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第五十四小節:Nihilistic CLERGYMAN



「エル、大丈夫……?」


 薄暗い部屋の中、ルヴェンはそっと囁いた。

 彼はエルミナのか細い肩を抱きしめ、その震えを鎮めるように言葉を重ねる。


「君は僕が守る。必ず、安全な場所まで連れていくから」


 その言葉に、泣きじゃくっていたエルミナが顔を上げた。涙に濡れた瞳で彼をじっと見つめる。


「……嘘じゃないよね? 私、もうこんな生活、嫌だよ……」


 消え入りそうな声で漏らすと、彼女は再びルヴェンの胸へと顔を埋めた。


 しばしの沈黙。二人は抱き合ったまま、互いの体温を通じてその存在を確かめ合っていた。

 言葉はなくとも、確かな想いがそこにはあった。互いが、この過酷な世界で唯一の「大切な人」であるという確信が。


 そんな二人を現実に引き戻したのは、扉の向こうから響いた宿の亭主の声だった。


「お客様、もうすぐ夕食の時間ですよ。お連れの牧師様も既にお見えです。ご準備をお願いします」


 その声に弾かれたように、二人は真っ赤になって距離を取った。


「ルヴェン、ごめんね。なんだか……」


 エルミナの言葉は尻すぼみになったが、ルヴェンには彼女の言いたいことが痛いほど伝わっていた。


「こっちこそ、変なこと言ってごめん。……でも、さっきのは本心だから」


 彼は気恥ずかしさを押し殺し、真っ直ぐに彼女の目を見つめた。

 二人が一階の食堂へと降りると、古びた木造建築特有の、ギシギシと軋む音が階段に響いた。今にも踏み抜いてしまいそうな朽ち方だが、夜のランプに照らされた褐色の木肌には、得も言われぬ深みがある。


 食堂には五つほどの丸テーブルが並び、その一つにレッツォが座っていた。彼は二人を見つけると、穏やかに手を挙げた。


「やあ、二人とも。よく眠れたかい? 私も色々と用事があってね。さあ、美味しい夕食を囲みながら、今後の相談をしようじゃないか」


「あ……はい」


 ルヴェンは軽く会釈し、椅子に腰を下ろしながら周囲を伺った。


 離れた席には食事を楽しむ中年夫婦。カウンターの端では、老人が一人で静かに杯を傾けている。ランプの炎が優しく揺れる、どこまでも穏やかな光景だ。


 暫くすると、給仕の女性が鼻腔と食欲をくすぐる料理を手に、「追加はいくらでも頼んで下さいね!」と、言いながらテーブルの前に立った。


 レッツォは彼女にチップを渡し、「ありがとう、頂くよ」と笑顔で返している。


 運ばれてきたのは、港町ならではの新鮮な魚介をふんだんに使った料理だった。豪快な魚の丸焼きから立ち昇る香ばしい匂いに、二人はしばし憂鬱を忘れ、一心不乱にフォークを動かした。


 食後、レッツォがナプキンで口元を拭い、静かに切り出した。


「さて、腹も満たされたことだ。これからの話をしよう」


 ルヴェンの背筋が伸びる。脳裏には、先ほどの黒竜との対話が、そしてレッツォに対する「疑惑」が渦巻いていた。


「私はこの街から陸路でキラフへ抜け、教会の総本山であるフィグダスを目指すつもりだ。そこで君たちを保護してもらおうと思っているのだが……どうかな?」


 レッツォは給仕の動きを気にする風もなく、二人の目を覗き込む。


「君たちは『アレ』だろう? どの道、キラフ以外に居場所を求めるのは危険すぎる」


 異端者という言葉を伏せ、安全策を提示するレッツォ。だが、ルヴェンは揺るがなかった。


「レッツォさん、実は……」


 ルヴェンは、黒竜が「気配を感じない」と断じた男の瞳を見つめ返す。


「条件は悪くないと思います。でも、教会に入るということは、僕もエルも自由を奪われるということですよね? それに……僕は、愛の女神にこの身を捧げるほど、信仰心を持ってはいません」


 隣でエルミナも深く頷いた。レッツォに向けられた彼女の視線には、もう不安だけでなく、拒絶の光が混じっていた。


「そうか……。ではルヴェン君、君たちはどうするつもりだい? まさか、無謀にもビルデンへ帰るなどとは言わないだろうね?」


 レッツォの質問にルヴェンは毅然と、そして力強く答えた。


「僕は、エルと一緒にビルデンに帰ります」


 その宣言に、レッツォだけでなくエルミナまでもが目を見開いた。


「そんな、馬鹿げている! 国に帰ればまた追われるだけだぞ。なぜそんな真似を……」


 レッツォが、焦燥を滲ませてルヴェンの肩を掴んだ。


「ルヴェン、どうしたの? キラフの小さな村で隠れて暮らすんじゃダメなの?」


 エルミナも身を乗り出し、彼の青い瞳を覗き込む。


「大丈夫。キラフに行っても右も左も分からない。それに……僕にとっては『相棒』との約束なんだ。エルのご両親も元々はビルデン人だったんだろう? なら、あそこの空気はきっとエルに合うはずだ」


 ルヴェンの確信に満ちた口調に、エルミナは戸惑いながらも尋ねた。


「でも……行く当てなんてあるの?」


「ビルデンの最北端に、エーレッツ半島という場所がある。雪と氷に閉ざされたディファテス地方だ。そこは僕の兄様が領主を務めている。中央の監視も届きにくい場所だから、そこでお世話になろうと思う」


 すかさずレッツォが問いを投げた。


「だが、どうやってそこまで行く? 素性が割れている君たちが、蒸気列車に乗れるはずもない」


 ルヴェンは言葉に詰まり、頭を抱えた。確かに、具体的な移動手段までは考えていなかった。そのあまりに直線的な思考に、エルミナは呆れたような顔をした。


「ねえ……お兄さんが領主様ってことは、ルヴェンって実はお坊っちゃまなの? なんだかナヨナヨしてるなとは思ってたけど」


「……これでも、ビルデン国王直属、近衛騎士団長の息子だよ」


 ルヴェンが周囲に聞こえないよう小声で明かすと、エルミナの目が星空のように輝いた。


「えー! 本当に!? じゃあお兄さんのところに行けば、結構いい暮らしができるんじゃない? その作戦、乗った!」


 興奮してルヴェンの手を握るエルミナ。そんな彼女に苦笑しつつ、ルヴェンは向かいのレッツォが沈黙していることに気づいた。


「レッツォさん……?」


 我に返ったレッツォは、「移動手段を考えていた」とだけ言い、考えをまとめたいから先に部屋へ戻るよう二人を促した。



 楽しげな会話を交わしながら二人が去った後、レッツォは食堂の隅にある古びたピアノに目を止めた。

 彼は宿の亭主に、誰か弾ける者はいないかと尋ねた。

 亭主に呼ばれ、先ほどの給仕の娘がピアノの前に座る。


 レッツォは主人にチップを渡し、一本の太い葉巻を受け取った。聖職者としての立場からすれば憚られる行為だ。が、彼は首から下がる十字架をポケットに仕舞い火をつけた。


 香ばしい煙が立ち上がり、彼の肺を満たしていく。


 食堂に、艶やかでどこか哀愁を帯びた旋律が流れ始めた。娘の歌声は低く、微かな掠れ具合が曲に深い情緒を与えていた。


 『潮騒のブルース』という曲らしい、どうやらこのアダーの夜の定番曲のようだ。


 その場に居る他の客達も「お、潮騒か」や、「夜は潮騒だな」と杯を進めていた。


 レッツォは椅子の背もたれに深く身を預け、目を閉じた。


 ピアノの音色、歌声、葉巻の爆ぜる音。キッチンの奥で食器を洗う音。それら全てが入り混じり、静かに流れていく。


 演奏が終わる頃、レッツォは誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。


「やはりビルデンに行くのか……。運命とは残酷だな。分かっていても進んでしまう、恐ろしい輪廻だ」


 そしてゆっくりと瞳を開け、虚空を見つめた。


「……だが、それでいい。さあ、ちょっと『彼等』の所にも顔を出そうか……」


 彼はピアノを弾いた娘に軽く会釈すると、葉巻を灰皿に押し付け、外套を羽織り宿を出て行った。



 その夜、レッツォが宿に戻ってくることはなかった。


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