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第五十二小節 ~The Old Knight and the Night Sea~



 一行がクフェルの街を出立してから、昼と夜が幾度巡っただろうか。


 道中、鬱蒼とした森を抜け、荒野を歩き、旅装の擦れる音だけが響くような静寂の時もあれば、街道を行き交う行商人の馬車とすれ違うこともあった。


 そうしてルヴェンたちは、ようやく大陸の東端、広大な海を臨む港町アダーへと辿り着いた。


 アダーは、フェルダイ帝国とキラフ共和国という二つの大国の狭間に位置する国境の町である。


 国境と言えば、物々しい警備や堅牢な城壁を想像しがちだが、この町にあるのは驚くほど簡素な境界線だった。町の中央、石畳のメインストリートを跨ぐようにして立てられた木の枠。


 ただそれだけが、ここが国境であることを示している。

 検問所らしき小屋は一応設けられているものの、兵士たちの表情は穏やかで、人々はその木の枠の下をまるで隣家へ回覧板を届けに行くような気軽さで行き来していた。

 政治的な緊張感よりも、生活の営みの方が遥かに勝っている、そんな空気が漂っている。


 町全体が、生命力に満ちた喧騒に包まれていた。

 石造りの建物が斜面に沿って立ち並び、どの家の窓からも色とりどりの洗濯物がはためいている。

 

 それらは海風を孕んで膨らみ、まるで万国旗のように町を彩っていた。


 通りには無数の露店がひしめき合っている。新鮮な魚介類を焼く香ばしい匂い、異国のスパイスの香り、鉄を打つ鍛冶屋のハンマー音、そして客引きたちの威勢の良い掛け声。

 

大道芸人がナイフを放り投げるたびに歓声が上がり、その脇を子供たちが歓声を上げて駆け抜けていく。

 少し背伸びをして視線を上げれば、建物の隙間から圧倒的な質量の「青」が飛び込んでくる。

 

 大海原だ。視界の端から端までを埋め尽くす水平線は緩やかに弧を描き、照りつける太陽が海面に無数の宝石を散りばめたように煌めかせている。潮風は湿り気を帯びているが不快ではなく、むしろ旅の埃に塗れた肌を優しく撫でるように吹き抜けていった。


 アダーに到着するや否や、ルヴェンとレッツォは限界を迎えていた。


 クフェルを発ってからの数日間、彼ら男性二人は、夜警と索敵に張り詰めた日々が続き、二人はろくに休む間もなく歩き続けていた。


 宿を取り、部屋に入った瞬間、二人は吸い込まれるようにベッドへと倒れ込んだ。朝日が昇ったばかりだというのに、数秒もしないうちに寝息と思えないほどの轟音が部屋に響き始めた。



 それから数時間が経過しただろうか。


 窓の外では太陽が天頂を過ぎ、午後特有の気怠さと陽気さが混じり合う時間帯になっていた。


「んんー……」


 寝台の上で、エルミナがゆっくりと身じろぎをした。

 深い眠りの底から意識が浮上してくる。重たい瞼を擦りながら上体を起こし、彼女は猫のように背中を反らせて伸びをした。背骨が小さく音を立て、凝り固まっていた筋肉が心地よく解れていく。


 まだ夢見心地の彼女の視界に、分厚いカーテンの隙間から漏れる鋭い光の筋が入ってきた。光の中を、微細な塵がキラキラと舞っている。


 何かに吸い寄せられるように、エルミナはベッドから降りて窓辺へと歩み寄る。重厚なカーテンを勢いよく開け放ち、木枠の窓を押し開けた。


「わぁ……!」


 途端に、圧倒的な光と音が彼女を包み込んだ。


 眼下に広がるのは、活気に満ちた港町の全貌だった。市場のざわめき、楽しげな音楽、遠くで響く汽笛。それら全てが、太陽の光と共に部屋の中へと雪崩れ込んでくるようだった。


 皆、笑っていた。誰もが楽しそうだった。その光景は、過酷な旅を続けてきたエルミナの心に、忘れかけていた「日常」の輝きを思い出させた。


 振り返ると、レッツォは地響きのような大いびきをかきながら腹を出して眠りこけ、ルヴェンは半分開いた口からだらしなく涎を垂らし、この世の春のような幸せそうな顔で熟睡している。


(二人はまだ起きそうにないね)


 エルミナは苦笑交じりに二人を見やり、そして悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 彼女は修道士のローブを軽く羽織ると、書き置きも残さずに、弾むような足取りで部屋を飛び出した。


 宿の外へ出ると、太陽の熱気が肌を打ち据えた。けれどそれは不快な熱さではなく、心を高揚させる情熱的な熱さだった。


「すごい! 楽しそうー!」


 独り言のように呟き、エルミナは人混みの中へと飛び込んでいった。


 石畳の坂道を下っていくと、広場の一角から軽快なリズムが聞こえてきた。フルート、リュート、そして太鼓。小さな楽団が、この地方特有のアップテンポな民謡を奏でている。


 その旋律に身体が勝手に反応した。

 エルミナは人だかりの輪に入ると、リズムに合わせてステップを踏み出した。最初は小さく、やがて大胆に。


 楽団のメンバーたちも、飛び入り参加した若い修道女の存在に気づいたようだ。太鼓を叩く男がニカっと笑い、彼女の動きに合わせてリズムを刻み始める。リュートの音色がより激しく、情熱的に掻き鳴らされる。


 エルミナの踊りは、決して洗練されたプロのものではなかった。しかし、その動きには天性の愛嬌と、溢れんばかりの生命力が宿っていた。


 太陽に照らされた彼女の肌には玉のような汗が浮かび、光を乱反射させて真珠のように輝いている。

 旋回するたびにローブの裾が翻り、神聖な装束の下から健康的な脚線美と下着がちらほらと見え隠れする。それは背徳的というよりも、健康的な美しさを伴った魅力的な踊り子の姿だった。


 通りを歩く人々が足を止め、店番をしていた商人たちが身を乗り出す。誰もがエルミナの笑顔と踊りに魅了され、自然と手拍子が巻き起こった。


 パパン、パパン、と乾いた音が広場に響き渡り、音楽と一体化していく。

 やがて曲がクライマックスを迎え、ジャン! という音と共に演奏が終わると、エルミナは大きく片手を空に突き上げ、呼吸を弾ませながらフィニッシュのポーズを決めた。


 一瞬の静寂の後、広場は割れんばかりの拍手と喝采に包まれた。


「いいぞお姉ちゃん!」

「素晴らしい踊りだったよ!」


 口笛が飛び交い、楽団の足元に置かれた空き箱には、観客からの「おひねり」である硬貨がチャリンチャリンと雨のように投げ込まれていく。


 団長らしき髭の中年男が、驚きと感謝の表情でエルミナに歩み寄り、集まった小銭の一部を差し出そうとした。


「嬢ちゃん、あんたのおかげで大盛況だ。こいつはあんたの取り分だ」


 しかしエルミナは、満面の笑みで首を横に振った。


「ううん、いいの! とっても楽しかったから、それが報酬!」


 彼女は汗を拭いながらそう言い残すと、名残惜しそうにする楽団員や観客たちに手を振り、軽やかにその場を走り去った。


「あー、楽しかった」


 広場の喧騒を抜け、エルミナは海岸沿いへとやってきた。


 そこには長く突き出た石造りの堤防があり、釣り人たちが糸を垂らしている。彼女は人の少ない突端近くまで歩き、堤防の縁に腰を下ろした。


 目の前には、ただただ青い海が広がっている。

 空の青と海の青が溶け合う水平線を眺めながら、エルミナは大きく息を吸い込んだ。

 潮の香りが胸いっぱいに広がる。頭上では数羽の海鳥が旋回し、キィキィと高い鳴き声を上げながら風に乗って遊んでいるようだった。


「あ! さっきのお姉ちゃんだ!」


 波音と風の音に身を委ねていたエルミナの背後から、不意に幼い声が掛かった。


 驚いて振り返ると、そこには七歳くらいの少年が立っていた。

 安っぽい竹の釣竿を片手に、エルミナを指差している。ボサボサの金髪は潮風に吹かれて爆発したようになっており、日焼けした小麦色の肌に、無邪気さをそのまま形にしたようなグリーンの瞳が輝いている。


 服装は貧しかった。薄汚れて黄ばんだ白い半袖シャツに、継ぎ接ぎだらけの茶色の半ズボン。足元は裸足で、あちこちに擦り傷を作っている。けれど、その表情には微塵の陰りもない。


「はは、見てたのか。恥ずかしいな……」


 エルミナは頬を赤らめ、苦笑いを浮かべながら頭をポリポリと掻いた。先ほどの熱狂から覚めると、衆人環視の中で踊り狂っていた自分が急に気恥ずかしくなる。


 小さく舌を出してはにかむと、少年は遠慮する様子もなくエルミナのすぐ隣にどすんと腰掛けた。そして、キラキラとした瞳で下から彼女を見上げてきた。


「お姉ちゃん、すっごい綺麗だったよ! 俺、見ててすごいドキドキしたよ! 本当だよ!」


 少年は興奮気味に身を乗り出し、両手でエルミナのローブの袖を掴んで力説する。その純粋な称賛に、エルミナの表情が和らぐ。


「ありがとう、ボク。ふふ、可愛いわね。ねぇ、名前教えて? お姉ちゃんはエルミナっていうんだ」


 少年の柔らかい髪を軽く撫でて問いかけると、彼は突然すっくと立ち上がり、両手を腰に当てて胸を張った。


「俺はフィリップ! 皆はフィルって呼ぶけどね! こう見えても由緒正しきフェルダイの騎士の血筋なんだぞ!? 将来はでっかいドラゴンを倒す英雄になる男さ!」


 鼻の穴を膨らませて自慢げに語るフィリップ。その姿があまりに微笑ましく、エルミナが「へぇ、すごい」と相槌を打とうとした、その瞬間だった。


 ゴッ、という鈍い音。


「うごっ!?」


 カエルの潰れたような声を上げ、フィリップの身体が物理法則を無視するかのように海老反りになった。そのまま白目を剥いて、ブリッジの体勢で石畳に崩れ落ちる。


 何が起きたのか理解できず、頭の上に疑問符を浮かべていたエルミナの視界に、新たな人影が現れた。

 エルミナと同じような年恰好の少女が、鬼のような形相で仁王立ちしていたのだ。手には拳骨が握られている。


「まぁーったく!! またこんな所で油売ってるよお前は! 晩御飯の魚を獲って来るんじゃなかったの!? お爺ちゃんが腰を痛めながら働いてくれてるんだから、食事を用意するのは私達の役目でしょ!」


 辺りの空気を震わせるほどの怒号だった。海鳥たちが驚いて飛び立つほどだ。


 少女の身長は140センチ前後。無造作に切り揃えられた金髪は耳の下あたりで揺れ、弟と同じ鋭い緑の瞳は今、怒りの炎で燃え上がっている。

 彼女もまた、すす切れた茶色のワンピース一枚という質素な身なりで、足元には明らかに古布を編んで作った手製のサンダルを履いていた。


 いきなりのバイオレンスな展開に、エルミナは目をパチクリさせて呆然としている。すると、弟を一撃で沈めた少女は、打って変わって花が咲いたような微笑みをエルミナに向けた。


「あ、ゴメンね! この馬鹿弟が失礼なこと言わなかった? すぐ調子に乗るから」


「あ、えっと……大丈夫。フィル君はあなたの弟なんだ?」


 そのギャップに戸惑いつつも、エルミナも笑顔で返す。

 後頭部を強打して身悶えていたフィリップだったが、驚異的な回復力で飛び起きると、涙目で抗議の声を上げた。


「いてーな姉ちゃん! 頭割れるじゃんかよ! 何すんだよ!」


 フィリップは姉の背中に飛びつき、ポカポカと拳で殴るが、少女にとっては痛くも痒くもないようだ。彼女は慣れた手つきで弟を羽交い締めにし、グリグリとこめかみを拳で締め上げるという反撃の一手を加えた。


「口答えしない! 釣れるまで帰さないからね!」

「ぎゃー! ごめんなさいー!」


 一通りの姉弟喧嘩が終わると、少女は乱れた服を直してエルミナに向き直った。

「お見苦しいところを見せてごめんね。私はレーネ、レーネ=ファウリー。レンって呼んでいいよ! 修道士さんは?」


 彼女はエルミナのローブを見て、その立場を察したようだ。しっかりとした口調は、苦労と責任感を滲ませている。


「エルミナよ。エルでいいわ、レン」


 エルミナが手を差し出すと、レーネは硬い掌でしっかりと握り返してきた。

 それから三人で並んで海を見ながら、他愛のない会話を楽しんだ。


 話を聞くと、どうやらこの姉弟は両親がおらず、祖父と三入で暮らしているらしい。唯一の稼ぎ手である祖父が関所の清掃や荷運びの仕事をしている間、こうして食糧調達に来ているのだという。


「じっちゃんは凄いんだぞ。昔は強い騎士様だったんだから!」


 フィリップが自慢げに言うが、レーネは「はいはい」と聞き流し、釣り糸を垂らすよう促す。


 エルミナとレーネの間で竿を握るフィリップは、まだ一匹も釣れていないのに、呑気に口笛を吹いている。そのメロディーは先ほどエルミナが踊っていた曲だった。

 エルミナは彼らの貧しさを感じ取っていたが、それ以上に、二人から溢れる家族への愛情と逞しさに心を打たれていた。


 そんな穏やかな時間が流れ、太陽が西の空へと傾き出し、海面がオレンジ色に染まり始めた頃だった。

 背後から、潮風に擦れたような嗄れた声が聞こえた。


「おおーい、レン、フィル。釣れておるかー?」


 その声に、誰よりも早く反応したのはフィリップだった。


「じっちゃんだ! おかえりー!」


 彼は釣り竿を放り投げ、エルミナとレーネの横を全速力で駆け抜けていった。


「もう、竿を放置しないの!」とレーネが呆れた声を上げる。


 エルミナも「お爺さんが来たんだ」と微笑みながら、ゆっくりと後ろを振り返った。



 しかし。

 その目に映った人物を認識した瞬間、エルミナの心臓が早鐘を打ち、全身の血が凍りついたかのように冷たくなった。


 堤防の入り口から、フィリップに抱きつかれながら歩いてくる白髪の老人。


 彼は、色褪せた紅いマントを羽織り、首元には蒼いマフラーを巻いていた。


 そして何より、その老いた背中には、不釣り合いなほど巨大な金色の弓が背負われていたのだ。


(嘘……でしょ……?)


 その配色は、その装備は。


 エルミナの脳裏に、忌まわしい記憶がフラッシュバックする。

 崩れ落ちる家、血の匂い、両親の絶叫。そして、その中に立っていた「彼ら」の姿。


「ドラゴン……バスター……? 嘘……こんな所で!?」


 エルミナの口から、乾いた言葉が漏れ出した。

 笑顔は消え失せ、額からは冷や汗が噴き出る。呼吸が浅くなる。指先が微かに震える。


 竜討騎士。


 それはかつて、正義の名の下に「竜」に関わる全てを排除し、エルミナの両親を殺害した組織の象徴だった。


 そんなエルミナの動揺など露知らず、老人は痩せ細った顔をくしゃくしゃにして満面の笑みを浮かべ、愛しい孫たちに手を振りながらゆっくりと歩み寄ってくる。


「どうしたのエル? 顔色が悪いよ?」


 エルミナの急激な変化に気づいたレーネが、心配そうに顔を覗き込み、氷のように冷たくなった彼女の手を握った。その温もりに、エルミナはハッと我に返る。


 目の前にいるのは、憎き敵の一員。しかし同時に、この愛らしい姉弟のたった一人の肉親でもある。


 ここで取り乱してはいけない。子供たちを怖がらせてはいけない。


 エルミナは奥歯を噛み締め、必死に感情を押し殺した。顔に仮面を貼り付けるように、強引に作り笑いを浮かべる。


「ううん、なんでもないの。こんにちは、お爺さん。初めまして」


 ようやく堤防の突端まで辿り着いた老人は、エルミナの存在に気づくと、穏やかな、本当に穏やかな声で語りかけてきた。


「おや、こんにちわ、お嬢ちゃん。かわいい修道士さんじゃのぉ。こんな年寄りの相手をしてくれて、ご苦労様なこってすじゃい」


 近くで見ると、老人の身体は随分と小さく見えた。元々は長身だったのだろうが、今は背中が丸まり、エルミナやレーネと同じくらいの目線になっている。


 年齢は八十代後半だろうか。髪は薄い白髪で、皮膚が垂れ下がった瞼の奥に、かつての鋭さを失った、凪いだ海のようなグリーンの瞳が見える。身体つきは枯れ木のようで、杖に頼らなければ立っているのもやっとに見える。


 彼は「よっこいしょ」と声を漏らしながら、エルミナとレーネの間に腰を下ろした。


「ウチの孫が世話になりましたのぉ。お嬢ちゃんは修行のためにこの港町に寄りなすったんかい?」


 喉の奥で痰が絡んだような、かすれた声。

 エルミナの心境は嵐のように荒れ狂っていた。隣に座っている老人は、両親の仇である組織の人間。

 しかも、その背に括り付けられた金色の巨大な弓には、紛れもなく竜を殺すための魔導機関――闘動機が組み込まれている。本物だ。


 彼女がその武器を、憎悪と恐怖の入り混じった視線で凝視していると、老人はその視線に気づいたのか、愛おしそうに弓を撫でて口を開いた。


「ワシはガズリュイと言うんじゃ。……コイツが気になるかね? これはワシと戦乱の世を共に生きた愛弓での。今ではもう、コイツを引くほどの力も、闘気も練れんがね」


 ガズリュイは寂しげに、弓に刻まれた無数の傷の一つ一つを指でなぞった。それはまるで、古い戦友の肩を抱くような仕草だった。そして再び笑顔を作り、エルミナを見つめた。


「今じゃ関所の掃除の爺ちゃんだけどね!」


 フィリップが横から口を挟む。無邪気なその言葉が、今のガズリュイの現状を如実に物語っていた。

 エルミナは複雑な表情でガズリュイを見る。


(この人は……私の敵なの? それとも……)


 思考が定まらない中、レーネの雷が再び落ちた。


「こらフィル! お爺ちゃんの話の腰を折らない! 無駄口叩いてないでさっさと釣る!」


 レーネは堤防から飛び降り、フィリップの尻を蹴り上げる。


「うわっ! やめろよ姉ちゃん!」


 しばらくの間、姉弟の賑やかな声が響き渡った。

 やがて、太陽が水平線に沈みかけ、空と海が燃えるような茜色に染まる刻。


「修道士のお嬢ちゃんや、聞いてはくれんか……」


 子供たちが少し離れた場所で貝を探し始めた時、ガズリュイがポツリと、独り言のように話し掛けてきた。


 その声のトーンは、先ほどまでの好々爺のものとは違っていた。深く、重く、懺悔を含んだ響きがあった。

 ガズリュイは神妙な顔つきで海を見つめていたが、急に優しい顔を取り戻し、遠くの孫たちに声を掛けた。


「レン、フィル! もうすぐ夕飯の時間じゃぞい? そろそろ用意をせんでええんかの?」


 その声に、二人は顔を上げる。


「あ、ほんとだ! わかったよじっちゃん! 今日のご飯当番は俺だからね! 用意して待ってるから早く帰ってきてね!」


 フィリップが元気に答える。


「ほら行くよフィル!」


 レーネは弟の耳を掴み、引きずるようにして帰路についた。

 遠ざかる背中から、フィリップの声が風に乗って届く。


「エル姉ちゃん! またどこかで会おうね! 俺、姉ちゃんに惚れたぜー!」


 その言葉に、エルミナは反射的に苦笑いを浮かべ、手を振り返した。


「もっとカッコいい男になったら迎えに来てね! フィル君!」


 二人の姿が見えなくなるまで見送ると、エルミナの表情からスッと温度が消えた。


 彼女はゆっくりとガズリュイの方に向き直り、鋭い刃物のような視線を突き刺した。


「……で、話ってなんですか? バスターさん?」


 その声は低く、冷たく、拒絶の色を含んでいた。


 ガズリュイは俯いたまま、しばらく動かなかったが、やがてゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は、夕日のせいだけではなく、微かに潤んでいるように見えた。


「実はの、修道士さんや。ワシはこの格好をしてはおるが、もう竜討騎士ではないんじゃよ。当の昔に軍は退役しとっての、この衣装も弓も、部下たちからの餞別じゃ」


 言い訳めいた言葉だった。


 それがどうしたと言うのだ。エルミナの胸の内で、どす黒い感情が鎌首をもたげる。

 

 現役だろうが退役だろうが、彼が「そちら側」の人間であり、多くの命を奪ってきた事実は変わらない。


「ふぅん。でも随分と貧乏そうですよねー? 過去の栄光にすがって遊び呆けたんですか? それとも、人を殺して稼いだお金は、すぐに消えてしまうものなんですか?」


 挑発的で、残酷な言葉を投げつける。相手を傷つけたいという衝動が抑えきれない。


「……その通りじゃ。ワシ等が貧乏なのは理由が在るんじゃよ。少し、聞いてはくれんか?」


 ガズリュイは怒ることもなく、ただ悲しげに肯定した。その枯れ木のような弱々しさが、エルミナの攻撃性を空回りさせる。


 聞きたくなどなかった。けれど、彼の涙を溜めた瞳から目を逸らすことができなかった。


 ガズリュイは語り始めた。

 かつては一流の竜討騎士として名を馳せ、数々の竜を討ち取ってきたこと。

 しかしある日、ビルデンでの激しい戦争で、彼の跡継ぎであった息子夫婦――フィリップとレーネの両親を失ったこと。


 残された孫たちを引き取ったが、レーネが先天性の重い心臓病を患っていると判明したこと。

 特殊な薬が無ければ、彼女は数年も生きられない。


 彼は年齢と孫たちの生活を考慮し、フェルダイ軍を退役した。

 そして、全ての財産、土地、名誉、地位さえも投げ売り、その全てをレーネの薬代に充てたのだという。


「……そういうこと、だったの」


 話を聞くうちに、エルミナの心の中にあった単純な憎悪が揺らぎ始めた。

 彼もまた、家族を奪われた被害者なのかもしれない。


「で? レンの薬ってまだ買えるほどお金あるの……?」


 問いかけると、ガズリュイは力なく首を振った。


「恥ずかしいことじゃが、もう一年分しかないんじゃ……。今のワシの稼ぎでは、日々のパンを買うのがやっとでな」


 二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。

 夕日は完全に水平線の向こうへと姿を消し、空には一番星が輝き始めていた。海面は茜色から深い群青色へ、そして黒へと色を変えていく。町の明かりが一つ、また一つと灯り始める。


 平和な夜景とは裏腹に、ここにあるのは逃れようのない現実の重みだった。


 ガズリュイが、意を決したように言葉を紡いだ。


「そこで、頼みがあるんじゃ。……ワシが死んだら、あの子達を教会のお世話にさせてはくれんかね……?」


「え……?」


「教会ならば、フェルダイやキラフ、ビルデンの有力者の信者がいるはずじゃ。その人達に慈悲を乞い、レンの薬代を何とか工面してはもらえんかの……? ワシのような血塗られた古兵には無理でも、神に仕えるお前さんなら……」


 その言葉を聞いた瞬間。

 エルミナの中で、何かが音を立てて切れた。


 同情? 憐憫? そんなものは一瞬で消し飛んだ。

 代わりに湧き上がったのは、灼熱のような怒りだった。


 拳を強く握りしめすぎて、爪が皮膚に食い込む。肩が震える。呼吸が荒くなる。


「ど……、どうしたんじゃ? 夜風に当たって体が冷えたのかい?」


 ガズリュイが心配そうに手を伸ばそうとした時だった。


「か……え……してよ……」


 うめき声のような低い音が、エルミナの喉から漏れた。


「お嬢ちゃん?」


 不思議に思った彼が顔を覗き込むと、エルミナは目を固く閉じ、歯を砕けんばかりに食いしばっていた。その頬を、大粒の涙が滝のように伝い落ちている。


 次の瞬間。


 ギリリ、という歯ぎしりの音と共に、彼女の感情が爆発した。


「調子の良いこと言ってんじゃないわよ!!」


 エルミナの絶叫が、夜の港に響き渡った。

 彼女はガズリュイの胸に飛び込み、その枯れた身体を両の拳で力任せに殴りつけた。


 ドンッ、ドンッ、と鈍い音が響く。


「私に何か頼むんだったら!! あんた達が殺したお父さんとお母さんを返してよ!! 私のいつもの生活を返してよ!!」


 涙で視界が歪む中、彼女は叫び続けた。



 理不尽だ。あまりにも理不尽だ。



 自分たちの幸せを奪い、両親を殺し、孤独の淵に追いやった組織の人間が、今、自分の家族のために助けを求めている。


 「神の慈悲」だと?

 私が赦しを乞うた時、あなたたちは剣を下ろしてくれたか?

 私が泣き叫んだ時、あなたたちは助けてくれたか?


 否、『任務』として、『作業』として、その胸に誇らしげに付いている薄汚い『討伐勲章』などと言うガラクタの為に、その剣を振るったではないか。


 虫けらを踏み潰すかの如く、『小さな幸せ』を踏み躙ったではないか。


「返してよぉ……うあぁぁあぁ!!」


 エルミナは大声で泣き叫び、拳を振り下ろし続けた。


 しかし、ガズリュイは抵抗しなかった。避けることもしなかった。

 ただ、悲痛な表情で、暴れるエルミナを受け止めた。



 彼にはわかっていたのだ。

 自らが犯した罪の重さが。正義の名の下に行使してきた殺戮が、どれほどの悲しみを生んできたのかが。


 目の前で泣き叫ぶ少女は、かつて自分が、自分たちが「排除」してきた人々の象徴であり、忘れ形見だった。


「すまない……すまない……」


 ガズリュイは、震える手でエルミナの頭を優しく撫で、何度も何度も謝罪の言葉を繰り返した。


「ワシが悪かった……許してくれとは言わん……すまない……」


 その声もまた、涙に濡れていた。

 エルミナはしばらくの間、彼の胸で嗚咽を漏らしていたが、やがて乱暴に彼を突き放した。


 目を真っ赤に腫らし、肩で息をしながら、彼を睨みつける。


 これ以上、ここにいてはいけない。


 彼女は踵を返すと、逃げるようにその場から走り去った。


 ……後に残されたのは、夜の静寂だけだった。

 町の広場にある時計塔から、夜の刻を告げる鐘の音が、皮肉なほど優しく響いてくる。ゴーン、ゴーンと、波音に溶けていく。


 一人残されたガズリュイは、星空を見上げて涙を流していた。

 星は綺麗だ。けれど、その光はあまりにも遠く、冷たい。


「悪いことをしたのぉ、お嬢ちゃんや……」


 彼は独りごちる。


「ワシの過去の償いは……孫達の未来を失ってしまう事なのかのぉ……?」


 罪のない孫たち。

 あの子たちには何の罪もない。なのに、自分の「業」が、あの子たちの生きる道さえも閉ざそうとしている。


 かつて自分が奪った誰かの未来が、今、自分の最も愛する者たちの未来と引き換えに奪われようとしている。

 しばらくの間、目を閉じて潮騒を聞いていたガズリュイだったが、突如として感情を露わにした。


 背中から巨大な金色の弓を引き抜くと、野獣のような唸り声を上げ、それを激しく石畳に叩き付けた。


 ガガンッ!と、鈍く、重い金属音が夜の闇に響く。かつての栄光の象徴が、無残な音を立てて転がった。


「ワシ等は……何の為に竜を狩り続けたんじゃ!!」


 彼は天に向かって吼えた。


「国のためか!? 地位か!? 名誉か!? そんな物は何の役にも立たなかった!! クソ食らえじゃ!!」


 膝から崩れ落ち、冷たい石畳に手をつく。


「ワシは……あの子達の未来が欲しいだけなんじゃぁ……!」


 老いた元竜討騎士は、両手で顔を覆い、地面にうずくまって、子供のように声を上げて泣き続けた。


 その背中はあまりにも小さく、孤独だった。



 深く青い夜の海は、ただ黙って寄せては返し、老人の絶望を飲み込んでいった。

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