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第四十六小節 ~血と涙と男と女~




 すべてが、終わった。


 先ほどまでの地獄が嘘だったかのように、辺りは深い静寂に包まれている。


 冷ややかな秋のそよ風が、血の臭いと死の気配を幾分か和らげ、皮肉なほど景色を鮮明に描き出していた。


 地に伏し、己の罪と吐瀉物にまみれて悶えるルヴェン。その彼を背後から優しく、壊れ物を扱うように抱きしめているのは、『彼女』であった。


 だが、その口から漏れる声は、あの元気で男勝りなエルミナのものではなかった。それは鈴を転がすような、しかし重厚な慈愛を湛えた、淑やかな大人の女性の声。


 幼い少女の細い喉から、一体どうすればこれほど深く、芳醇な響きが出るのか――。


「黒竜様、アイシェルはここに……ここに、おりますよ。どうかその目をお開け下さいまし。恐れることは何一つございません」


 『彼女』はルヴェンの血塗られた頬を白く細い指先で撫で、絶望を掴んだまま痙攣している左手を、自身の両手で包み込むように握った。


 しかしルヴェンの意識は、混濁した暗闇の中にいた。見開かれたコバルトブルーの瞳には光がなく、喉の奥からはヒューヒューと、ひしゃげた笛のような呼吸音が漏れている。


 膝枕をする『彼女』の美しいドレスは、ルヴェンの体から溢れる血液に浸され、刻一刻と汚されていく。だが『彼女』はそんなことなど微塵も気に留めず、むしろ愛おしそうに彼を強く抱きしめた。


 それでもルヴェンは反応しない。それどころか、喉に詰まった吐瀉物のせいで顔面は土気色に変わり、呼吸が止まりかけていた。

 

 『彼女』の空虚な瞳に、溢れんばかりの涙が溜まる。それは一筋の雫となって、ルヴェンの頬に落ちた。


「……ああ、一体どうすれば……。せっかく、巡り会えましたのに」

 

 すすり泣きが辺りに響く。その時、ルヴェンが激しくむせ返り、苦悶の声を上げた。


「これさえ何とかすれば……」


 『彼女』は瞬時に判断した。呼吸を阻害する「死の澱」を取り除かねばならない。


 迷うことなくルヴェンを仰向けに寝かせると、彼女は自身の唇を彼の口へと重ねた。それは人命救助という名目を超え、執着に満ちた接吻にも見えた。彼女は喉に詰まったものを強く、深く吸い出していく。


「あ……が、はぁ……ッ!!」


 肺に空気が流れ込み、ルヴェンの瞳から大量の涙が溢れ出した。逆流する苦痛と、蘇る感覚の鋭さに耐えかねているのだろう。


 だが『彼女』は手を止めない。角度を変え、何度も何度も、彼の内側にある穢れを吸い出そうと、その熱い接吻を繰り返した。


 その光景は、血塗られた戦場の中で、狂おしいほどに愛し合う男女が、死の間際に激しい接吻を交わしているような、凄惨な美しさを放っていた。


 やがて、ルヴェンは大きく咳き込み、再び生の世界へと引き戻された。


 うっすらと開いた瞳に、エルミナによく似た、しかし全く別人のような慈悲深い顔が映る。ルヴェンはその顔を見て、かすかに安堵したかのように、再び深い眠りへと落ちていった。


 一方、彼の喉を詰まらせていたものをすべて自身の口に含んだ『彼女』は、それをゆっくりと地面へ吐き出した。


 乱れた髪、虚ろな瞳、そして口元から滴る不透明な液体。それらは人命を救った聖女のようでもあるが、同時に卑猥に見せた。


 ――遠くから、複数の人間の怒号と足音が聞こえ始める。


 この規模の戦闘、そして魔力の爆発だ。村の自警団や、近隣の兵たちが感付かないはずがない。


 人々の気配が近づくのを感じ、一瞬にして『彼女』の表情から慈愛が消え、冷徹な巫女のような顔つきへと変わった。彼女はルヴェンを再び抱き寄せると、古の言葉で呪文を紡ぎ始める。


 二人の周囲、半径四メートルほどの地面に、複雑な幾何学模様の円が浮かび上がった。円は漆黒の光を放ち、魔法陣へと昇華される。


 次の瞬間、魔法陣の内側から湧き出した黒い霧が二人を包み込み、視界を遮断した。


 人々が血相を変えてトリシュール邸に到達したとき、そこには誰もいなかった。

 ただ、頭部を失った騎士の骸と、上下に引き裂かれた肉塊。そして、無残に惨殺された領主一行の死体だけが、黄金の畑を朱に染めて残されていた。


 後にフェルダイ帝国の正史に『血の徴収日』として刻まれ、傲慢な竜討騎士たちを恐怖で震え上がらせることになる惨劇の幕引きであった。

        



 それから、どれほどの時間が経ったのだろうか。

 ルヴェンの閉ざされた意識の中に、清らかな水のせせらぎが滑り込んできた。


 微かな土の匂い、そして雨上がりの森のような、瑞々しい緑の香りが鼻腔をくすぐる。


 ゆっくりと、重い瞼を押し上げる。


 視界に飛び込んできたのは、高くそびえる木々の梢と、その隙間から零れ落ちる柔らかい木漏れ日だった。

 どうやら自分は、人里離れた深い森の奥で横になっているらしい。背中には柔らかな毛布が敷かれ、さらりとした布の感触が肌に心地よい。


 ふと自分の服に目を向けると、ルヴェンは目を見張った。あれほど返り血で真っ赤に汚れていたはずの衣服が、まるで新品のように清められ、綻び一つなくなっていたのだ。


 傍らには焚き火の跡があり、使い込まれた食器が置かれている。一晩や二晩の滞在ではない。ここで数日間、誰かが自分を世話し続けていた形跡があった。


「一体……誰が……。僕は、どうやって……」


 ルヴェンは混濁した記憶の糸を辿ろうとしたが、指先に残る「感触」を思い出した瞬間、体中に電流が走った。


 自分の左手。


 彼はビクリと肩を震わせると、這いつくばるようにして膝を抱え、ガタガタと震え出した。

 あの時、この左手が何をしたか。

 誰の頭を握り潰し、誰の身体を千切ったのか。


 そして、何よりも忘れてはならない――自分がかつて、この手で最愛の妹をどうしたのか。

 

 風にそよぐ葉音さえ、今は非難の声に聞こえる。小川のせせらぎは、流される血の音に聞こえる。


 どれほどの時間が経っただろうか。絶望の淵で震えるルヴェンの背後に、そっと人の気配が忍び寄った。


「……ルヴェン?」


 その少女の声に、ルヴェンは弾かれたように振り向いた。

 彼の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃに崩れ、かつての端正な騎士見習いの面影はどこにもない。


 視線の先に立っていたのは、両手いっぱいに焚き火用の枝を抱えた、エルミナだった。

 

 あの日のドレスではない。活動しやすい農作業着のような服に身を包んだ彼女は、ルヴェンの顔を見た瞬間、持っていた枝をバサバサと地面に落とした。


「エル……? 君、生きて……」


 ルヴェンの疑問の声に、彼女は応えなかった。ただ両手で口元を押さえ、大きな瞳からポロポロと、大粒の涙を零し始めたのだ。

 

「ルヴェン……ルヴェンッ!!」


 彼女は弾丸のような勢いでルヴェンに飛びつき、その細い腕で彼の首に抱きついた。


 ルヴェンの頬に、彼女の涙で濡れた柔らかい頬が押し付けられる。彼女の長い髪が視界を覆い、温かな体温が、冷え切っていた彼の心を包み込んでいく。


 エルミナは彼の胸に顔を埋め、わんわんと泣きじゃくりながら、頬をこれでもかというほど擦りつけた。


「もう! もう! 心配したんだからねッ! ルヴェン、丸三日間も寝たまま起きないんだもん!」


「……三日間も? じゃあ、エ、エルが僕をここまで運んで、看病してくれたの?」


 ルヴェンが戸惑いながらも、その細い背中に手を回すと、エルミナは鼻をすすりながら首を振った。


「私一人じゃ無理だよ。……レッツォさんが、助けてくれたの」


 その時。


 藪をかき分ける音と共に、穏やかな男性の声が響いた。

「おーい! エルちゃん。あんまり遠くへ行くなよ。迷子になったら困るからね」


 現れたのは、黒いローブを羽織った長身の男性だった。

 身長は175センチ前後。淡いブラウンの短髪を綺麗に整え、瞳も同じ色をしている。

 目尻と口元に刻まれた細かな皺が、彼が歩んできた平穏ではないであろう人生の深みと、他者への優しさを物語っていた。年齢は五十を少し超えたあたりだろうか。


 彼の纏う黒いローブの左胸には、清廉な白糸で十字架が刺繍されている。

 中には真っ白なシャツと褐色のズボン。その首元からは、使い込まれて黒ずんだ、古びた十字架が下げられていた。


 男は、抱き合う二人の姿を見て、少しだけ驚いたように目を見開いた。しかしすぐに、春の陽光のような柔らかな微笑みを浮かべた。


「おや……ようやく目が覚めたようだね。おはよう、ルヴェン君」


 男の言葉遣いは丁寧で、その声には不思議と、ルヴェンの傷ついた魂を沈めるような響きがあった。


 ルヴェンはエルミナを抱きしめたまま、警戒と困惑の混じった視線を男に向ける。

 

「あなたは……どなたですか? ここは、どこなんですか」


 男はゆっくりと近づき、ルヴェンの前に膝をついた。その動作には一点の敵意もなく、ただ慈愛に満ちている。


「私の名はレッツォ=アルベジーニ。見ての通り、神に仕える身だ。ここはフェルダイの国境近く、名もなき森だよ。」


 レッツォと名乗った男は、優しくルヴェンの左手――グローブに包まれたそれを見つめた。


「辛い思いをしたね。だがもう大丈夫。ここでは、誰も君を追いかけはしない」


 ルヴェンはその言葉を聞きながら、レッツォという男の背後に、言葉では説明できない「重厚な静寂」を感じていた。


 ただの聖職者ではない。この男は、自分の内側にある禍々しい何かを、すでに知っているのではないか。そんな予感がした。


 エルミナがルヴェンの腕の中で、再び小さく震えた。

「ルヴェン……お父さんと、お母さんはね……」


 彼女の声が震え、再び涙が溢れ出す。


 ルヴェンは彼女を強く抱きしめ直した。自分たちが失ったものの大きさと、これから歩まなければならない血塗られた道の険しさを、この時、彼はまだ完全には理解していなかった。

 

 ただ、レッツォが差し出した温かい手だけが、今の彼にとって唯一の道標のように見えた。


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