第四十九小節 ~Lullaby of A SAINT~
猛威を振るう枝葉の嵐。空気を切り裂く植物の槍。それら死の洗礼を、ルヴェンは紙一重の回避と、左手から溢れる漆黒の霧で無効化しながら突き進む。
視界の端々で、かつて人間だったものが樹木と同化した悍ましい光景が流れていく。
だが、今のルヴェンに迷いはない。
「いる! この先に、すべての元凶が!」
魔石の放つ、刺すような冷たい波動。それを明確に捉えた彼は、レッツォやエルミナにこれ以上の被害が及ぶ前に決着をつけるべく、爆発的な加速を見せた。
その速度はもはや、人間の限界を遥かに凌駕している。背後に形成された漆黒の翼を、あたかも自分の手足のように巧みに操り、複雑に絡み合う木の根や障害物を、重力を無視した軌道でヒラリとかわしていく。
やがて視界が急に開け、森の中心部にある広場のような場所に辿り着いた。
「これは……」
ルヴェンは思わず足を止めた。
『ふん、石に魅入られれば成れの果てなどこんなものだ』
脳内に響く黒竜の声は、極めて冷静、かつ退屈そうであった。
広場の中央。そこには樹齢三百年は優に超えるであろう、禍々しく捩れた巨木が鎮座していた。
樹幹の中央には不気味な赤紫色の光を放つ大きな結晶が埋まり、その直上には、苦悶と憎悪に満ちた巨大な「人間の顔」が形作られ、ルヴェンを見下ろしている。
「ドラゴン、コロス……! ニンゲン、全テ……コロス!!」
森全体が共鳴するような、地の底から這い上がる低い声。
巨木は周囲の根や枝を一斉にうねらせ、捕食者の触手のようにルヴェンへと打ち出した。
ルヴェンは翼を羽ばたかせ、上空へと回避を試みたが、地中から音もなく突き出した根が彼の両足を強固に捕らえた。
「しまっ……!」
動きを止められた彼の全身に、蛇のようにうねる蔦が絡みつき、骨が軋むほどの力で締め上げる。
『馬鹿者! 何をしておる。貴様、爪の使い方も判らんのか!?』
「爪……!? そんなもの、どこに!」
『イメージしろ。引き裂き、喰らい尽くす、頂点の捕食者の武器を!』
黒竜の叱咤に、ルヴェンはまだ自由の利く右手に全神経を集中させた。
ルヴェンの闘気と、黒竜の禍々しい漆黒の魔力が火花を散らして溶け合う。
直後、ルヴェンの右手を包み込むように、巨大で鋭利な「漆黒の竜の掌」が実体化した。
「……そうか! これだ!!」
焦燥を勇気に塗り替え、ルヴェンは右手の爪を横一閃に振るった。
鋼鉄をも容易く断ち切る竜の爪は、絡みつく蔦を紙細工のように切り裂く。その威力は切断に留まらず、腕を振り抜いた先の地面に、深く長い四本の爪痕を刻み込んだ。
大地が激しく揺れ、衝撃波によって飛散した植物の残骸が、巨大な竜巻となってルヴェンを包み込む。
「うおおおおおおおおお!!」
魂を震わせる咆哮とともに、ルヴェンは竜巻を突き破り、魔石の核がある樹木の顔面へと真っ向から飛び込んだ。
舞い上がる塵芥に視界を奪われた魔石の主は、巨大な顔面を歪ませて叫ぶ。
「ドコダ!? ドコダァア!! ドラゴン、消エロォ!!」
母体である巨木の枝が狂ったように周囲を掃射する。枝が風を切る鋭い音が広場を埋め尽くすが、ルヴェンはその死の網を、翼を帆のように使って華麗に滑空し、すべてを紙一重でかわしていく。
『ほほう、慣れてきたではないか、小僧』
「貴方の記憶のおかげだよ……これくらいできなきゃ、パートナー失格なんでしょ? ……それから、僕はルヴェンだって言ってるだろ!」
死線を超えた戦闘の最中だというのに、彼らはそんな会話を交わしていた。
彼らにとって、この魔石はすでに「障害」にすらなり得ない。ルヴェンの口元には、不敵な、しかしどこか晴れやかな微笑が浮かんでいた。
曲芸のような滑空で距離を詰めたルヴェンは、ついに樹木の顔の真正面に到達した。
間近で見るその相貌は、ルヴェンの体格の五倍はあろうかという巨躯だ。
「ドラゴン……オマエ、ナニモノ!? ナゼ、当タラナイ!?」
困惑する魔石の叫び。それに対し、ルヴェンは短く何かを呟くと、右手の爪をさらに鋭く、長く伸長させた。
その刹那――ルヴェンの姿が消えた。
漆黒の翼を最大まで広げ、空気を爆発させて上空へと一気に舞い上がったのだ。
目標を見失い、無防備を晒す巨木。
遥か上空、雲を衝くほどの高みでルヴェンは身を翻した。空気を、あたかも硬質な足場にするかのように蹴りつけ、重力と加速を味方につけて急降下を開始する。
漆黒の流星となったルヴェンに気づいた時、魔石にできることは何もなかった。
「……終わりだッ!!」
ルヴェンは右手の爪を樹木の頂点に突き立て、落下の勢いそのままに腕を振り下ろした。
バキバキバキッ! と、森の平穏を完全に終わらせるような破壊音が響き渡る。
巨大な樹木は、中心から真っ二つに割られた。
着地したルヴェンの足元はクレーター状に陥没し、凄まじい衝撃波が大地を狂わせ、土煙を高く舞い上げる。
「ギギャアアアアァアア……ッ!!」
身の毛もよだつ断末魔の叫びが木霊し、やがて森に静寂が戻った。
沈下する砂塵の中に、ゆっくりと立ち上がるルヴェンの姿があった。
彼は轟音とともに左右へ倒れていく巨木の間を、中心部へ向かって静かに歩き出す。
割れた幹の深奥。そこには、樹液と蔦にまみれた、成人ほどの大きさのミイラ化した遺体があった。
遺体の左胸には、不気味に明滅する青紫色の結晶――魔石が、心臓の鼓動に代わって不浄な光を放っている。
ルヴェンは、戦いの余韻で痺れる右手を休ませ、左手に力を溜めた。
『中々の手際だ。……褒めてやるぞ、ルヴェン』
黒竜の言葉に、彼は満面の笑みを浮かべた。
「やっと名前を呼んでくれたね。ありがとう。……さあ、これで楽になれるよね? この人も」
『魔石は人間の心を喰らうからの。さっさと終わらせんか。ワシが力を貸せるのも、あと僅かだぞ』
ルヴェンは深く頷き、左手で魔石を鷲掴みにした。
かつて、多くの命を奪った忌まわしい左手。それが今、彼自身の正義と慈悲のために振るわれる。
「おやすみなさい。……もう、安らかに眠ってください」
力を込める。
魔石は耐えきれずガラス玉のように弾け、眩い光の粒子となって森へと霧散していった。
同時に、ルヴェンの左手には再びあの紅いグローブが現れ、黒竜の意識は深淵へと沈んでいった。
「ルヴェーーーーーン!」
背後からエルミナの叫び声が聞こえる。心配で追いかけてきたのだろう。ルヴェンは振り向き、いつもの穏やかな笑顔で大きく手を振った。
一方。
一人、森の廃村に残っていたレッツォは、静かに空を見上げた。
漂っていた邪悪な瘴気も、重苦しい空気も、すべてが嘘のように消え去っている。
「……終わったか」
彼は空中で独りでに演奏を続けていたハーモニカを手に取り、その旋律を止めた。
エルミナを守っていた黄金の結界が粒子となって消える。
「さて。こっちはこっちで、大人の仕事を片付けるとしようかね」
レッツォは再びハーモニカを唇に当てた。
奏でられるのは、先ほどまでとは違う、天上に届くかのような、清らかな聖歌の旋律。
「罪なき魂よ、天上へと還れ」
レッツォが呟くと、彼の胸にある古びた十字架が、太陽のごとき眩い光を放った。
廃村一面に、幾重にも重なる巨大な黄金の魔法陣が描き出される。
魔法陣の周囲には、弦楽器、管楽器、打楽器……実体のない霊的な楽器が次々と現れ、ハーモニカの旋律に合わせて壮大なシンフォニーを奏で始めた。
レッツォは、人間界の言葉ではない言語を用いて歌い出す。
村全体が膨大な光のオーケストラに包まれた。
崩壊した家屋から、樹木に取り込まれていた遺体から、数多の金色の光の粒が浮かび上がり、渦を巻いてレッツォの十字架へと吸い込まれていく。
そして次の瞬間、その光は一斉に天空へと向かって昇華していった。
無残な遺骸に満ちていた廃村は、みるみるうちに「ただの古い村の跡」へと姿を変えた。
死の臭いは消え、そこにはただの、静かな時間が流れている。
その光景の中、レッツォの姿は一変していた。
髪は眩い白銀に輝き、背中には純白の、鳥の羽のような翼が左右六対――計十二枚、柔らかな光を散らしながら羽ばたいている。
歌い終えると、すべての楽器と光の粒子は姿を消した。
姿も元の「牧師レッツォ」へと戻っている。
彼は、潤んだ瞳で胸の十字架を見つめ、静かに祈りの言葉を捧げていた。
背後に、戦いを終えて疲労困憊のルヴェンと、彼を支えるエルミナが現れた。
「レッツォさん……今の音楽は何……?」
エルミナが不思議そうに尋ねる。レッツォはいつもの温かな微笑みを浮かべた。
「少し、子守歌を歌っただけだよ。……お疲れ様、ルヴェン君」
何も変わらない、お調子者の牧師の背後で。
純白の羽根が一枚、ふわりと舞い落ちたことに、少年と少女は気づかなかった。




