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第五十一小節 ~聖者と……懺悔と……~



 白目を剥いて卒倒したレッツォを、ルヴェンとバルバルが慌てて抱え上げ、教会へと運び込んだ。

 聖職者にあるまじきだらしない姿でベッドに横たわる恩人を見届け、ルヴェンとエルミナは顔を見合わせた。


 この日は不測の事態により、予定していた買い物は中止となった。二人は人形遣いたちの夕方の公演を心ゆくまで堪能し、各々の部屋で眠りについた。


 街全体が深い眠りに沈み、冷たい夜風と遠くで響く犬の遠吠えが入り混じる頃。


 ルヴェンはふと意識を浮上させた。窓から差し込む青白い月明かりが、部屋の天井を淡く照らしている。


「……レッツォさん、大丈夫かな。明日、ちゃんと聞いてみよう」


 独り言が静寂に溶ける。二度寝をしようと寝返りを打った彼の耳に、どこからか繊細なリュートの調べが届いた。


 その旋律は、ルヴェンの魂の奥底にある記憶の扉を叩いた。

 彼は何かに誘われるようにベッドを抜け出し、薄手のシャツの上に純白の修道服を羽織ると、教会の裏手へと向かった。


 夜の教会。揺れるランプの炎が、石造りの壁に長い影を落としている。


 歩を進めると、教会の裏を流れる小川の岸辺に人影が見えた。近づくにつれ、その人物が奏でるメロディーと、掠れた歌声がはっきりと聞こえてきた。


「この音楽……」


 ルヴェンは立ち止まり、瞳を閉じて記憶の糸を辿る。


 数分の後、彼は一つの光景を思い出した。それは、体が弱く、ルヴェンら三兄弟を産んですぐに世を去った母親の、数少ない元気な日の姿だった。


「……お母様が、体調の良い日に口ずさんでいた曲だ」


 懐かしさと切なさが胸を締め付ける。歌声の主は、やはりレッツォだった。彼はリュートを爪弾きながら、嗚咽を堪えるような震える声で歌い続けていた。


「どこまで行こう? 君の為に。

 闇に堕ちし体、取り戻す日まで。


 どこまでも行こう、君の為に。

 分かち合った愛の宝石求め。


 どこまで行っても、君の為に。

 罪を背負い生きる、我が身滅ぶまで。


 いつか無くした思い出は、君が与えてくれ        

 るのだろうか。」



 レッツォの歌は次第に崩れていった。頬を伝う涙が弦を濡らし、音階はバラバラになり、リズムも遅れていく。



「レッツォさん……」



 ルヴェンが小さく声を掛けると、レッツォはビクッと肩を揺らし、慌てて袖で顔を拭った。



「や、やあルヴェン君。……起きていたのかい?」



 振り返った彼の顔には、いつもの無理に作ったような笑顔が張り付いていたが、その瞳は赤く腫れていた。


「大丈夫ですか? 昼間はあんなことになって……」


「はは、心配をかけたね。申し訳ない。少し、古傷に触れるようなことを思い出して取り乱してしまったんだ」


 レッツォはリュートをルヴェンに手渡すと、夜空を見上げた。小川のせせらぎが、沈黙を埋めるように響く。ルヴェンはどうしても抑えきれない疑問を口にした。


「レッツォさん。さっきの歌……僕、知っているんです。亡くなった母がよく歌っていたから。この曲は一体……?」


 レッツォは一呼吸置き、静かに口を開いた。


「……『風のセレナーデ』。遠い、遠い昔の音楽だよ。今では歌詞も曖昧で、私は勝手に替え歌にして歌っているけれどね。……もっとも、この歌の本当の形を知る者は、もう『私たち』しかいないはずだが……」


 謎めいた言葉に、ルヴェンは言葉を失った。レッツォはルヴェンの肩を優しく叩き、「今はまだ、気にしなくていい。さあ、もう一度眠りなさい」と彼を促した。


 眠気に抗えずフラフラと教会へ戻るルヴェンを見送った後、一人残されたレッツォを肌寒い風が包む。


「さて……昼間の件、謝りに行こうか」


 彼は深く溜息を吐き、乱れたローブを整え、意を決して夜の街へと歩き出した。


 満天の星空の下、レッツォは中央公園へと足を運ぶ。

 夜の公園を照らすガス灯の光は、空の星々と競い合うように神秘的な輝きを放っている。歩きながらレッツォは懐の内ポケットから小さな紙袋を取り出した。


 何かを小さく呟き、彼が取り出したのは、一本の銀の指輪リングだった。それを薬指にはめると、彼は強く拳を握り締め、公園の隅に張られた人形遣いの一座のテントを見つめた。


 テントの中からは、陽気な宴の音色と、数人の話し声が漏れ聞こえてくる。レッツォは一度瞳を閉じ、肩の力を抜いて、その幕をゆっくりと捲った。


 中ではランプの灯りの下、六人の男女が打ち上げの真っ最中だった。酒と葉巻の匂いが混じり合う中、突然の来客に一座の動きが止まる。


「え……牧師さん?」


 驚きの声を上げたのはバルバルだ。肩にいたテースも、レッツォの足元を見て「あ、昼間の怖い人だ!」と後頭部に隠れる。


「おや、おや……。聖職者様が、こんな薄汚い旅の一座に何の御用ですかな?」


 テントの奥から、ひしゃがれた老婆の声が響いた。

 一座の座長と思われるその老婆は、九十歳は超えているであろう深い皺の刻まれた顔をしていた。背は丸まり、指先は枯れ木のようだが、その瞳だけは深い知恵を湛えて澄んでいる。


 レッツォは真っ直ぐに老婆の前まで歩み寄り、その場で膝をついた。そして、彼女の右手に親愛の口付けを捧げた。


「これはこれは……。こんな枯れ果てた老婆にまで愛を分け与えてくださるとは」


「……座長殿。私はアルカスル教の牧師、レッツォ=アルベジーニと申します。今宵は、皆さんにどうしてもお詫びしたきことがあり、無作法を承知で参りました」


 深々と頭を下げるレッツォに、一座の面々は困惑した表情を浮かべる。

 老婆は小さな椅子に座り直し、レッツォを見据えた。


「昼間の無礼をお許しください。私は……」


 一呼吸、沈黙が支配した。


「……私の妻は、あなた方と同じ、人形遣いでした」


 その告白に、一座に衝撃が走った。通常、人形遣いは血筋の保持と能力の秘匿のため、同族以外と契りを結ぶことは万に一つもないからだ。


 しかし、レッツォの左手の薬指で光るリングを見つめる老婆だけは、穏やかな表情を崩さなかった。


「……なぜ、そんな牧師様が、我々に詫びる必要があるのです?」


 レッツォは立ち上がり、拳を血が滲むほど握りしめて言い放った。その声は震え、瞳からは熱い涙が溢れ出していた。


「……かつて、私はあなた方の一族に命を救われました。余所者であった私を家族として迎え入れ、剣しか持たぬ私に、愛する妻を授けてくださった。さらには、能力を持たぬ私を、一族の行く末を託す者にまで選んでくださったのに……!!」


 レッツォの叫びは、夜の帳を裂くような絶望に満ちていた。


「私は……魔石に襲われ、息絶えていく妻を目の前で見殺しにした!! それどころか、私の過ちが、救うべき一族のすべてを歴史から消し去ってしまったんだ!! 私は……一族を滅ぼした、張本人なんだ!!!」


 言い切ると同時に、レッツォはその場に崩れ落ち、老婆の膝に縋り付いて子供のように泣きじゃくった。


 一座の若者たちは顔を見合わせた。人形遣いの本流は今も健在であり、自分たちがその生き証人だからだ。「何を言っているんだ、この男は」という困惑が流れる。


 しかし、座長の老婆だけは違った。彼女は、我が子を慈しむように、レッツォ髪を優しく撫でた。


「……いいのですよ。何も怖くはありません。辛かったでしょう。こんな枯れた胸で良ければ、気が済むまでお泣きなさい」


 老婆は、レッツォが語っているのが彼が背負った「罪」があまりに巨大で、彼の心を歪めてしまったのかを察しているようだった。


「過去に何があったかは、私にはわかりません。ですが……あなたは今、こうして神に仕え、見知らぬ少年たちのために戦っている。それは立派な償いではありませんか?」


 その言葉に、レッツォはさらに声を上げて泣き続けた。


 聖者として愛を説く男が、夜のテントで過去の亡霊に怯え、赦しを乞う。


 その悲痛な慟哭は、静まり返ったクフェルの夜空に、いつまでも重く響き渡っていた。


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