第四十八小節 〜黒き鼓動〜
深い森での休息を終えたルヴェンたちは、次の一日を穏やかに過ごした。身を寄せ合い、焚き火を囲みながら、ルヴェンとエルミナは家族を奪われた癒えぬ悲しみをレッツォに打ち明けた。
流石は神に仕える牧師と言うべきか。レッツォの語る言葉には、凍てついた心を溶かす不思議な温もりがあった。
二人の張り詰めていた精神は、わずか一晩のうちに彼の慈愛によって救われ、絶望の底から再び歩み出すための小さな、しかし確かな火を灯した。
時間は翌日の昼過ぎ。三人は時折笑い声を上げながら、村を探して森の奥へと進んでいた。
木々の隙間から差し込む光の柱、鳥たちの囀り、遠くで鳴く獣の気配。すべてが神秘的な調和の中にあり、これまでの凄惨な出来事が夢であったかのような錯覚さえ抱かせる。
「レッツォさん、本当にこの先に村なんてあるの? どんどん暗くなってる気がするんだけど……」
エルミナが不安げに、前を歩く大きな背中に問いかける。
「ああ、多分……ね。神様の導きがあれば、どこかに辿り着くはずさ」
レッツォの返答は極めて曖昧だったが、その足取りに迷いはない。にこやかに笑う表情からは、道に迷っていることへの焦燥など微塵も感じられなかった。
「ええと、レッツォさん。本当に大丈夫なんですか? 僕も少し、空気が変わった気がして」
ルヴェンも心配そうに口を開く。しかし、彼もエルミナも、この数日でレッツォという男に対し絶対的な信頼を寄せていた。その言葉に不安はあっても、彼を疑うという選択肢はすでに二人の中にはなかった。
「なるようになる、だよ、ルヴェン君。道がなければ作ればいい。困難があれば、それを楽しみに変えてしまえばいい。それだけのことさ」
レッツォの言葉は優しく、そして鋼のような強さを秘めていた。
だが、その直後だった。
三人は、この森を包む決定的な異変に気が付いた。
否、最も早く「それ」を察知したのはレッツォだった。彼は突然足を止めると、大きく腕を広げ、背後にいた二人を遮った。
「……しっ、静かに」
その声から、先ほどまでの陽気さは消え失せていた。振り返った彼の瞳は、獲物を狙う鷹のように鋭く、冷徹な光を宿している。
ルヴェンとエルミナは息を呑み、周囲を注視した。
辺りの風景は、昼過ぎとは思えないほど重苦しく、昏い。頭上の葉は不自然に生い茂り、日光を完全に遮断している。そして何より、湿度が異常だった。
ジットリとした、腐敗と湿気の混じった空気が皮膚に張り付き、不快な汗を誘う。
「レッツォさん……なんだか急にゾクゾクする。鳥の声も、風の音も聞こえない……」
エルミナがレッツォのローブの裾を握りしめ、震える声で呟く。
「……まさか、こんな場所で『これ』に遭うとはな」
レッツォの独り言が、死んだように静まり返った空間に不気味に響く。
そこには生命の鼓動がなかった。あるのは三人の呼吸音と、暗闇の奥底から忍び寄る「異質な悪意」の気配だけだ。
ルヴェンは即座に反応した。武器はないが、騎士見習いとして培った素手戦闘の構えを取る。
「レッツォさん、何かがいます。正体は分かりませんが……妙に、左手の傷が疼くんです。内側から叩かれているみたいに」
ルヴェンの言葉にレッツォが応じようとした瞬間、エルミナの甲高い悲鳴が森を切り裂いた。
「きゃああああ!! 二人とも、上を見て!!」
彼女が震える指で指し示したのは、頭上に絡み合う巨大な樹木の枝だった。
そこには――。
樹皮と一体化した、大勢の人間の姿があった。
ある者は叫び、ある者は祈り、ある者は絶望に顔を歪ませたまま。彼らの肉体は植物の組織に侵食され、まるで奇怪な装飾品のように木々に取り込まれ、息絶えていた。
「まさか、ここは……」
レッツォが足元の土を払うと、そこには壊れた食器や、朽ち果てた農具が散らばっていた。
かつてここには小さな村があったのだ。しかし、何者かの手によって、村ごと巨大な森の餌食となり、飲み込まれたのだ。
「レッツォさん! これは何の仕業なんですか!?」
「ルヴェン君、君なら感じているはずだ。疼く左手に意識を集中させなさい。君の魂は、すでにその『正体』を知っている」
レッツォの言葉に従い、ルヴェンは深く目を閉じた。意識を左手のグローブ、その奥にある古傷へと沈めていく。
(これは……光? 違う、もっと悍ましく、どろどろとした……)
意識の闇の中で、ルヴェンは何かが脈打つのを感じた。
「レッツォさん! 何かが……奥の方で光りました!」
その瞬間、レッツォの表情が険しく一変した。
「来るぞ! 気をつけろルヴェン君!!」
怒号のような警告と同時に、森の奥から無数の木の枝が、生き物のようにうごめき出した。それは槍のような鋭利な形状に変化し、音速に近い速度で三人に襲い掛かる。
バキバキと空気を引き裂く音を立てて、鋭い枝が地面に突き刺さる。ルヴェンは本能的な身のこなしでそれを回避した。
「くっ! 植物が攻撃してくるのか!?」
枝の猛攻がルヴェンに集中している隙に、レッツォは懐から銀色のハーモニカを取り出し、一気に旋律を奏で始めた。
それはキャンプの夜に聞いた、あの神秘的なメロディー。
「エルちゃん、私のそばを離れるな!」
レッツォの言葉にエルミナは涙を浮かべて頷く。彼女は恐怖のあまり、レッツォの手から離れた楽器が独りでに空中を浮遊し、演奏を続けているという超常現象にさえ気づいていない。
十数秒の演奏を経て、エルミナの足元に黄金の魔法陣が展開された。直後、彼女を包み込むように金色の光のドーム――鉄壁の結界が出現する。
外敵の気配を察知したのか、枝の矛先が一斉にエルミナへと向かった。
しかし、結界に衝突した枝は、火花を散らして無惨に弾け飛ぶ。
「そこにいるんだ、エルちゃん! この結界は私が死なない限り破られない。安心していい!」
レッツォはそう叫ぶと、素早い身をこなしでルヴェンの隣へ躍り出た。そして彼の左手を強く掴む。
「レッツォさん! 助けてください、あの時の……あの竜の力は、どうすれば出せるんですか!?」
「落ち着け、ルヴェン君。まずは自分の中の竜に語りかけるんだ。いいか、目の前にいるのは『魔石』だ。その存在を伝えれば、竜は必ず応えてくれる!」
「魔石!? あの、世界を滅ぼすと言われている……!? なぜこんな森に……」
「奴らはどこにでも潜んでいる! 人間の負の感情がある限り、どこにでもな!」
二人の会話が荒々しくなるのと同調するように、周囲の樹木がさらに激しくのたうち回る。
その時、一本の太い根がレッツォの回避先を読み、着地点を狙って地中から突き出した。
「レッツォさん!!」
「くっ……!」
レッツォは苦悶の表情を浮かべ、ルヴェンの手を離した。空中で身を翻し、間一髪でその一撃をかわす。だが、その動作には先ほどまでの余裕が欠けていた。
彼は着地すると同時に、反射的にローブを開き、胸の前で両腕を交差させながら腰の辺り――かつて剣があったであろう場所へ手を伸ばした。しかし、指が触れたのはただの皮ベルトだった。
(私は……もう、剣を……)
一瞬の躊躇。戦士としての過去を否定しようとしたその隙を、怪物は見逃さなかった。
四方八方から巨大な枝が、無防備なレッツォに向けて収束する。
「レッツォさん! 伏せてッ!!」
ルヴェンが叫びながら全速力で駆け込んだ。彼は迷うことなくレッツォの前に立ちふさがると、自身の左手を、死の礫となって迫る枝たちに差し出した。
「お前たちが魔石だっていうなら……無理やりにでも、こいつ(黒竜)を起こしてもらうしかないんだろ!!」
「ルヴェン君! 無謀だ、やめるんだ!」
確信などなかった。ただ、命の恩人を見殺しにすることだけは、騎士の魂が許さなかった。
直撃。
無数の枝がルヴェンの左手を叩く。だが、レッツォの瞳には、衝撃が届く直前にルヴェンの手から噴き出した漆黒の霧が、すべての攻撃を飲み込む瞬間が映っていた。
そして、レッツォは小さく呟いた。
「……目覚める、か」
ルヴェンの意識は、急速に別次元へと引きずり込まれていた。
周囲の音が消え、ただ一つの「声」が、脳髄に直接響き渡る。
『……小僧。やっと、儂を纏う気になったか?』
低く、太く、世界の底から響くような地鳴りのような声。
ルヴェンは意識の中で、その巨大な影に向けて叫び返した。
「あんたが僕の身体で酷いことをさせたのは知ってる! でも、今はあんたの力が必要なんだ。僕の言うことを聞け、黒竜!!」
『ほほう、以前よりは威勢が良くなった。ワシとしても、小僧を操り人形にするのは魔力の燃費が悪くての。それに……目の前の「小石」が鼻につく。ワシの記憶を読め。戦い方を刻め。あのような雑魚、ワシの鱗一枚にも及ばぬわ』
魂の同調。
ルヴェンの左手のグローブが、燃えるような銀色の魔法陣へと変容し、肉体の深淵から莫大なエネルギーが奔流となって溢れ出した。
『小僧、行くぞ! 魂を繋げろ!』
「わかってる! やるぞ、黒竜!!」
瞳を閉じたルヴェンの口元が、不敵に緩む。
「小石……か。確かに、今の僕にはそう見えるよ」
背後でレッツォが「……面白い」と小さく笑った。
グローブが弾け飛び、ルヴェンの左手の傷から濃密な黒霧が噴出する。
「うおおおおおおおおお!!」
ルヴェンの叫び声が森に轟いた。それは以前の禍々しい他者の声ではなく、彼自身の意志を宿した、力強い咆哮だった。
足元から地震のような振動が走り、周囲の空気が歪み始める。
「ルヴェン! 何が起きてるの!? 大丈夫なの!?」
結界の中でエルミナが叫ぶ。
「大丈夫だ、エルちゃん。……彼らの、魂の舞を堪能しようじゃないか」
レッツォの落ち着き払った言葉が終わるより早く、ルヴェンを包んでいた黒霧が爆散した。
音一つ無い静寂。
あまりの威圧感に、魔石の枝さえもその動きを止めていた。
ルヴェンの背後には、収束した霧が形作った漆黒の翼が、静かに、しかし力強く羽ばたいている。髪は黄金色に輝き、見開かれたコバルトブルーの瞳には、一切の迷いがない。
「ドラゴン……ドラゴン……!!」
森の最奥から、怨念のこもった不気味な声が響く。それに応じるように、地中の根や枯葉さえもが牙となってルヴェンへ殺到する。
だが、ルヴェンはただ立っているだけで、それらすべてを身体の周囲で弾き返した。
「わかる……。石がどこにあるのか。そして、この『彼』の戦い方も」
『わかったのなら、さっさと始末せんか、小僧』
頭の中で急かす黒竜に対し、ルヴェンは凛とした声で返した。
「言われなくても! それから、僕は小僧じゃない。ルヴェンだ!」
その宣言とともに、ルヴェンは翼を翻し、魔石の心臓部を目指して森の深淵へと突き進んだ。




