第五十三小節:〜HIS SAD LOVE〜
――時は暫し、遡る。
場所はアダーの宿屋。太陽が天高く昇り、世界が活気づき始めた頃だ。
木製の扉がきしむ音と、廊下をゆく小刻みな足音。まどろみの淵でそれらを聞いたルヴェンは、隣で響くレッツォの豪快ないびきに苦笑し、再び重い瞼を閉じて深い眠りへと沈んでいった。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
彼の脳裏に、あの重厚な黒竜の声が響き渡る。
「ルヴェン、起きておるか。少し話しておきたいことがある」
ハッとして目を開けると、そこは宿の部屋ではなかった。
漆黒の闇の中、わずかな松明の光に照らし出された、禍々しくも懐かしい景色――ビルデン闇塚。ルヴェンはその中央、広場のような場所に横たわっていた。
「ここは……闇塚!? どうして僕がここに……」
飛び起きたルヴェンの視線の先、黒い霧が渦巻く闇の奥から、圧倒的な質量を持った「気配」が立ち昇る。
「誰だい! そこにいるのは!」
ルヴェンの額に、焦燥の汗がにじむ。
「もう分かっておろう。ワシじゃ。黒竜じゃ」
言葉と共に、霧の深淵から爛々と輝く紅い瞳が浮かび上がった。
「あなたが……」
ルヴェンは気圧され、思わず後ずさる。
「何を恐れる。ワシとお前は一心同体。今更怯えてどうする」
腹の底を震わせる低音。だが、その響きには不思議と慈愛に似た響きが混じっていた。
夢か現か。境界の曖昧な空間で、ルヴェンは黒竜の次なる言葉を待つ。
彼の身体を黒い霧が優しく包み込み、気づけば左手のグローブも消え去っていた。湿った苔の匂いの中、黒竜は静かに語りかける。
「ルヴェンよ。ワシはお前に憑依したことを後悔してはおらぬ。……むしろ、喜んでおる」
その声は、どこか楽しげですらあった。
「初めはワシの力を持て余すだけの小僧と思っておったが……まさか、アイシェルに再会できるとは夢にも思っておらなんだわい」
「アイシェル……?」
ルヴェンは首を傾げた。聞き覚えのない名に、眉をひそめる。
「そんな人、知らないよ。会ったこともない」
「それはそうじゃ。本人は遥か昔に果てておるからの……。ほれ、ワシと出会い、契約を交わしたあの日を思い出してみぃ。お前の目の前で切り裂かれたあの娘が、アイシェルじゃ」
遠い記憶の扉が開く。あの日、闇塚で見た「傷」のような幻覚。
竜の姿となった自分を介抱してくれた、あの慈悲深い女性。そして、巨大な剣を携えた男の手によって、無残に散った彼女の最期――。
「あ……あの人が、アイシェル……」
記憶が結びついたルヴェンの周囲で、黒竜は霧を渦巻かせながら語り継ぐ。
「その通り。……かつて神竜であったワシらは、人間たちの迫害を受け、絶滅の淵に立たされた。母体である神が死ねば、竜という種そのものが消える運命だったのじゃ」
「どうして……どうして人間はそんなことをしたの? 僕には理解できないよ」
ビルデンで平穏に育ったルヴェンには、その憎しみの連鎖が想像もできなかった。
「無理もなかろう。あの頃の人間は世界を統べるため、異分子をことごとく排除しておった。今や強国となったフェルダイが、その先導を切っておったのよ」
「……それで、竜も標的になったんだね」
震える声で聞き返すと、黒竜の声がぴたりと止まった。
闇に浮かぶ紅い瞳が、わずかに細められる。数十秒の沈黙の後、地響きのような唸り声を上げ、黒竜は再び口を開いた。
黒竜の語る歴史は、ルヴェンが学校で習った神話とはあまりにかけ離れていた。
かつて人間は、天変地異すら操る竜の力を恐れ、徹底的な殲滅を試みた。対立、共存、静観――揺れる人間たちの間で、殲滅派は全竜族の魔力の源である神竜『メガイエル』への直接攻撃を敢行した。
彼らが開発した対竜兵器の威力は凄まじく、神竜が討たれる寸前、数名の保守派の人間たちが命を賭して神竜の精神を六つに分割し、世界各地へと解き放った。
それこそが、現在各地に伝わる「色竜」の正体であった。
教科書では「大地の守護」のために分散されたと教わったが、現実は、逃走と生存のための「悲痛な分割」だったのだ。
そして話は、核心へと戻る。
分割から数年。保守派に守られた竜たちの元にも、追っ手の魔の手は伸びた。
ルヴェンが見たあの惨劇は、黒竜が最後に見た光景だった。
『ドラゴンスレイヤー』
その大剣を持つ男によって、黒竜の隠れ里は灰燼に帰した。その時、最期まで黒竜の傍にあり、心を通わせた保守派のリーダーこそが、アイシェルだった。
「それは……種族を超えた『愛』であったと、ワシは思っておる」
黒竜は精神体として生き長らえたが、彼女を守れなかった悔恨と自らの無力さに、数百年もの間、闇の中で蝕まれ続けていたのだ。
「……じゃあ、あなたはアイシェルさんのことが、今でも大好きなんだね」
あまりに直球な問いかけ。
一瞬の間の後、黒竜の声は驚くほど優しく、温かな温度を帯びた。
「そうじゃ。愛しておる。今でも……ずっと、な」
その言葉に、ルヴェンは少しだけ微笑んだ。
「それで、そのアイシェルさんは、今どこにいるの?」
「――あのエルミナという娘じゃよ」
間髪入れぬ返答に、ルヴェンの思考が凍りついた。
「え……? エルが? どういうこと?彼女はエルミナだよ?」
「体はあの娘のものだが、魂の欠片にアイシェルの輝きが宿っておる。いわば、生まれ変わりなのじゃろう」
「生まれ変わりだなんて……そんなの、急に言われても……」
ルヴェンの胸を、正体の知れない焦燥が染め上げる。
「彼女はワシの魔力にしか反応せぬようだ。お前が意識を保っておる間は、アイシェルが表に出ることはあるまい」
整理のつかない頭を抱え、ルヴェンは俯いた。
「……それで、僕にどうしろと言うの? エルとはいつか別れなきゃいけない。彼女のためにも、僕みたいな異端者と一緒にいないほうが……」
「ワシの願いは、たった一つじゃ」
黒竜が深く、重いため息をつく。
「あの娘を……アイシェルを、ビルデンの豊かな大地に返してやってはくれんか。こんな殺伐とした荒野では、彼女の魂が摩耗してしまう」
「でも、僕もエルも追われる身なんだよ! そんな簡単に戻れるわけが……今は、レッツォさんに付いていくしかないんだ」
暗闇に訴えかけるルヴェン。だが、黒竜の返答は、彼の背筋に冷たい戦慄を走らせた。
「……レッツォだと? 何者だ、それは。今はお前とアイシェル、二人きりで旅をしているのではないのか? 互いに目的を持たぬ、孤独な逃避行ではないのか?」
呼吸が止まる。
「どうして……? あんなにずっと一緒にいるのに。あの人が見えないの……?」
頭を抱え、混迷の深淵に叩き落とされるルヴェン。黒竜の言葉を信じるなら、自分たちが頼りにしている「レッツォ」という男は、一体何者だというのか。
「とにかく、その『レッツォ』とやらに注意せよ。ワシはお前たち二人以外の気配を一切感じておらん。石の息吹すら感じぬ、あまりに不自然な無……腑に落ちんのだ」
その忠告は、深く重く、ルヴェンの心に楔を打ち込んだ。
「……分かった。気をつけてみる。それに、僕だってビルデンに戻りたい。家族に会いたいんだ」
拳を握りしめ、ルヴェンは前を向いた。
「そうか……。礼を言うぞ、ルヴェン。無理を言ってすまぬ」
黒竜の紅い瞳が、かすかに揺れる。
「……我儘を言えるなら、彼女を、ワシの代わりに守り続けてはくれんかのう」
消え入りそうな、切実な願い。
「守るって……でも、エルは僕と一緒にいたら不幸になるんじゃ……」
「そう言うな。お前もワシと同じく、あの娘に心惹かれておるのだろう?」
不意を突かれ、ルヴェンの心拍が跳ね上がった。
「えっ……! いや、僕はそんなんじゃなくて……その。……確かに、ぶっきらぼうで雑なところはあるけど……可愛い、とは思う……よ?」
刹那、空間が震えるほどの笑い声が闇に響いた。
「ほぅれ見ろ! お前も男なら、惚れた娘の一人くらい、命を賭して守り抜いてみせよ! ワシも力を貸してやるわい!」
かつてないほど明るいトーン。殺意と憎悪を司るはずの黒竜とは到底思えない、快活な声だった。
「わかった、わかったから少し静かにしてよ! 頭が割れる!」
「決まりじゃな。愛しのアイシェルを頼んだぞ、ルヴェン!」
「……ああ、分かったよ! モヤモヤしてた理由が、今やっと分かった気がする。僕は……僕はエルが好きなんだ。絶対に守ってみせる!」
自らの想いを口にした瞬間、ルヴェンの視界が白く染まっていく。
遠ざかる意識の中で、黒竜が何かを叫んでいたが、彼は深い眠りの中へと落ちていった。
目を開けると、そこは夕闇に包まれた宿の一室だった。
窓からは沈みゆく夕日と、遠く灯台の光が見える。潮の香りと食堂から漂う料理の匂い。穏やかな風が、ルヴェンの頬を撫でた。
左手のグローブを確かめるように握り、彼はふと呟いた。
「僕は、エルを……」
夢の対話を思い出し、急激に顔が熱くなる。膝を抱え、にやけそうな口元を抑えた。
「そうだったんだ……」
気恥ずかしさと高揚感。そんな幸せな余韻に浸っていたルヴェンだったが、部屋の隅に異質な気配を感じて息を呑んだ。
暗がりの向こう、小さく、誰かがすすり泣く声が聞こえる。
「エ……ル?」
人影が立ち上がり、灯台の明かりに一瞬だけ照らされた。
そこにいたのは、顔を涙で濡らしたエルミナだった。
彼女はルヴェンの声を聞くと、弾かれたように駆け寄り、彼の胸へと飛び込んだ。
「ルヴェン! ルヴェン……! うわあああん!」
理由も分からぬまま、号泣する彼女。ルヴェンは何も聞かず、ただその細い肩を抱き寄せ、優しく頭を撫でた。
胸元で泣きじゃくる少女。自分よりも小さく、脆い身体。汗の匂いに混じる、髪の微かな香り。
(……君を、守る)
その決意は、もはや義務ではなく、彼自身の魂の叫びとなっていた。
「エル、大丈夫だよ。君は僕が守る。絶対に」
耳元で囁き、さらに強く抱きしめる。エルミナは返事もできず、ただ縋るように彼の服を掴んで泣き続けた。
――そこにはやはり、レッツォの姿だけが、無かった。




