第四十三小節 ~紅と蒼のMATADOR~
ロインが時の扉を閉ざすと、世界は再び色を取り戻した。
視界いっぱいに広がるのは、目にも眩しい黄金色の海だ。秋風が波を作り、豊かに実った穀物の穂がさらさらと擦れ合う音が、大地の賛歌のように響き渡っている。
収穫の季節が、トリシュール家の農園にも訪れていた。
「おーい! ルヴェン! エル! そっちの端から機械かけてくれ!」
黄金の海原の向こうから、カルファルンドの威勢の良い声が飛んできた。
彼の言う『機械』とは、木製のフレームに小型の魔導機を取り付けた、この地域特有の農耕具だ。前部に取り付けられた回転刃が小麦に似た作物を次々と刈り取っていく優れものだが、動力源には微量の魔力が必要となる。
生まれつき魔力を持つエルミナにとっては、父の手伝いをするのにうってつけの道具だった。
ルヴェンがこの家に転がり込んでから、数ヶ月の時が流れていた。
彼は今や『トリシュール家の甥』として、近隣の農家にもその存在を認知されている。
この短期間でフェルダイ語を驚異的な速度で習得し、今では日常会話なら不自由しないレベルにまで達していた。
鎖骨の『異端者』の刻印も、カルファルンドと同じ特殊な化粧品で巧みに隠している。彼は名実ともに、この温かい家族の一員となっていた。
「お父さんー、行くよー!」
エルミナの元気な掛け声と共に、魔力を流し込まれた耕具がドッドッドと重低音を響かせ、穀物を刈り倒し始めた。
だが、この機械には一つだけ難点があった。
刈り取り機能は優秀だが、自走機能がないのだ。人間の三倍はあろうかという巨体を、後ろから押して操舵するのは、もっぱらルヴェンの役目だった。
「ちょっと! ルヴェン、左に曲がってるわよ!? もっと右! ちゃんと真っ直ぐ押しなさいよ、この下手くそ!」
父に向ける甘えた声とは打って変わり、エルミナは背後で必死に機械を押すルヴェンに容赦ない野次を飛ばす。
「だって……! ここからじゃ前が見えないんだから、もっと具体的に言ってくれないと分からないよ!」
ルヴェンは顔を真っ赤にして言い返す。額から汗が滴り落ち、息も絶え絶えだ。
だが、その表情に悲壮感はない。むしろ、生きている実感を噛み締めているようにも見えた。
そんな二人の喧嘩腰のやり取りを、カルファルンドは目を細めて眺めていた。
彼は麦わら帽子の鍔を指で押し上げ、澄み渡る秋の空を見上げる。
「……そろそろ時期だなぁ。急がねぇと」
誰に聞かせるでもなくボソリと呟くと、彼は再び帽子を目深に被り直し、鍬を振るう手に力を込めた。
午前の作業を終え、太陽が真上に昇る頃、トリシュール家は家族団欒の昼食時を迎えていた。
使い込まれた木のテーブルを四人で囲み、ルトラの作った素朴だが愛情たっぷりの料理を頂く。焼き立てのパンに、野菜と豆の煮込み、そして冷たい井戸水。
ここ数ヶ月でルヴェンにとって当たり前となり、そして何よりも愛しい日常の風景だ。
食事を終え、満足げに腹をさすりながら、カルファルンドが手拭いで口元を拭った。
「ルトラ、エル。明日は『納税の日』だ。準備しとけよ?」
その言葉が出た途端、場の空気がわずかに淀んだ。
ルトラは「はいはい」と短く答え、慣れた手つきで食器を片付け始めたが、エルミナの反応は露骨だった。
「……またアイツ達来るのかぁ。ヤだなぁ」
彼女は唇を尖らせてムスリとし、両手を頭の後ろで組みながら椅子をギイギイと揺らす。
「エル、そんな行儀の悪いことするんじゃねぇ。納税は国民の義務だ、仕方ねぇだろ? 一応、この地方の領主様自らがお見えになるんだからな」
カルファルンドは諭すように、少しだけ声を低くした。
その瞬間、エルミナが激昂したようにテーブルをバンッ!と叩いた。残っていた食器が跳ね上がり、ガチャリと音を立てる。
「……ッ!!」
彼女は何も言わず、椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がると、ドタドタと足音を荒らげて自室へと駆け込んでしまった。
バタン、と扉が閉まる音が響く。
カルファルンドは困ったように眉を下げ、ため息をついた。
ルヴェンは見逃さなかった。走り去るエルミナの横顔が、悔しそうに涙で濡れていたことを。
その夜、ルヴェンはルトラからこっそりと教えてもらった。
エルミナが泣いた理由。それは領主たちが嫌いなのはもちろん、それ以上に、そんな俗物たちにヘコヘコと頭を下げる「弱腰の父親」を見るのが何よりも耐え難いからだと。
かつての英雄である父を知る彼女にとって、今の姿は歯がゆくて仕方がないのだ。
フェルダイ帝国において、この地方は穀物生産の要衝であり、国内シェアのナンバーワンを誇る。ゆえに年に二度、領主が直々に各農家を回り、税としての作物を徴収する習わしがあった。
翌日が、その『納税の日』だった。
トリシュール家も総出で、裏手の倉庫にて出荷準備に追われていた。
「おじさん! この紐で一つにまとめればいいの?」
ルヴェンの声が倉庫に響く。彼は自分の背丈ほどもある穀物の束を両手いっぱいに抱え、カルファルンドに指示を仰ぐ。
「おう! あんまり一杯まとめて不細工にすんじゃねーぞ!? 一応お偉いさんに渡すもんだからよ、見栄えも大事だ!」
カルファルンドは手際よく袋詰めを進めながら注意を促す。その横顔は、農夫としての誇りと、家族を守る主としての責任感に満ちていた。
ルヴェンは額の汗を左手の甲で拭った。
ふと、視線が自分の左手に落ちる。
そこには、例の紅いグローブが嵌められている。
ここ数ヶ月、一つの疑問がルヴェンの中で膨れ上がっていた。このグローブは、手を洗う時も、風呂に入る時でさえも、どれだけ力を入れても外れないのだ。
皮膚と一体化したかのように張り付き、それでいてルヴェン以外の人間には「見えない」という不可解な性質を持っている。
「オルス……君は一体、今頃どうしているんだろうか……」
幼馴染の顔を思い浮かべ、ルヴェンは天井の梁を見上げて小さく溜め息をついた。
だが、感傷に浸る時間はすぐにカルファルンドの「手ェ止まってんぞ!」という罵声によって中断される。
作業は夕暮れまで続き、その日は泥のように眠りに落ちるだけで終わってしまった。
そして翌日……。
肌寒さを感じる秋の朝、鳥たちのさえずりで目を覚ましたルヴェンは、ベッドの温もりが冷めやらぬうちにキッチンへと向かった。
そこには、異様な光景が広がっていた。
いつもはボサボサの髪を麦わら帽子で隠しているカルファルンドが、鏡の前で念入りに髪を撫でつけているのだ。
ポマードだろうか、テカテカと光る褐色の髪は、見ていて不安になるほど整えられている。
「ぷっ……お、おはよう、おじさん。なんでそんな凄まじい髪型に?」
吹き出しそうになるのを必死に堪え、ルヴェンは声をかけた。
カルファルンドは真剣な顔で髭のトリミングを続けながら答える。
「おう、おはようルヴェン。お前もそれなりにビシッとしとけよ? どうせ向こうは俺たちを『田舎風情』とか見下してくるんだ。ちったぁ見た目で威嚇しとかねぇと、腹の虫がおさまらん」
どうやらこれは、彼なりの精一杯の虚勢であり、プライドの表れらしい。
ルヴェンが苦笑しながら振り返ると、ルトラとエルミナもまた、舞踏会にでも行くのかと見紛うようなドレスアップをしていた。
だが、どこか垢抜けない。特に髪型がちぐはぐで、せっかくの衣装が台無しになっていた。
「おー、ルヴェンおっはよー! 見て見て、私この日だけはレディでしょ?」
エルミナはフリルのついたスカートを摘まんでクルリと回ってみせた。
その微笑む顔は何とも可愛らしい。
なぜなら、いつもは泥だらけで男勝りな彼女が、化粧をして着飾っている姿に、ルヴェンは一瞬目を奪われた。
「……おばさん、エル。僕が髪を結ってあげますよ。二人ともこっちへ来て座って」
見かねたルヴェンが声をかけると、カルファルンドが茶々を入れた。
「おいおい、お前、女の髪なんか触れるのか? 男のくせによ」
「うん。こう見えても、母様に教えられて妹の髪をよく結ってあげてたんだ。十二歳にもなるのに自分の髪の手入れもできないお嬢様でね、結構苦労したんだよ」
ルヴェンは懐かしむように語りながら、ルトラの髪に櫛を通し始めた。
口にした妹コリアの話。だが、彼女がその後どうなったのか、闇塚での惨劇の記憶は、なぜかぽっかりと抜け落ちていた。
ルヴェンの手際は見事だった。あっという間にルトラの髪を上品なまとめ髪にし、続けてエルミナの癖っ毛も可愛らしいハーフアップに仕上げてみせた。
「まったく、なんで私より上手いのよルヴェン! なんか悔しい!」
エルミナは頬を膨らませたが、鏡に映る自分を見て満更でもなさそうに微笑んだ。
その後、ルヴェンも用意されていた服に着替えたが、過剰な装飾品を全て取り外し、シンプルに着こなした。結果として、四人の中で彼が一番洗練されて見えるのは皮肉だった。
準備を整え、お茶を飲みながら待つこと四十分。
窓の外、遠くの畦道を歩いてくる一行の姿が見えた。
「おー、お出でになったぜ? あのタヌキ領主がよ」
カルファルンドが忌々しそうに呟く。
だが、ルヴェンが窓から覗いた瞬間、その場の空気が凍りついた。
全身の血が逆流するような感覚。
先頭を歩く小太りの男と、その護衛の鎧兵士ではない。
問題なのは、その後ろ。
悠然と歩く二人の男たち。
一人は長身痩躯、長い金髪をなびかせる優男。もう一人は短髪で彫りの深い、屈強な男。
二人が纏っているのは、紅いマントに蒼いマフラー。
それは、ルヴェンの記憶に深く刻まれた恐怖の象徴――帝国最強の『竜討騎士』の装束だった。
「ッ……!?」
「ルヴェン? どうしたの、顔色が真っ青よ?」
エルミナが心配そうに肩に手を置くが、ルヴェンはガタガタと震えながら後ずさりをした。
ーー逃げなければ。殺される。
だが、時すでに遅し。
ドンドンドン!! と、扉を叩く乱暴な音が響き渡った。
「トリシュール! いつものに来てやったぞ! ここを開けろ!」
鼻にかかった、粘りつくような男の声だ。
カルファルンドは瞬時に「へつらう農夫」の仮面を被り、扉へと走る。
「はいはい! 今すぐ開けて差し上げますよ、エンクシア様!」
扉が開かれると、領主エンクシアが入ってきた。身長160センチほどの小太りの男で、黒髪を不自然なほど綺麗にセンター分けにし、派手な赤と金の衣装には下品なほどの宝石がジャラジャラとついている。
「ささ、どうぞこちらへ。今、とっておきのお酒をお持ちします」
カルファルンドが卑屈な笑みで招き入れる。
ルヴェンはキッチン隣の部屋に身を潜め、呼吸を殺して様子を伺った。
だが、事態は最悪の方向へ転がった。
談笑していたエンクシアの声色が、急に低く、冷たいものに変わったのだ。
「ところでトリシュールよ。お前……家に『ネズミ』を飼ってないか?」
カルファルンドの笑顔が引きつる。
「な、何のことですかな? ネズミは駆除してますが……」
間髪入れずにエンクシアが大声で叫ぶ。
「とぼけるな。……カルファルンド=トリシュール。いや、元ビルデン近衛騎士、カルファルンド=バンデリス!」
その名が呼ばれた瞬間、世界が変わった。
カルファルンドが弾かれたように立ち上がり、家族を庇うように両手を広げる。
殺気が部屋中を支配した。
ドアが蹴破られ、鎧の兵士と竜討騎士たちが雪崩れ込んでくる。
隠れていたルヴェンの姿も、もはや隠しようがなかった。
「よーお、軟弱ガキ。あの時はお世話になったなぁ? おかげで俺たちは笑いものにされたぜ?」
金髪の竜討騎士が、蛇のような目でルヴェンを見据えて笑った。
ルヴェンは震える足でカルファルンドの隣に立ち、女性二人を守るように立ちはだかる。
「おじさん……ごめん、僕、バスターに見つかってたんだ……」
「……お前、バスターに面が割れてたのか。くそッ、それじゃあ隠しようがねぇ!」
カルファルンドは歯を食いしばり、ルヴェンの頭を強く撫でた。
「さてさて、私の理解者が、まさか異端者を匿うどころか、自分自身も異端者だったとはねぇ。実に面白い余興だ」
エンクシアは髪を撫でつけながら、嘲るように笑った。
「この皇帝陛下直属の騎士様たちがお見えにならなければ、私はずっとお前の猿芝居に騙され続けるところだったぞ! ……やれ!」
エンクシアが床を踏み鳴らす。
それを合図に、鎧の兵士二人が剣を抜き、殺到した。
「来るぞルヴェン! 下がってろ!!」
カルファルンドが吠える。
次の瞬間、彼の全身から銀色の闘気が爆発的に噴き出した。それは燃え盛る炎のように揺らめき、彼の前方に3メートル四方の巨大な『闘気の盾』を形成する。
ガギンッ!と兵士たちの斬撃が盾に弾かれ、高い金属音が響く。
「へっ! これでも元近衛騎士だ! 鈍ら刀じゃ傷一つつけられねぇぜ!」
カルファルンドは不敵に笑うと、盾の形状を鋭利な円錐状へと変化させた。
「吹き飛びなッ!!」
足裏で床を砕き、砲弾のような体当たりを敢行する。
猛烈な爆発音と共にキッチンの床板がめくれ上がり、壁が吹き飛ぶ。
ルヴェンは咄嗟にルトラとエルミナに覆い被さる様にして、飛来する瓦礫から身を守った。
凄まじい砂煙が舞う中、エルミナが悲鳴を上げる。
「お父さん!! お父さんッ!!」
「エル、待って! 今は行っちゃダメだ!」
ルヴェンが必死に彼女を止める。
砂塵が晴れると、そこには半壊した玄関と、無残な肉塊と化した鎧兵士たち、そしてエンクシアだったものが転がっていた。
「……ったく。久しぶりに必殺技使っちまった。こりゃ明日は筋肉痛だな」
瓦礫の上に立つカルファルンドが、肩を回しながら明るい声を出した。
ルヴェンたちが安堵して駆け寄ろうとした、その時。
「まだ来んじゃねぇ! 動くな!!」
カルファルンドの怒声が飛んだ。
彼の視線の先、家の裏手からゆっくりと現れた二つの影があった。
パチ、パチ、パチ。
乾いた拍手が響く。
「ご名答。あの豚領主は手柄を独り占めしようとしてて目障りだったんだ。どうせ殺すつもりだったが、手間が省けたよ。そこは礼を言っておこうか」
短髪の竜討騎士が、嗜虐的な笑みを浮かべて言った。
「先手必勝オラァッ!!」
カルファルンドは問答無用で突っ込んだ。再び銀色の闘気を纏い、人間戦車のごとく突き進む。
「……雑魚が」
短髪の男が吐き捨てる。
彼らは動じることなく、紅いマントを翻した。
ヒラリ。
最小限の動きで、カルファルンドの必殺の突進がかわされる。
「なッ……!?」
カルファルンドは即座にターンし、拳の連打を叩き込む。風を切り裂く轟音が鳴り響き、地面が抉れ、芝生が舞い散る。
だが、当たらない。
竜討騎士たちは、まるでダンスでも踊るかのように軽やかにステップを踏み、全ての攻撃を紙一重で回避し続けている。
十分ほどの攻防が続いただろうか。庭は更地と化し、カルファルンドは肩で息をしていた。
対する二人は、汗一つかいていない。
「くっそォオオ!!」
カルファルンドが最後の力を振り絞り、渾身の一撃を放つ。
だが、それすらも彼らの紅いマントが優雅に宙を舞うだけで空を切った。
その光景はあまりにも残酷で、そして美しかった。
荒れ狂う猛牛のごときカルファルンドと、それを弄ぶ、まるで蒼い服を纏った冷酷なる闘牛士。
絶望的な実力差が、ルヴェンの目の前で静かに、確実に証明されていた。




