第五十七小節 ~雪降る街で騒ごう~
翌日。
深い針葉樹の森を抜けたルヴェン、エルミナ、そしてレッツォの三人は、ついにビルデン王国ディファテス地方の中心都市、コエグレジンへと辿り着こうとしていた。
ルヴェンの説明によれば、彼の兄セイセルが統治するこの街は、一年を通じて雪と氷に閉ざされた、文字通りの「氷都」であるという。
だが、その厳しい自然環境とは裏腹に、人々の心は温かく、活気に満ちているはずだった。
レンガ造りの家々のシンボルである煙突からは、絶え間なく暖炉の煙が立ち上り、厚い防寒具に身を包んだ街人たちが、笑顔で挨拶を交わし合う。それが、ルヴェンの記憶に刻まれた故郷の姿だった。
安住の地と、ようやく手に入るであろう休息。
その期待に胸を膨らませ、ルヴェンとエルミナは子供のように大はしゃぎしていた。
「ねぇ、ルヴェン! だんだん街の外壁が見えてきたよ! のんびり歩いてないで、早く行こうよ!」
「エル、危ないって! 注意して歩かないと雪に足を取られちゃうよ!」
街道らしき平坦な道はあるものの、交易の少ないこの時期のコエグレジン周辺は、新雪が深く積もっている。特殊な雪上歩行用の靴でもなければ、一歩ごとに足が埋まり、脱出不能になる恐れすらあった。
慎重に一歩一歩を確認しながら進むルヴェンとレッツォに対し、エルミナだけは喜びのあまり、小走りになって先を急いでいた。
幸運なことに、この日は数日ぶりに吹雪が止んでいた。
重い雲の隙間から、ナイフのように鋭い太陽光が差し込み、街道沿いの木々に積もった雪をダイヤモンドの粉のように輝かせている。
美しい冬の光景と、他愛のない会話。
そんな穏やかな時間が流れる中、一行はついに街を囲う巨大な外壁へと到着した。
高さ三メートル。鉄の骨組みに、石と粘土、そして特殊なセメントを混ぜ合わせた強固な素材で造られたその壁は、凶暴な野生動物や、時に吹き荒れる殺人的な地吹雪から、人口約六千人の命を守り続けてきた。
外壁の東西南北には四つの巨大な門があり、ルヴェンたちはその南門の前に立っていた。
「さぁ、着いたよ。ここが兄様の統治する雪の街、コエグレジン」
ルヴェンは一足先に開け放たれた門をくぐり、両手を広げて満面の笑みを見せた。
「……やっと着いたか」
背後でレッツォが、重い溜息と共に漏らした。
その顔には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。無理もない。彼は森での野営中も、二人の身を守るために魔力を練り続け、十分な休息を取れていなかったのだ。
一方、そんな大人の事情など露知らず、エルミナは「わーい!」と声を上げて街の中へと全速力で突入していった。案の定、磨き上げられたように凍りついた路面に足を滑らせ、派手に転倒する。
「痛た……」
「ははは! だから言ったじゃないか!」
尻餅をついたまま赤くなっているエルミナを見て、ルヴェンとレッツォはやっと緊張の糸を解き、腹を抱えて笑い合った。
コエグレジンの街並みは、ルヴェンの語った通りだった。
統一感のある赤いレンガ造りの家々が整然と並び、その屋根から突き出した無数の煙突が、まるでハリネズミの背中のように見える。
南門から続く大通りには、厚手のコートにフードを深く被った人々が絶え間なく行き交い、レストランや宿屋の店員たちが看板に積もった雪を叩き落としていた。
「レッツォさん、エル、兄様の屋敷はこの大通りを抜けて西に行ったところだよ。ここからは毎朝雪かきをされているから、走っても大丈夫」
誇らしげに語るルヴェンの瞳は、再会の喜びで輝いている。
「まぁ、そんなに焦らなくてもいい。屋敷は逃げやしないだろう? 少し、この街の空気を味わわせてくれないか」
レッツォは苦笑しながら宥めたが、若者二人の耳には届いていなかった。彼らは弾けるような笑い声を上げながら、一気に街の奥へと走り去ってしまった。
二人の後ろ姿を呆れ顔で見送っていたレッツォだったが、ふと、頬を撫でる風の湿り気が変わったことに気づいた。
見上げれば、先ほどまで光を差し込ませていた雲の隙間が急速に閉じ、空がどす黒い紫色に変色し始めている。
「……これは、吹雪くな」
独り言をこぼし、彼は外套のフードを深く被り直した。
天候の急変を察知した直後、パラパラと灰のような雪が舞い落ち始めた。
レッツォの視線は、通り沿いにある小さな公園へと向けられる。
そこには数人の子供たちが集まり、楽しそうに雪合戦に興じていた。雪玉が空を舞い、歓声が上がる――はずだった。
「坊やたち、元気だねぇ。でも、もうすぐ吹雪がやってくるよ。風邪をひく前にお家へ帰りなさい」
レッツォは慈愛に満ちた表情で、通りがかりに声をかけた。
だが、子供たちは遊びを止めようとはしなかった。それどころか、レッツォの言葉が聞こえていないかのように、機械的な動きで雪を丸め、投げ、また丸めるという動作を繰り返している。
「まったく……。子供は元気が一番だが、聞き分けがないのは困りものだ」
レッツォは言葉にし難い「違和感」を残しつつ、その場を去る。
――空からの雪は、瞬く間に勢いを増した。
風が牙を剥き、街全体を白濁した闇が包み込む。
太陽の光が完全に遮断され、街が薄暗い黄昏のような色に染まると、レッツォは冷え始めた身体を温めるべく、ルヴェンたちが向かったセイセル邸へと足を早めた。
背を丸め、風を切り裂くようにして歩く。足元には、異常な速さで雪が積もり始めていた。
「何という積もり方だ……」
不審に思い、レッツォは顔を上げた。
そこで、彼は先程感じた「違和感」の正体に直面した。
「おや……?」
思わず声が出た。
街中の家々の煙突。ルヴェンの話では、そこからは温かな煙が立ち上っているはずだった。
だが、今はどうだ。
一軒たりとも、煙を吐いている煙突がない。
これほどの吹雪、これほどの気温低下だ。いくら寒冷地の住人とはいえ、暖炉も焚かずに過ごせるはずがない。
レッツォは街に着いた安堵感をかなぐり捨て、冷徹な観察者の目を取り戻した。
注意深く、周囲を見渡す。
そこには、筆舌に尽くしがたい異様な光景が広がっていた。
通りを行き交う人々。彼らは、今や視界を遮るほどの猛吹雪を浴びながら、眉ひとつ動かさず、平然と歩き続けている。
フードから覗く顔はどれも無表情で、何より、誰一人として言葉を発していない。
六千人が住む街だ。これだけの人間がいて、喧騒のひとつも聞こえないのは、統計学的なエラーではなく、明らかな異常事態だった。
「何だ、これは……?」
レッツォは嫌な予感に突き動かされ、先ほどの公園へと引き返した。
雪を蹴り立て、辿り着いたそこには――。
膝まで雪に埋もれ、肩や頭にずっしりと雪を積もらせた少年たちの姿があった。
彼らは、凍てつく風の中でも、先ほどと全く同じポーズで、全く同じタイミングで、雪玉を投げ続けていた。
着弾した雪玉が砕ける音だけが、虚しく響く。
レッツォの背筋を、外気よりも鋭い悪寒が走り抜けた。
「まさか……!」
彼は目を見開き、大通り全体を見渡した。
眉を深く歪ませ、荒くなる吐息を抑えながら、瞳を左右に激しく動かして「人間」を観察する。
「そんな……馬鹿なことが……」
膝から力が抜けそうになるのを、気力だけで支えた。
大通りを歩く人々。店舗の軒先で開店準備を続ける店員。そして、無邪気を装って遊ぶ子供たち。
その全てが、まるで精密なゼンマイ仕掛けの時計のように、ある一定の「パターン」を繰り返しているだけだった。
そこには意志も、感情も、生命の灯火すら存在しない。
レッツォは深く溜め息を吐き、目頭を押さえた。
その時。
彼の背中に、何かがぶつかった。
かなりの衝撃だったが、ぶつかってきた相手は謝る様子もなく、ただレッツォの背中に押し当てたまま、前へ進もうと足踏みを続けている。
レッツォが振り返り、その人物が被っていたフードを優しく取り払った。
現れたのは、八十歳は優に越えているであろう老婆の顔だった。深い皺が刻まれたその表情は、不自然なほど静止している。
「ご老人。……少し、お話を聞かせてもらえませんか?」
返辞がないことは分かっていた。だが、声をかけずにはいられなかった。
老婆はレッツォの声を無視し、ただ機械的に前進しようと彼の身体を押し続けている。
レッツォは潤んだ瞳で、老婆を凝視した。
銀髪も、眉毛も、触れればガラスのように砕け散りそうなほど凍てついている。唇は血の気を失い、深い紫色に沈んでいた。
そして何より恐ろしいのは、その瞳だ。
眼球内の水分が凍って体積を増したのか、瞳球が瞼からせり出し、濁った氷細工のように固定されていた。
「……く。皆、死人だというのか」
レッツォは奥歯を噛み締め、拳を強く握りしめた。
そう、このコエグレジンは、生者の街などではなかった。
死体が徘徊し、誰かの意志によって「日常」を演じさせられている、巨大な死霊の劇場に成り果てていたのだ。
「一体、誰がこんな冒涜を……!」
牧師として、神の被造物たる肉体を弄ぶ行為に、レッツォの内に激しい怒りが燃え上がった。
彼の脳裏に、この事態を引き起こし得る二つの可能性が浮かぶ。
一つは「死霊使い」の業。
死体に闘争本能のみを植え付け、恐怖を知らぬ兵士として扱う禁忌。だが、これには違和感がある。
死霊術で操られた死体は通常、破壊と殺戮の意志に支配される。今ここにあるような、不気味なほど統制された「日常の再現」には向かない。
となれば、もう一つの可能性。
レッツォが最も考えたくなかった、「人形遣い」の仕業だ。
魔力の糸を対象に絡ませ、自らの手足のように操る魔導。
ここは極寒の街だ。人々の遺体は腐敗することなく、氷の彫像のように保存される。その特性を利用し、街全体を一つの大きな「ドールハウス」に見立てた狂気のショー。
レッツォは真相を見定めるべく、瞳を閉じて精神を集中させた。
聖職者としての感度を最大まで高め、世界を構築する魔力の流れを視覚化する。
数分後。彼はゆっくりと瞼を開いた。
「……ああ、やはり。何という惨いことを」
悲痛な色を帯びた彼の視界には、街の住人全員に絡みつく、蜘蛛の糸よりも細く繊細な「魔力の糸」が見えていた。
それは無数に、執拗に、街中に張り巡らされている。
レッツォは苦悩に満ちた表情をしていたが、即座に意識を切り替えた。この糸の「源流」を探らなければならない。
視線を追うと、全ての糸はある一点の方向へと収束していた。
「あの方角は……まさか、ルヴェン君たちが向かった……」
糸の集積地。それは大通りの北西。
ルヴェンが誇らしげに語っていた、セイセル邸の付近だった。
レッツォは胸を締め付けるような嫌な予感に突き動かされ、雪を蹴って走り出した。
吹き荒れる風雪が、余所者の侵入を拒むように荒れ狂う。
だが、今のレッツォにそれを止める術はなかった。
彼は行く手を阻む「人形」たちを、まるで動かない家具をどかすかのように無造作に押し退け、最短距離を突き進む。
やがて、吹雪の向こうに、古城をそのまま縮小したような壮麗な屋敷が姿を現した。
この街の建物が二階建てを基本とする中、その屋敷は五階建ての威容を誇り、中央には天を衝くような展望塔がそびえ立っている。
レンガではなく、鉄筋とセメントで造られたそれは、周囲の景観から浮き上がるほど頑強で、異質な存在感を放っていた。
街中の人々から伸びる魔力の糸は、この屋敷の門へと吸い込まれている。
屋敷の周囲を囲う高い壁。その唯一の入り口である、冷たい鉄製の門扉。
その前に、微かに揺れる明かりが見えた。
レッツォは、まるでその光に誘い出される獲物のように、慎重に、しかし着実に歩みを進める。
光との距離が三メートルを切った時。
深い青色のコートを纏い、古いランタンを手にした一人の人物が、レッツォの視界に鮮明に映し出された。
街中の死体を操る「糸」の全てが、その人物の指先へと集まっている。
「お待ちしておりました。エスメラルダ家へようこそ。レッツォ=アルベジーニ様」
枯れ木が擦れるような、細くひしゃげた声。
だが、その声は猛烈な吹雪の音を貫き、レッツォの鼓膜へとはっきりと届いた。
声の主は、かなりの高齢と思われる男性だった。
「……何故、私の名前を知っている。貴方は一体何者だ」
レッツォは外套の下で、全身の神経を尖らせた。
ルヴェンたちの帰還を待ち構えていた罠か、それとも。
「ルヴェン様からお話は伺っております。貴方様が道に迷わぬよう、執事である私がお迎えに上がった次第です」
男は慇懃に、深々と頭を下げた。
フードから覗くレッツォの表情が一切緩まないのを見て、男は「さぁ」と、門扉を開き、屋敷の中へと手招きをした。
「このような吹雪の中、主人のご家族様の恩人を立たせておくわけには参りません。どうぞ、中へ」
男は年齢のせいか腰を深く曲げ、重そうな足を雪に引きずりながら、レッツォを先導し始めた。
「……ならば、厚意に甘えさせてもらおう」
レッツォの声は低く、警戒の色を隠さなかった。
門から屋敷の玄関まで、約五十メートルのアプローチ。
二人の間には、重苦しい沈黙が流れた。
庭園には雪化粧をした彫刻品のようなオブジェが並んでいたが、レッツォの目には、それらさえも死体の一部であるかのように不気味に映った。
半分ほど進んだところで、男が沈黙を破った。
「申し遅れました。私は執事のレイグ=マドレウと申します。以後、お見知りおきを」
振り返り、再び頭を下げるレイグ。
だが、レッツォの関心は、レイグの身体から発せられる魔力の波動――その異常な糸の流れに向いていた。レイグが次に発した言葉を、聞き逃してしまうほどに。
「失礼、レイグ殿。風の音で聞き取れなかった。もう一度頼めるかな」
「ホッホッホ。これは失礼いたしました」
レイグは喉を鳴らして笑い、今度ははっきりと、噛み砕くように言った。
「聞けば、アルベジーニ様はアルカスル教の立派な牧師様だとか。我が主も、近頃は教えに深く興味を持たれておりましてね。是非とも、貴方様の説法を拝聴したいと仰っておいでです」
レイグの言葉を聞き、レッツォはそれまでへの字に結んでいた口元を、わずかに緩ませた。
「ほう……。それは光栄だ。だが、私の説法は長いですよ? 夜通しでもお話ししましょうか」
レイグは再び満足げに「ホッホ」と笑い、屋敷の重厚な扉へと手をかけた。
その時。
レッツォの口から、聞き慣れない「言葉」が発せられた。
それはビルデン語でも、フェルダイ語でもない。
キラフの地方語ですらない。
独特のイントネーションと、呪詛のように入り組んだ音節の連続。
その言葉を耳にした瞬間。
レイグの身体が、まるで落雷を受けたかのようにビクリと硬直した。
彼はスローモーションのように、ぎこちなく振り返る。
ランタンを持つ手が震え、その顔からは先ほどまでの余裕が消し飛んでいた。
「……な、何故……? 何故その言葉を、貴方が……!?」
その声は、驚愕と、底知れない恐怖に震えていた。
レッツォは、ただ静かに、冷徹な光を湛えた瞳で執事を見つめ返していた。




