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第五十五小節 ~海の向こう、君と……~



 夜の帳が静かに引き剥がされ、世界が再び色彩を取り戻していく刻限。


 夢の残滓すら残さない深い眠りの底から、ルヴェンは現実の声によって引き戻された。


「ルヴェン君、エルちゃん。もう朝だよ! お祈りもしないでだらしないなぁ」


 耳朶を打つのは、朝の光そのもののように陽気で朗らかなレッツォの声だ。

 ルヴェンは重たい瞼を押し上げ、未だ身体の芯に残る眠気を振り払うように大きな欠伸を噛み殺した。軋むベッドの上で背伸びをすれば、凝り固まっていた関節がパキパキと小さな音を立てる。


「あ……、レッツォさん、おはようございます

……」


 何とも気の抜けた挨拶だった。昨夜、ベッドの中で反芻した決意や緊張感はどこへやら、今の彼はただの寝起きの少年でしかない。


 レッツォはそんなルヴェンを見て苦笑を浮かべ、無造作に彼の頭を撫でた。そして、ターゲットを変える。頭から布団を被り、朝の到来を断固拒否しているもう一人の惰眠者へ。


「ほら、エルちゃんも。いつまでミノムシになっているんだい」


「んぅー……あと五年……」


「百年でも待ってあげたいのは山々だけど、今日は出発の日だよ」


 レッツォに布団を剥ぎ取られ、エルミナが不満げな声を上げながら身じろぎする。


 開け放たれた窓からは、透明度の高い朝の光が惜しげもなく降り注いでいた。太陽に温められる前の冷涼な潮風がカーテンを揺らし、部屋の空気を一気に入れ替えていく。その風は、旅立ちの予感を孕んで彼らの頬を撫でた。


「さぁ、顔を洗って。今日はビルデンに向けて出発するんだろう? 船も探さないといけないし、旅の準備もしなくちゃならない」


 レッツォはニコニコと、まるで遠足を楽しみにする子供のような笑顔で二人に語りかける。そのあまりに自然な物言いに、ルヴェンはふと違和感を覚えた。


「え……。レッツォさんも、来るの? 教会の本部に戻るんじゃないんですか?」


 ルヴェンが問いかけると、寝癖で髪を爆発させながら目をこすっていたエルミナも、驚いたように動きを止めた。「え、そうなの?」と言いたげに目をパチクリさせている。


 ルヴェンはレッツォの顔をじっと見つめた。心なしか、彼の顎周りの髭が少し伸びているような気がする。手入れを怠っているのか、あるいは意図的なものか。


「そんな細かい事は関係ありません! さ、お祈りの時間だよ! 神への感謝は一日の活力だ!」


「ちょっと、はぐらかさないでくださいよ」


「いやぁ、気が変わってね。私もビルデンの現状を見てみたいと思ったんだよ」


 レッツォは相好を崩したまま、さらりと答えた。

 その声音には一点の曇りもなく、純粋な好奇心と聖職者としての慈悲深さが滲んでいるように聞こえる。

 エルミナはその言葉を聞いて、「そっか、レッツォさんも一緒なら安心だね!」と安堵の表情を浮かべた。


 だが、ルヴェンだけは違った。胸の奥底で、得体の知れない警鐘が鳴り響く。この男の行動原理は、いつもどこか掴みどころがない。不安と不信感が澱のように溜まっていくのを自覚しながらも、ルヴェンはそれを表面に出すことなく、ただ曖昧に頷くことしかできなかった。


 アダーでの最後の朝食は、港町らしい活気に満ちたものだった。


 独特の酵母を使った香り高いトースト、バターをたっぷりと使ったスクランブルエッグ、そして目覚めの脳をシャキッとさせる柑橘系のハーブティー。三人はそれぞれの思いを胸に食事を済ませ、荷物をまとめて宿を後にした。


 朝食の席で話し合った結果、役割分担はすぐに決まった。


 ルヴェンとエルミナは長期航海に備えての食料と衣服の調達。顔が広く交渉事に長けたレッツォは、ビルデン行きの船の手配だ。


 港町アダーは、フェルダイ帝国とキラフ共和国の国境に位置する特殊な街だ。

 ルヴェンたちが滞在していたのはフェルダイ側だったが、目的の物資や船を求めて、彼らは関所を越えてキラフ側へと足を踏み入れた。


 国境と言っても厳めしい城壁があるわけではなく、街の中央に設置された簡素な木の柵が国境だ。


 だが、国境を越えると建物の色彩が少し鮮やかになり、行き交う人々の服装も多様性を増した。


 一番の懸念だった言葉の壁も、国境地帯特有の文化のおかげで杞憂に終わった。ここではフェルダイ語もキラフ語も入り混じり、独特の活気を生み出している。

 商店街の入り口でレッツォと別れ、ルヴェンとエルミナは二人きりで石畳の道を歩き始めた。


 陽気な太陽が高くなり始め、午前の爽やかな風がエルミナの髪を揺らす。


「ねぇ、ルヴェン。昨日の事だけどさ」


 数歩先を軽やかに歩いていたエルミナが、くるりとスカートを翻して振り返った。逆光の中で、彼女の笑顔が弾ける。


「私、びっくりしたんだよ? ルヴェンが急に『ビルデンに行く』なんて言い出すんだもん」


 その表情はとても柔らかく、声には隠しきれない喜びが滲んでいた。

 彼女にとって、ルヴェンからの提案は救いだったのかもしれない。過酷な運命に翻弄され、行き場を失っていた彼女に示された道標。それは単に上流家庭の屋敷に身を寄せるという安心感だけでなく、ルヴェンと共にいられるという事実が、彼女の心を浮き立たせているようだった。


「エル、はしゃぎ過ぎだよ。遊びに行くんじゃないんだから」


「むー、わかってるよぅ」


「ちゃんと日持ちする食料と、しっかりした防寒具を買わなきゃ。兄様の住んでる所はね、鼻水も一瞬で凍ってしまうほど寒いんだよ? 油断してると耳だってちぎれちゃうんだから」


 鼻歌交じりにスキップを踏む暢気なエルミナに、ルヴェンは呆れ半分、心配半分で釘を刺す。


 しかしエルミナは「へー、すごーい」と全く真に受けていない空返事。彼女の視線は色とりどりの果実や、見たこともない異国の装飾品が並ぶ露店に釘付けだ。


「もう、いい加減に……」


 ルヴェンが苦言を呈しようとした、その時だった。

 とある服屋のショーウィンドウの前で、エルミナがぴたりと足を止めた。



 ガラスに映る自分の姿を見つめているのか、それともその向こうにある何かを見ているのか。彼女の背中から、急に「陽」の空気が消えた。


「ねぇルヴェン……」


 先ほどまでの弾むような声色は影を潜め、微かに震えるような響きが鼓膜を打つ。


「本当に……私の事、守ってくれる?」


 街の喧騒にかき消されそうなほど小さな声。


「え……?」


 突然の態度の変化に、ルヴェンは一瞬言葉を失った。彼女が何を言ったのか、脳が処理するのに数秒の遅延が生じる。

 反応が遅れたルヴェンに対し、エルミナは彼に背を向けたまま、祈るようにもう一度問いかけた。


「私の事……、守ってくれる? 一人っきりは、嫌だよぉ……」


 ゆっくりと振り返った彼女の瞳には、大粒の涙が溢れそうに溜まっていた。

 それは、捨てられた子猫が雨の中で震えているような、あまりにも頼りなげで、悲痛な眼差しだった。


 両親を失い、故郷を追われ、見知らぬ土地を彷徨う恐怖。明るい振る舞いの下で張り詰めていた糸が、ふとした瞬間に緩んでしまったのだろう。

 彼女の涙と、縋るような瞳に、ルヴェンの心臓が早鐘を打つ。



 守らなければ。この華奢な少女を、この残酷な世界から。

 ルヴェンは頬を微かに赤らめながら、しかし力強く言葉を紡いだ。


「うん。守るよ。……ずっと一緒だよ、エル」


 それは誓いだった。自分自身への、そして彼女への。

 今まで気丈に振る舞っていた彼女は、ただ強がっていただけなのだ。心の傷は生々しく口を開けており、彼女はずっと、埋まらない穴を埋めてくれる誰かを探していた。


 ルヴェンがそっと手を伸ばし、エルミナの震える手を包み込む。


 俯いていた彼女の顔を覗き込もうとした瞬間、ルヴェンの瞳に映ったのは――。



 涙の筋を頬に残しながらも、太陽のように輝く満面の笑みだった。

 彼女はルヴェンの手を驚くほど強い力で握り返し、ぐいっと彼を引っ張る。


「言ったね! 証言確保! さ、行こう! さっさと買い物を済ませて、新しい服も買っちゃおうよ!」


「え、あ、ちょっ……!」


 その変わり身の早さにルヴェンは目を白黒させるが、繋がれた手から伝わる温かさが、彼の心の奥底をじんわりと温めた。


 彼女の笑顔が見られるなら、振り回されるのも悪くない。そう思いながら、ルヴェンは彼女の歩調に合わせて駆け出した。



 一通りの買い物を済ませた二人は、大量の荷物を抱えて港へと向かった。

 キラフ側の港は、アダーの街中でもとりわけ賑やかで、そして荒っぽい場所だった。


 潮の香りと魚の生臭さ、そして安酒の匂いが混然一体となって漂っている。日焼けした屈強な男たちが、網の手入れをしながら歌を歌い、昼間から酒を酌み交わしている。


 市場には今朝水揚げされたばかりの銀色に輝く魚たちが所狭しと並べられ、威勢の良い掛け声が飛び交っていた。

 修道士の格好をした少年と少女が、大荷物を抱えて歩く姿はひどく目立った。


「おい坊主、迷子か?」

「お嬢ちゃん、重くないか? 俺が持ってやろうか?」


 何人もの男たちに声をかけられたが、ルヴェンたちは愛想笑いを浮かべて足早に通り過ぎた。彼らの親切心はありがたいが、今は一刻も早くレッツォと合流したかった。


 船着場には無数の船が停泊していた。

 塗装の剥げた漁船、帆に継ぎ接ぎのある小型の商船。どれも年季が入っており、海と共に生きてきた歴史を感じさせるものばかりだ。


 そんな中、ルヴェンは一番端の桟橋に停泊している一隻の船に目を留めた。

 決して大型ではないが、手入れが行き届いており、比較的新しい魔動機を搭載していると思われる船だ。その近くに、見慣れた法衣姿の男――レッツォが立っていた。


 木箱や樽が積み上げられた迷路のような通りを抜け、ルヴェンはエルミナの手を引いて駆け寄る。


「やぁ二人共、お帰り。船が見つかったよ。しかも幸運なことに、ルヴェン君のお兄さんの領地近くまで運んでくれるそうだ」


 レッツォは二人の荷物を受け取りながら、涼しい顔で言った。


「本当ですか!? でも……」


 ルヴェンは喜びつつも、停泊している船をまじまじと見つめた。


 確かにこの辺りの船の中では上等だが、ビルデン近海の過酷な環境――分厚い海氷や激しい嵐に耐えられるようには見えない。


「この辺りの船じゃ、到底海氷を砕いて進むなんて無理そうなんですけど……」


「大丈夫、お世話になる船の船長さん曰く、『そんなのは気合で何とかなる』と、快く承諾してくれたよ」


 気合。

 そのあまりに非論理的で、しかしどこか懐かしい響きを持つ単語に、ルヴェンの記憶の蓋が揺れ動いた。



 まさか。

 ルヴェンの視線の先に、船倉から甲板へと上がってきた一人の中年男性の姿が映る。


 無精髭、日に焼けた肌、そして仁王立ちするそのシルエット。


 その瞬間、ルヴェンと男の目が合った。

 時が止まる。


 お互いに指を指し合い、あんぐりと口を開けたまま硬直する。


「ど、どうしたんだい? ルヴェン君。それに船長さんも」


 二人の奇妙なリアクションに、レッツォが首を傾げる。


「まぁ、紹介しよう……」


 レッツォの言葉で我に返ったルヴェンが、信じられないという表情で叫んだ。男もまた、同じタイミングで叫ぶ。


「ジルウスさん!!」

「坊主じゃねぇか!?」


 そこにいたのは、かつてルヴェンを故郷からフェルダイまで送り届けた貿易船の船長、ジルウス=ハルバートその人だった。


「うおぉぉ! 坊主! 生きてたか! いや、なんとなくお前とはまた会えるような気がしてたんだが、まさかこんな所で!」


 ジルウスは桟橋に飛び降りると、ルヴェンに突進し、彼を抱きしめた。


 強烈な締め付け。汗と潮、そして男臭い匂いがルヴェンの鼻腔を直撃する。


「ちょ、ジルウスさん! 苦しい、背骨が折れる……!」

「がっはっは! 細けぇことは気にするな! 生きてりゃいいんだよ!」


 感動の再会と言うにはあまりに暑苦しい光景に、レッツォとエルミナは眉を八の字にして顔を見合わせている。


「ええと、どうやらルヴェン君とジルウス殿はお知り合いの様で」


 レッツォが穏やかに割って入る。ジルウスはルヴェンの頭をヘッドロックしたまま、ニカっと笑って答えた。


「おうよ牧師様、この坊主はフェルダイとビルデンの裏取引の荷物の一種、『異端』の坊主ですよ。まさかバスター共の狩りの目を掻い潜って生き延びるとは、大した悪運だ!」


 その言葉に、レッツォの優しげな瞳が一瞬だけ細められた。口元が微かに緩み、誰にも聞こえないほどの吐息のような音で鼻で笑う。


 その笑みの意味に気づく者は、誰もいなかった。


「そうでしたか、ジルウス殿。彼は『愛』を求めて彷徨っていたのでね、私の弟子にして世界を回っている所なんですよ。この可愛らしい少女と一緒に」

 レッツォはさらりと嘘をつき、横目でエルミナを見た。


「弟子!?」と抗議の声を上げようとしたエルミナに対し、レッツォは人差し指を唇に当てて「シーッ」とウインクする。「余計な詮索を避けるためだ」という意図を察した彼女は、不満げに頬を膨らませながらもジルウスにぺこりと頭を下げた。


「紹介が遅れましたね、ジルウス殿。この女の子がエルミナ=トリシュール。そして男の子は……、ご存知ですね」


 ようやくジルウスの腕から解放されたルヴェンは、乱れた服を直し、改めて右手を差し出した。 


「ビルデンまで、宜しくお願いします。やっと名乗れますね。僕はルヴェン。ルヴェン=カロース=エスメラルダです。『親方』?」


 ルヴェンは少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。かつて頑なに名前を聞こうとせず、何も告げずに港に置き去りにしていった男への、精一杯の意趣返しだ。彼が一番嫌がる呼び名を選んで。


「『親方』って呼ぶんじゃねぇ! 『船長』って呼びやがれ! じゃねぇとお前はずーっと『坊主』って呼んでやるからな!」


 ジルウスは、日に焼けた褐色の肌とは対照的な白い歯をむき出しにして笑い、ルヴェンの手を力強く握り返した。


 痛いほどの握手。それが、彼らの再会の儀式だった。


 そんな二人の背後で、エルミナは初めて聞いたルヴェンのフルネームに目を丸くしていた。


「名前ながっ」


 彼女の小さな呟きは、再会の喧騒の中に溶けていった。



 それから数日後。

 ジルウスの船は順調に大海原を進んでいた。


 いかに最新鋭の魔動機船とはいえ、キラフのアダーから北方のビルデンまでは数週間の長旅となる。

 ルヴェンは、ジルウスの妻であり船の心臓部コアでもあるイルベル、そして船員のカイツ、ノッティンとも再会を果たし、これまでの冒険譚を土産話として彼らを驚かせていた。


 そんなある日の午後。

 ルヴェンは一人、甲板に出て空を見上げていた。

 頭上には突き抜けるような青空と、満面の笑みのように輝く太陽。遮るもののない水平線から吹く風は心地よく、汗ばんだ肌を冷やしてくれる。


 今回、ルヴェンは一応「乗客」という扱いだが、ジルウスの「男は働いてなんぼだ」という謎の教育方針により、連日船員たちに混じって雑用をこなしていた。


 対して、牧師であるレッツォと紅一点のエルミナは、船員たちから至れり尽くせりの待遇を受けている。不公平だとは思うが、体を動かすのは嫌いではなかった。


 顔中を流れる汗をタオルで乱暴に拭いながら、ルヴェンは大きく背伸びをした。


「あー、気持ちいいなぁ。体を動かして働くって、こんなにすっきりするんだ。剣を持たない生活も、悪くないな」


 誰に聞かせるでもない独り言。そこには、戦いから離れた平穏な日々への憧れが滲んでいた。


 だが、その呟きを聞いている人物がいた。

 エルミナだ。彼女は空を見上げて呆けているルヴェンの背後から、猫のように足音を消して忍び寄る。


 そして、彼の耳元で思い切り叫びながら背中を叩いた。


「こら! 仕事をサボるんじゃない、坊主!」

「うわぁっ!!」


 心臓が飛び出るかと思った。ルヴェンは無様に飛び上がり、乱れた呼吸を整えながら振り返る。そこには、してやったりという顔で意地悪そうに笑うエルミナがいた。


「何するんだよぉ、エル! びっくりしたじゃないか! 寿命が縮んだよ!」


「あはは、ごめんごめん。ついついアホ面して空見てるルヴェンを見たら、驚かせたくなっちゃってさ」


 怒るルヴェンとは対照的に、エルミナはお腹を抱えて笑い転げている。


「しかも船長のモノマネなんてひどいよ! 坊主とか言ってるし!」

「だって一番効くじゃん? ルヴェン、ジルウスさんには頭上がんないもんねぇ?」


 茶化して逃げようとするエルミナにむっとしたルヴェンは、反射的に彼女の腕を掴んだ。


「待てよ!」

「きゃっ!」


 その時だった。

 船が大きなうねりに乗り上げ、船体が大きく傾いた。

 バランスを崩した二人は、もつれ合うようにして甲板に倒れ込む。


 ドサッという音と共に、世界が回転する。

 揺れが収まり、痛む体を起こそうとした二人は、互いの距離の近さに息を呑んだ。


 目の前にエルミナの顔がある。長い睫毛、驚いて見開かれた瞳、わずかに開いた唇。互いの吐息がかかるほどの距離。

 波音さえ遠のくような静寂が、二人の間に流れる。


 ルヴェンの心臓が、先ほどの驚きとは違うリズムで激しく打ち始めた。

 だが、その甘い時間は、エルミナの一言で唐突に終わりを告げた。


「ちょ……。ルヴェン、汗臭いんだけど……」


 彼女は顔をしかめ、鼻をつまんだ。

 無理もない。ルヴェンは先ほどまで、灼熱の機関室でジルウスと共に夕食の仕込みを手伝っていたのだから。


 ロマンチックな雰囲気は一瞬で霧散し、ルヴェンは顔を真っ赤にして脱兎の如く飛び退いた。


「ご、ごめん!」


 エルミナは何も言わず、プイと顔を背けて船内へと走っていった。


 だが、走り去る彼女の耳が、夕焼けのように赤く染まっていたことを、ルヴェンは見逃さなかった。

 一人残された甲板で、ルヴェンは火照った顔を海風に晒した。


「一緒に、ビルデンで……」


 ポツリと漏らした言葉は、誰に届くこともなく、波音にかき消されていった。




 季節が冬へと向かう海の上、夜は冷たく、そして深かった。






 それから数日が経ったある夜のこと。

 夕食が終わり、魔動機コアであるイルベルを休ませるため、船は帆を張り、風と海流に乗って静かに進んでいた。

 船員たちも寝室へと下がり、甲板には静寂だけが漂っている。


 船尾にあるベンチに、二つの人影があった。ジルウスとレッツォだ。


 ランプの微かな灯りを頼りに、彼らは酒と塩漬けの魚を肴に、男だけの時間を過ごしていた。

 月はなく、満天の星々だけが海面を照らしている。冷たい夜風が、北の海が近いことを肌で感じさせた。


「牧師様、一杯どうです」


 小さめのグラスを差し出し、ジルウスが酒を勧める。


「一応、聖職者なので禁酒なんですがねぇ」


 レッツォは困ったように眉を下げてみせたが、拒絶の色はない。「船長の好意を無下にはできませんから」と言い訳めいた言葉を添えて、グラスを受け取った。


 注がれたのは、ジルウス秘蔵の果実酒だ。

 口に含むと、濃厚で芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、舌先を心地よく痺れさせる渋みと甘みが広がる。


 レッツォはしばらく目を閉じ、その複雑な味わいを堪能していたが、やがてふっと息を吐き、小さく咳払いをした。


「……すまない、もう少し頂けるかな?」


 照れ笑いを浮かべて空のグラスを差し出す。


「へへっ、でしょ? こいつは旨いんすよ。俺の故郷の自慢でね」


 ジルウスは嬉しそうにニヤニヤと笑い、なみなみと酒を注いだ。

 夜が更け、酒瓶が空になる頃には、二人の酔いも程よく回っていた。


 他愛のない話、海の男の武勇伝、教会の裏話。話は尽きなかったが、不意に、レッツォが沈黙した。



 何かを思い出したかのように、今まで浮かべていた柔和な笑みが消える。


 引き締まった、冷徹とも取れる表情で、ジルウスの目を真っ直ぐに見据えた。

 その空気の変化に、ジルウスはグラスを口に運ぶ手を止めた。


「ど、どうしたんですかい牧師様? まさか飲みすぎましたか?」


 千鳥足のような口調で問う彼に、レッツォは静かに、しかしはっきりと告げた。



「貴方の……、コジュン君を弔ったのは私です」



 その言葉が落ちた瞬間、世界から音が消えた。

 波の音も、風の音も、船の軋みさえも。

 ジルウスは酷く酔いが回っているかのように、眼球を小刻みに揺らしながら、今投げかけられた言葉の意味を咀嚼しようとしていた。


 レッツォは目を閉じ、ただ静かに彼の反応を待っている。

 永遠にも思える沈黙の後、ジルウスの唇が震えた。


「……せがれを、コジュンを知っているのですかい? しかも弔って下さったとは……。あの日、牧師様は俺達の村にいらっしゃっていたんですかい?」


 ジルウスの目から酔いの色が消え失せていた。

 数年前、海賊に襲われ、守れなかった故郷。そして失った最愛の息子。


 彼は衝動的にレッツォの両肩を掴んだ。指が肉に食い込むほどの強さで。

 レッツォは痛みなど感じていないかのように、ジルウスの手を優しく外し、穏やかな聖母のような笑みで答えた。


「知っていますとも。コジュン君は、とても勇敢な少年でしたよ」


 彼はグラスに残っていた果実酒を、水のようにクイッと飲み干して続けた。


「まさかジルウス殿の息子さんとは思いませんでした。話の中で苗字がハルバートだと聞いた時、もしやと思って鎌をかけてみたのですが……やはりそうでしたか」


 少し悪戯っぽく、しかし悲しみを湛えた目でレッツォはジルウスを見る。


「へっ……! 中々のやり手ですねぇ、牧師様は……」


 ジルウスは力なく笑おうとしたが、表情筋が言うことを聞かない。


「俺ぁ、あんたみたいな人が大好きだ。……いい兄貴分ってとこですかい?」


 震える手でレッツォのグラスに酒を注ごうとするが、瓶の口がグラスの縁に当たってカチカチと音を立てる。

 注ぎ終わると、ジルウスは急に俯き、肩を震わせた。

 そして、絞り出すような、裏返った声を漏らした。


「……あいつ、泣いてなかったですかい? ……とうちゃん、かあちゃんって……怖がってなかったですかい?」


 彼は右手を口に当て、嗚咽を必死に押し殺していた。


 巨漢のジルウスの背中が、今はまるで迷子の子供のように小さく見えた。後悔と懺悔、決して癒えることのない親としての傷。

 レッツォは立ち上がり、彼の丸まった背中を優しく撫でた。


「いいえ。泣いてなんかいませんでしたよ。彼はずっと気丈でした。最後の最後まで勇敢に戦い、立派に散っていきました」


 それは嘘かもしれないし、真実かもしれない。だが、今のジルウスに必要な言葉だった。


「ご両親に良い子に育てられましたね。『気合』という言葉を、彼は何度も口にしていましたよ」


 その一言で、ジルウスの堤防が決壊した。


 「気合」。それは自分が息子に教えた、唯一の教えだった。


 何故息子の最期を看取っていたのに助けてくれなかったのか、そんな疑問を持つ余裕すらなく、ジルウスはただレッツォの言葉に救われ、涙を流した。


 しばらくして、ジルウスはぐしゃぐしゃになった顔を隠すように立ち上がった。


「す、すいやせん……ちょっと飲み過ぎちまったようだ……便所に……いや、寝ます……」


 みっともない姿を見せまいと、彼は逃げるように船内へと駆け込んでいった。


 甲板には、再び静寂が戻った。

 一人残されたレッツォは、テーブルの上に散乱した食器や空のボトルを見つめ、ふぅ、と軽い溜息をついた。


「片付けは私がするんだろうか……。やれやれ、役得とは言えんね」


 手際よく片付けを済ませると、レッツォはもう一度ベンチに腰を下ろした。


 頭上には、無数の星々が冷ややかに輝いている。

 彼はその星空を見上げ、先ほどまでの慈愛に満ちた表情とは違う、底知れぬ深淵を瞳に宿して呟いた。


「コジュン=ハルバート……。『神の焔の使い手』、ね……」


 その口元が、不敵な弧を描いて歪んだことに気づく者は、星々以外には誰もいなかった。

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