


「なんて……悪趣味な……」


 絶望に染まるルヴェンの隣で、激しく雪を突く音がした。



 ふと目を向けると、そこには双剣を雪に突き刺し、怒りで全身を小刻みに震わせるレッツォの姿があった。


「人形遣いを喰って、その力を手に入れただと……?ましてや殺戮のために利用するだと……? ふざけるなっ!その力は、人々を幸せにするために磨かれたものだ!どれほどの愛がそのすべに込められていると思ってるんだ!いくさの道具になど、断じてさせてたまるか!」


 レッツォの口調が豹変していた。牧師の穏やかさは微塵もなく、その形相は阿修羅の如く凄まじい。



「……この、石っコロがぁぁぁ!!」



 レッツォはゆっくりと立ち上がり、懐から銀色のハーモニカを取り出した。



「貴様の行為は、神の裁きに値する。……いや、その前に『俺』が許さん!!」


 レッツォがハーモニカを唇に当てた。

 ルヴェンは困惑した。これまでレッツォの演奏は、守護の結界や幻影を見せるための、穏やかな補助魔法でしかなかったからだ。


 だが、次に奏でられた旋律は、これまでのどれとも違っていた。

 激しく、重厚で、聴く者の魂を直接揺さぶるような爆発的なリズム。


 ワンフレーズ流れるごとに、大気が悲鳴を上げ始めた。

 レッツォの足元に、真紅の炎が噴き上がる。それは複雑怪奇な幾何学模様を描き、直径一メートルほどの魔法陣へと変じた。


 連動するように、屋敷の上空――吹雪の雲を突き抜けた高みに、直径三十メートルを超える巨大な炎の円環サークルが出現した。

 円環の周囲には、ハープ、太鼓、トランペット……実体のない数多の楽器が浮かび上がり、レッツォのメロディーに合わせて和音を重ねる。


 それは、たった一人で奏でる壮大なフルオーケストラ。


「レッツォさん! 危ない、後ろから死人が!」


 ルヴェンの叫びが響くより早く、レッツォに飛びかかった死人たちが、彼の周囲に展開された魔法陣に触れた瞬間、悲鳴を上げる間もなく一瞬で灰へと化した。


 キィィィィィィィンッと、突如、空を割るような、巨大な鳥の鳴き声が脳内に直接響き渡った。


 上空のサークル。そこには、レッツォの足元のものと同じ、太陽のように輝く魔法陣が展開されていた。

 音楽はテンポを上げ、焦燥感を煽るように激しさを増していく。


 ルヴェンも、隠れていたエルミナも、そして野獣と化したセイセルまでもが、その神々しくも恐ろしい光景に目を奪われ、動くことさえ忘れていた。



 魔法陣の中央から、天を衝くような巨大な火柱が爆音と共に立ち上がった。


 その爆音は空間では無く、「次元」そのものを揺るがした。


 そして火柱は次第に形を変え、隆々とした「腕」となって魔法陣の縁を掴んだ。


 なおも空間そのものが、その存在の重圧に耐えかねて歪み、震えている。


 レッツォはハーモニカを口から離し、上空の魔法陣を指差した。


「出でよ、『焔の闘神』! 我が盟友よ、その劫火を以て全てを浄化せよ!」


 ルヴェンは仰天した。


 この世界で召喚できるのは、精霊までのはずだ。だが、今そこに現れようとしているのは、精霊などという枠に収まる存在ではない。


 ……おそらく、生有るものが、その『存在』を『認識』する事は許されないのだろう。


 ここに有るものは畏怖、が、圧倒的暴力などと言う生易しい畏怖では無い、『見てはいけない』畏怖がその場にあった。



「全ての混沌を焼き払い、悪しき時間を無に還せ!!」


 炎が渦を巻き、魔法陣から「何か」の頭部が現れようとした、その刹那。


 ――ピタリと、音楽が止まった。


 レッツォは目を見開き、カチカチと歯を鳴らして震え始めた。


「……無に、還……せ?」


 消え入りそうな声。

 演奏が途絶えた瞬間、足元の魔法陣も、上空の巨大な円環も、立ち上がった焔の腕も……。



 まるで最初から存在しなかったかのように、一気に霧散し、消え去った。



 後に残されたのは、静まり返った吹雪の音と、立ち尽くすレッツォの、絶望に満ちた背中だけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ