第四十五小節 ~The LEFT HANDS(後)~
黄金の秋風は一転して、凍てつくような死の抱擁へと変わった。
黒い霧に包まれた農園は薄暗く、大気は肌を刺すような殺気に満ちている。
「トリニィ! こいつ、ただの竜使いじゃねぇ……ウォーリアーだ!」
『彼』から放たれる、常軌を逸した魔力と闘気の波動。それを肌で感じ取ったバズは、歯の根が合わないほどガタガタと身震いしながら叫んだ。
「わかっている、バズ。だが……あり得ん。こんな子供が、精神竜を纏っているなど……!」
トリニィは必死に現実を脳内で処理しようとした。だが、理屈が追いつくよりも先に、生存本能に突き動かされたバズが動いた。
「死ねッ! この化け物がぁ!!」
バズは鎖鎌を狂ったように振り回し、自身の周囲に十数個もの闘気のドーナツを形成した。それらは一斉に撃ち出されると、猛烈な回転によって周囲の砂塵や礫を巻き込み、人間を丸呑みにするほどの巨大な竜巻へと変貌した。
大地は抉れ、長閑な農家の風景は瞬時に地獄の荒野へと書き換えられる。これこそが竜を仕留めるための一撃。バズが持てるすべての命を削って放った、最大最強の奥義だった。
トリニィもまた、肩に担いだ筒状の魔導兵器に全闘気を注ぎ込み、砲身に眩い光の球体を構築し始めていた。
だが、彼らは致命的な異常に気づいていなかった。
荒れ狂う風が周囲の巨木をへし折らんばかりに吹き荒れているというのに、『彼』の周囲を漂う黒い霧だけは、そよ風一つ吹いていないかのように、静かに、重く、淀んでいるのだ。
轟音と共に、無数の竜巻が『彼』へと襲いかかった。
空間を切り裂き、岩を砕く旋風の刃が、何度も、何度も、中心に立つ『彼』を蹂躙する。
しかし――。
荒れ狂う暴風は『彼』の肌に触れることさえできなかった。黒い霧に接触した瞬間、すべてのエネルギーは無慈悲に霧散し、弾き飛ばされていく。
やがて力が尽き、バズは激しく息を切らしてその場に膝をついた。
風が止み、静寂が戻る。砂埃の向こうに、傷一つ負っていない『彼』の姿が浮かび上がった。
「ハァ……ハァ……何だ……何なんだよ、こいつはッ!? 俺の攻撃が……掠りもしないなんて……!」
バズは混乱の極みに達し、頭を抱えて激しく首を振った。プライドは粉々に砕け、ただ純粋な恐怖だけが彼の心を支配した。
「下がってろバズ! 今度は俺だッ!」
トリニィが叫ぶ。筒の先に構築された直径三メートルもの光球は、徐々に収束し、巨大な『光の槍』へと姿を変えていた。
そんな二人を、黒い風の中心で『彼』は嘲笑った。
「おいおい。化け物とは心外だのう? 儂はただ立っておるだけだぞ。儂の霧さえも通過できぬ貴様らの方が、よほどゴミに近いのではないか?」
その顔に浮かぶのは、捕食者が獲物に向ける残酷な慈愛。
その時、トリニィの背後で、倒れていたエルミナがゆっくりと身を起こした。彼女の周囲にも『彼』の霧が漂い、優しく守護しているかのようだ。
エルミナが瞳を開ける。しかし、その視線には光がなく、ただ空虚な闇だけが三人を見据えていた。
「こ……く……竜……様……?」
その唇から漏れた言葉に、『彼』は歓喜の色を浮かべた。
「アイシェル。おお、愛しいアイシェルよ。またお前に巡り合えるとは思いもよらなかったぞ」
『彼』は敵である二人を完全に無視し、エルミナのもとへ歩み寄ると、彼女をその胸に抱き寄せ、優しく口付けを交わした。
トリニィは攻撃の狙いを定めていたが、あまりに隙のない、完成された『暴力の化身』を前に、引き金を引く指が凍りついていた。
「む、無視してんじゃねぇええッ!!」
耐えきれなくなったバズの叫びが、死の幕開けとなった。
「……うるさいゴミ共だのう」
『彼』が静かにバズを睨みつける。その刹那、バズは心臓を氷の楔で貫かれたような恐怖に襲われ、「ひっ!」と情けない声を漏らして硬直した。
そして、視界から『彼』の姿が消えた。
「バズ!! 逃げ……ッ!」
トリニィの警告が届くよりも早く、『彼』はバズの懐へと潜り込んでいた。
バズが事態を理解したのは、腹部に宇宙が砕けるような衝撃を受けてからだった。
『彼』の右拳が、下から突き上げるようにバズの腹部を貫く。鋼鉄の鎧は紙細工のようにひしゃげ、内臓と腹筋は一瞬で弾け飛んだ。拳から放たれた闘気は腰骨を粉々に粉砕し、背中まで突き抜ける。
「おがぁあああああぁああ……ッ!!」
血が喉に詰まり、言葉にならない呻きが漏れる。
が、『彼』は止まらない。振り上げた拳の勢いのまま、左足を軸にコマのように回転した。闘気を凝縮した右足による、凄まじい廻し蹴り。
意識が遠のくバズの瞳に最後に映ったのは、『彼』の脚が漆黒の鱗に覆われた「竜の尻尾」へと変貌している幻影だった。
グチャリ、という生々しい破壊音。
一度の攻撃で半壊していたバズの身体は、その一蹴りで上下に引きちぎれた。宙を舞う上半身が、生温かい血の雨を降らせる。
蹴りの余韻で低くしゃがみ込んでいた『彼』は、ゆっくりと立ち上がり、返り血を浴びた唇を淫らに舐めた。
「うわぁ……うわぁぁぁあああああああ!!!」
発狂したトリニィが、溜め込んでいた全闘気を一気に解き放った。巨大な光の槍が、空気を焼きながら『彼』へと突き進む。
『彼』は瞳を閉じ、ニヤリと笑った。
爆音と共に光の槍が黒い霧を貫く。
「やった……やったぞ! 奴の結界を抜けた!」
トリニィの顔に、希望という名の狂った笑みが浮かぶ。
だが、それは『彼』が与えた残酷な悪戯に過ぎなかった。
槍が身体に触れる寸前、『彼』は右手を突き出し、人差し指一本でその巨大なエネルギー塊を軽く弾いた。
カキン、と澄んだ音が響く。
光の槍はあり得ない角度で反転し、元の持ち主であるトリニィへと牙を剥いた。
もはや回避する力さえ残っていないトリニィは、ただ茫然と死を待つ。
しかし、彼を襲ったのは闘気の爆発ではなかった。首を伝わる激痛。そして、視界がぐるりと回る感覚。
『彼』は光の槍よりも速く移動し、トリニィの頭部を左手で鷲掴みにし、そしてそのままの勢いで水平に薙ぎ払ったのだ。
背後で目標を失った光の槍が地面に激突し、大爆発を起こす。その土煙の中、『彼』は宙吊りにしたトリニィの頭部を、万力のような力で締め上げた。
「脆弱よのう。儂の鱗を傷つけたければ……かつて『あの男』が使った忌まわしい剣でも持ってくるがいい」
「……ドラゴン……スレイヤー!? まさか、お前……ッ!」
トリニィが絶叫するが、それも最期まで続かなかった。
メキメキ、と頭蓋骨が砕ける不気味な音が響き、夥しい血と脳漿が辺りに舞い散る。
『彼』が左手を離すと、頭部を完全に破壊された肉体が、激しい痙攣を繰り返しながら地面に転がった。
すべてが終わった。
『彼』は血塗れの左手を、立ち尽くすエルミナへと差し出した。
「さぁ、終わったぞアイシェル。もう心配はいらない」
その表情は、先ほどまでの残虐さが嘘のように穏やかだった。
だが、その指先には、まだトリニィの金髪の一部が絡みつき、生温かい肉片が滴り落ちていた。
エルミナが微笑む。
しかし、その瞳には依然として光が宿らない。
『彼』が歩み寄ろうとした時、その漆黒の髪が徐々に色褪せ、元の輝きへと戻り始めた。
「……何と、魔力の少ない小僧だのう……」
『彼』は不機嫌そうに呟くと、深い眠りに誘われるように瞳を閉じた。
左手に魔法陣が浮かび上がり、再び黒いグローブが実体化して指先を隠す。霧は晴れ、翼は消えた。
数秒間、少年は立ったまま気を失い――。
そして。
瞳を開いたのは、元のルヴェンだった。
静寂が戻っていた。
秋の爽やかな風が、鼻をつく血の臭いを運んでいく。
ルヴェンはコバルトブルーの瞳を泳がせ、呆然と立ち尽くした。
「僕は……」
返り血で真っ赤に染まった自分の服。
足元に転がる、頭部を破壊され激しく痙攣を起こしている竜討騎士だった物。
ルヴェンの脳裏に、今の凄惨な光景がすべて「自分の意志で行ったこと」として、鮮明に焼き付いていた。
「僕は……人を……殺した……」
手のひらに残る、頭蓋骨を握り潰した感触。内臓を弾けさせた衝撃。
衝撃は、さらに深い闇の記憶を呼び起こした。
忘れようとしていた、いや、脳が封印していた真実の扉が、今度こそ完全に壊れた。
目の前の光景が、あの日、ビルデンの闇塚で見た景色と重なる。
壁や岩を埋め尽くす大量の血痕。
失禁し、腰を抜かして自分を見ていた、親友オルスの恐怖に満ちた顔。
そして、自分の左手に絡みついている、長く綺麗な金髪の束。
足元には、頭部を失って痙攣している、小さな女の子の遺体。
『……にーさま……』
最後に見せた、愛しい妹コリアの笑顔。
それを、自分の左手が掴み、無慈悲に握り潰した。
弾ける音。悲鳴さえ上げられなかった妹の、最期の感触。
「……ッ!!」
ルヴェンの視界が現在に戻る。
左手に絡みつくトリニィの髪。それを見て、彼は自分の顔を血塗れた左手で覆い、獣のような叫び声を上げた。
「僕は……! 妹を……コリアを」
現実が受け入れられない。
「僕は……! 妹を……コリアを」
ルヴェンの中で何かが音を立てて崩れた、その堰を切る様に叫ぶ。
「コリアを殺したァァァ!!」
絶叫が響き渡り、ルヴェンは猛烈な吐き気に襲われて嘔吐した。しかし、顔を覆っていた左手がそれを塞ぎ、嘔吐物が気管へと逆流する。
呼吸困難に陥り、身を悶えながら泥の中に伏すルヴェン。
その傍らで、エルミナだけが平然とした無機質な表情で、彼を見守っていた。
屋根の上に、一人の男が現れた。ロインだ。
彼は音符の書かれていない真っ白な楽譜を取り出し、光を帯びた二十二、二十三小節目をなぞりながら、静かに歌い出した。
「深き傷、悲しき痛み、
意識の果てに見たものと、
非情の別れ、二つの骸。
そして愛しき、一つの骸。
涙果て、心の底で見たものは……」
歌声は憂いを帯び、風に乗って消えていく。
彼はハープを取り出すと、再び静かに弦を弾いた。
「彼は迷う、記憶の中を。
彼は逃げる、記憶の中へ。
その左手は何を求め、何を護り……。
その左手は……何を、奪うのか
その、左手は……。」
演奏を終えたロインの姿は、陽炎のようにかき消えた。
後に残されたのは、血に染まった大地と、地獄の蓋を開けてしまった少年、そして、何も映さない瞳で見つめる少女だけだった。




