第四十四小節 ~Rhapsody of DEATH~
嵐のような猛攻が止まったのは、わずか数分後のことだった。
かつて黄金の波を湛えていたトリシュール家の庭は、今や見る影もない。
肥沃だった土壌は無残に抉り取られ、剥き出しの赤土が、まるで開かれた傷口のように痛々しく晒されていた。
その破壊の中心で、カルファルンドは膝をつき、肩を大きく上下させていた。肺が焼けるような喘鳴が、死のような静寂を侵していく。全身の筋肉は限界を超えて悲鳴を上げ、視界は自身の血で赤く染まっていた。
対照的に、二人の『竜討騎士』――フェルダイ帝国の暴力の象徴である彼らは、息一つ乱さず、退屈そうに鼻を鳴らしていた。
「さて、そろそろ飽きたな。さっさと片付けるか」
金髪の男、トリニィが重い溜息とともに冷たく言い放つ。彼の瞳には、目の前で命を懸けて抗う男への敬意など微塵もない。あるのは、ただ予定通りの作業を終えようとする事務的な冷徹さだけだった。
その絶望的な宣告に、カルファルンドは折れそうな心を必死に奮い立たせ、震える拳で地面を殴りつけた。
「ルトラ! 二人を連れて逃げろ! 早く……早く行けッ!!」
それは喉を掻き切るような断末魔の叫びだった。しかし、その叫びが終わるよりも早く、褐色髪の男――バズが動いた。
彼はカルファルンドの傍らから、物理的な法則を無視したかのように音もなく消え失せた。
次の瞬間、十メートルほど離れた場所に立ち尽くしていたルヴェンたちの目の前に、たった一歩、瞬きする間の移動でその巨躯を現していた。
「おいおい。二回も逃げられちゃ、俺たちの面目が丸潰れなんだよ。こっちも生活がかかってるんだからさ。逃がすわけないだろ?」
低く、地を這うような笑い声。その異常な速度と威圧感に、ルヴェンの全身の産毛が逆立ち、心臓が凍りつくのを感じた。
「エル、おばさん、左右に分かれて! 止まっちゃダメだ!」
ルヴェンの鋭い指示が、恐怖で思考を停止させていた二人の意識を無理やり叩き起こす。ルトラとエルミナは短い悲鳴を上げながら、弾かれたように左右へと走り出した。
「うるさい女共だ。耳障りなんだよ。さっさと消せ、バズ」
後方でトリニィの声が響く。それは、道端の虫を潰す相談をするかのような、あまりに軽薄で残酷なトーンだった。
彼は未だに立ち上がろうと足掻くカルファルンドの頭を、泥にまみれた重い戦靴で無慈悲に踏みにじり、地面へとめり込ませていた。
「解ってるよ。手間取らせるな。一気に仕留めてやる」
バズはニヤリと下卑た笑みを浮かべ、マントの下から不気味な得物を取り出した。
それは、長く黒い鎖の先に、禍々しい三日月状の刃を設けた『鎖鎌』。ただの武器ではない。数多の竜の首を刈り取ってきた、血の匂いが染み付いた処刑道具だ。
その武器を目にした瞬間、ルヴェンの視界から色が失われた。
忘れるはずがない。あの日、灼熱の砂漠で、自分を背に乗せて飛んでいた翼竜ウィドーを、空から地獄の底へと引きずり下ろした、死神の鎌そのものだったからだ。
バズが武器を高速で振り回すと、刃に凝縮された闘気が不気味な唸りを上げ、ドーナツ状の円盤を形成する。凄まじい風切り音が周囲の空気を引き裂いた。
「……お前たち……お前たちだったのか……!」
ルヴェンはガタガタと震える膝を押さえ、後ずさる。
「やっと思い出したか? 『竜使い』の坊ちゃんよぉ。あの時はよくも逃げ延びてくれたな」
バズは獲物を追い詰める悦びに瞳を爛々と輝かせ、鎌を回す速度をさらに上げる。
「お前たちが……お前たちがここにいるってことは、ウィドーは……ウィドーはどうなったんだッ!?」
「あぁ? あのザコ竜か。あそこにいるトリニィがミンチにしてやったぜ。おかげで俺の分の討伐勲章までアイツに横取りされちまったがな」
バズは自分の胸元にある、乾いた血に汚れた勲章を指差してケラケラと笑う。
「……そんな……そんな、ガラクタみたいな物のために……!」
激しい怒りが火炎となって全身を駆け巡る。だが、それ以上に強烈な生存本能が「逃げろ、死ぬぞ」と脳内で警鐘を鳴らし続けていた。
もつれる足が自身の重さに耐えきれず、ルヴェンは見苦しく無様に、泥の上へと倒れ込んだ。
「逃げ腰だな、まずは、お前からだ!!」
バズが太い腕を振り抜く。
放たれたドーナツ状の闘気円盤が、赤土を深く抉り、大気を絶叫させながらルヴェンへ迫る。竜の硬質な鱗さえバターのように断つ死の旋風。
死が、網膜のすぐ先に迫る。
ルヴェンの瞳に映る死神の輪が、視界のすべてを覆い尽くすほど大きな絶望となって膨らみ――。
「きゃぁああああああああ!!」
突如、背後から突き刺さるような絶叫が響いた。
ザクり、と。
肉を、骨を、そしてその存在そのものを粉砕する不快極まりない重い音が轟き、直後、生温かい『紅』がルヴェンの背中に土砂降りのように降り注いだ。
「……え……?」
時間が、粘りつくように停止する。
背後から、カルファルンドとエルミナの、魂を削り取ったような悲痛な絶叫が木霊した。
「ルトラーーーッ!! 嘘だろ、ルトラァ!!」
「嫌ぁあああああ! お母さん! お母さんッ!!」
ルヴェンは、首の関節が錆びついたかのようなぎこちなさで、ゆっくりと振り返った。
そこには――。
庭の古びた樹木に絡みついた、見るも無惨な『肉の断片』と、赤黒く染まって地面に散った衣服の切れ端があった。
つい先ほどまで、家族を想って穏やかに微笑んでいた女性。
よそ者の自分を本当の息子のように抱きしめ、毎日温かいスープを淹れてくれた人の、変わり果てた成れの果て。
「どうして……どうしてこんなことを!! この人たちが何をしたって言うんだ! 殺すなら……殺すなら、僕だけにすればいいじゃないかぁぁあッ!!」
ルヴェンの絶叫が空を切り裂くと同時に、トリニィの足元で屈辱に耐えていたカルファルンドが狂乱した。
理性を焼き切った怒り。彼は自分を抑えつけていたトリニィを死力で振り払い、血を吐きながらバズへと突っ込んだ。
「貴様ぁああ! よくも……よくも、よくもぉぉぉお!!」
全身の毛細血管が弾けんばかりの銀色の闘気を放ち、一筋の光となってバズへと迫る。だが、その執念の一撃すらも、バズは嘲笑いながら、鼻歌を歌うような軽やかさでかわした。
目標を失ったカルファルンドは、凄まじい勢いのまま地面へと激突する。
その刹那だった。
鼓膜を破壊せんばかりの激しい爆発音とともに、この世の音とは思えぬ、地獄の底から響くような断末魔が轟いた。
「うごぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおッ!!」
舞い上がる大量の砂塵。
ルヴェンは右腕で顔を覆い、飛来する瓦礫を防ぐ。そして再び目を開けたとき――そこには、絶望という言葉さえ生ぬるい凄惨な光景が完成していた。
噴水のように、天高く吹き上がる鮮血。
立っているのは、返り血を浴びて悦に入るトリニィとバズだけだ。
そしてその足元では、先ほどまでカルファルンドという名の一家の大黒柱であった『下半身』だけが、赤土の上で、びくん、びくんと汚泥のように身悶えていた。
「ああ……おじさん……おじさん……」
ルヴェンは膝の力が完全に抜け、その場に崩れ落ちた。
傍らではエルミナが、目の前の光景を脳が拒絶したかのように失禁し、力なく倒れている。彼女の意識は、すでに暗闇の底へと逃避していた。
「さて、坊ちゃん。ようやくお掃除が終わった。そろそろメインディッシュといこうか」
バズがニタリと笑い、ゆっくりと、死を楽しむように歩み寄る。
トリニィは無表情のまま、意識を失ったエルミナの髪を乱暴に掴んで、まるで荷物のように引きずり起こした。
ルヴェンの視界が、怒りと悲しみ、そして自己嫌悪で真っ赤に染まっていく。
カルファルンドの無惨な死様。
それは、彼の中に固く固く封印されていた「ある記憶の蓋」を、暴力的に抉じ開けた。
『ルヴェン!!5から数えて0で飛べ!』
蘇る、忌まわしき記憶。
ビルデンの闇塚で、自分と妹を守るために文字通りの盾となり、今目の前にある光景と同じように、肉を散らし、魂を削って死んでいった騎士――ガルブスの最期。
絶望が、肉体が許容できる限界を超えた。
ルヴェンの瞳から、人間としての光が消え失せる。
焦点の合わない目で口をパクつかせ、何事か不気味な呪文のようにブツブツと呟き始めた彼を見て、バズは生理的な嫌悪感から一歩、足を止めた。
「おい、トリニィ。こいつ、壊れたか? 見てみろよ、この面。気持ち悪いんだけど」
「好きにしろ。……こっちの娘は、売ればそれなりの金になりそうだが、所詮は『異端』の種だ。後腐れがないよう、ここで処分しておけ」
トリニィは事務的に命じると、腰に備えた短剣を抜き、エルミナの細い喉元に冷たい刃を当てた。
「やめ……ろ……」
その場にいる誰のものでもない、地を這うような、深く低い声が辺りに響き渡った。
二人の騎士が驚いて周囲を見回すが、生存している者は自分たちと、壊れかけた少年、気絶した娘しかいない。
「止めろと言っているのが……分からんのか! この、ゴミ共がぁぁああッ!!」
怒号が響き渡った瞬間、物理的な衝撃となって空気そのものが爆発した。目に見えぬ衝撃波が放たれ、バズの巨体が木の葉のように後方へと吹き飛ばされた。
「なッ!? バズ! 何が起きた!?」
激しく地面に叩きつけられる鈍い音がし、トリニィが驚愕して叫ぶ。
ふと視線を戻すと、ルヴェンがゆっくりと、不気味なほど安定した足取りで立ち上がっていた。
だが、その様子は明らかに異常だった。彼は必死に右手を伸ばし、自らの左手を――あの「見えないはずの」グローブを、力任せに剥ぎ取ろうとしていた。
だが、ルヴェン本人は拒絶している、彼の中の『何か』が強制的にグローブ剥ぎ取ろうとしているのだ。
「……ダメだ。このグローブを……取っちゃいけない……! 僕は……この左手で……ッ!」
激しい呼吸。汗と涙が混じり合う。
普段なら誰にも見えず、どれだけ引いても脱げなかったはずのグローブが、今は血のような実体を持ち、ルヴェンの手に握られている。
ズルり、と。
自身の皮膚を剥ぐようなおぞましい音を立てて、グローブが少しずつ剥がされ始めた。
その内側からは、この世の冷気すべてを集めたような、どす黒く凍てつく霧が溢れ出していく。
「イヤだッ! これは……絶対に取っちゃダメなんだッ! これを開放したら……!!」
その時、彼の脳裏に鈴を転がしたようなコリアの声が響く。
「ルヴェン兄様を信じていますから」
呼吸を荒げ、汗と涙にまみれたルヴェンは瞳を右往左往させながら、『今』を繋ぎ止めようとしていた。
が、ルヴェンの必死の抵抗を、復帰したバズが遮る。
「化け物め、死ねッ!」と叫びながら、鎖鎌から最大出力の闘気円盤をルヴェンへ叩き込んだ。
その瞬間、ルヴェンの脳髄に、世界を震撼させるような太く重厚な声が響き渡った。
『――小僧は儂に、儂は小僧に成り得る!』
「ぎゃぁあああああああああああッ!!」
ルヴェンは喉が裂けるほどの悲鳴とともに、左手のグローブを一気に引き剥がした。
宙に投げ出されたグローブは、瞬時に漆黒の魔法陣を描いて霧散し、同時に、周囲の気温が、爽やかな秋から極寒へと一気に急降下した。
溢れ出した漆黒の霧。
それはバズが放った渾身の攻撃を、まるで赤子の手をひねるように容易く飲み込み、無効化した。霧はルヴェンの身体を執拗に包み込み、そして意志を持つかのように収束していく。
ルヴェンの背中で、霧は実体化し、巨大な『漆黒の翼』へと姿を変えた。
少年の柔らかかった髪は、禍々しい黒へと染まる。
そして、ゆっくりと持ち上げられたその瞳は、深淵の闇をそのまま映し込んだかのように、どこまでも黒く、そして静謐なまでに澄んでいた。
ルヴェンは――否、『彼』は、驚愕に凍りつき、腰を抜かした二人の騎士を見据え、その美しい口角を三日月のように吊り上げた。
「……さぁ、どう弄んでやろうかのう? ゴミ共」
声は、低く、重く、周囲の大気そのものを支配下に置くような絶対的な響き。
そこには、もうルヴェンという名の怯えた少年の面影は欠片も残っていない。
代わりに立っていたのは、殺意と憎悪を背負った、美しき絶望の具現者であった。




