第四十二小節 ~Dream of DREAMers~(時の回廊)
……そこは、光という概念が死滅した場所だった。
上下も、左右も、前後さえも定かではない。時間という奔流が淀み、意味を失った虚無の空間。
絶対的な闇が支配するその深淵に、突如として異物が混入する。
ギギィ……と、乾いた音が静寂を侵した。
最初は一つ。やがて無数に。
闇の中から浮かび上がるように、数えきれないほどの「扉」が現れる。
あるものは手の届く距離に、あるものは星の彼方ほど遠くに。大きさも形状もバラバラな木製の両開き扉が、まるで無限の星空のように虚空を埋め尽くしていく。
その中の一つ、古びた樫の木で作られたような重厚な扉が、湿った木材が擦れ合う鈍い音を立ててゆっくりと開かれた。
開かれた闇の奥から、一人の男が姿を現す。
身長は170センチ後半ほどだろうか。煤けたような色合いの、長い旅路を感じさせる褐色のローブを身に纏っている。フードを目深に被っているため表情の全容は知れないが、その隙間からは埃にまみれた銀髪の前髪と、整った顎のラインだけが覗いていた。
光源など存在しないはずの虚無の世界で、不思議なことに、その男と無数の扉だけが、どこからともなく差し込むスポットライトを浴びたように淡く発光している。
それはまるで、劇場の舞台装置のような、幻想的で背徳的な美しさを湛えていた。
男はローブの懐から、使い込まれたリュートを取り出す。
細くしなやかな指先が弦を弾くと、ポロン、と哀愁を帯びた音色が虚空に波紋を広げた。
「私はロイン。時空の旅人」
男の声は、鈴を転がすように澄んでいながら、どこか老成した響きを持っていた。
「此処は幾つもの時が交わり、行き交う場所『時の回廊』。またお会いしましたね、この長き組曲をご鑑賞の皆様方」
ロインは、リュートを弾く手を止め、遥か頭上に点在する豆粒のような扉を見上げた。その視線の先には、今まさに紡がれている物語の「現在」があるのだろう。
「さて……かの少年ルヴェンは、これから数ヶ月という時を、あの温かな家族と共に過ごすことになります。まるで、本当の家族のように……。傷ついた羽根を休め、失われた温もりを思い出しながら」
ロインはふっ、と口元だけで笑みを浮かべ、再びリュートを構えた。
今度の旋律は、先ほどよりも少し弾むような、それでいてどこか切なさを孕んだメジャーコード。
「運命の日が訪れるその時まで、しばしの休息を。彼らがまだ何者でもなく、ただ純粋に明日を夢見ていた頃の記憶――その夢物語を、少しだけ覗きに行きましょうか」
ロインの歌声が、闇に溶けていく。
「少年達の夢、遥かなる夢物語。
無垢なる瞳が映す空は、どこまでも青く、高い。
儚くも脆いその夢は、やがて光り輝く希望を掴むのか?
それとも、絶望の淵へと誘うのか?
かつての英雄、勇者『ロウェル=タンヴェル』よ……
貴方の遺した夢の残滓は、今も彼らの中に息づいている――」
歌い終わりと共に、ロインが弦を強く弾く。
その音に共鳴するように、遥か上方に位置する一つの扉が勢いよく開け放たれた。凄まじい吸引力が生まれ、ロインの身体を塵のように吸い込んでいく。
彼が闇の彼方へ消え去ると、扉は再び、重い音を立てて閉ざされた。
――時の扉が開く。
世界が再構築される。
虚無の静寂は消え、代わりにリリリ、と涼やかな虫の音が鼓膜を優しく撫でた。
そこは、夜の小高い丘の上だった。
空を見上げれば、宝石の欠片のような琥珀色の三日月が浮かび、地上を淡い光で照らしている。頬を撫でる夜風は、湿った土と若い草の匂いを孕み、どこか懐かしい記憶を呼び起こすようだ。
丘の眼下には、宝石箱をひっくり返したような煌びやかな夜景が広がっていた。
ビルデンの城下町だ。家々の窓から漏れる暖かな明かり、そして中央に鎮座する巨大な城郭が、夜の帳の中で威厳を放っている。
丘の背後には、風を祀る小さな祠と、宿直のための明かりが灯った木造の小屋。
ここは、在りし日のビルデン『風塚』。
まだ誰も傷ついておらず、何も失っていなかった頃の風景だ。
耳を澄ませば、祠の裏の暗がりから、ひそひそとした話し声が聞こえてくる。
「おい、ルヴェン! 早く来いよ。こんな時間に外に出るなんて、大冒険だぞ!」
闇を切り裂くような、無邪気で自信に満ちた声。
まだ幼いが、その響きには既に人を惹きつけるカリスマ性が宿っている。
「うぅ……やっぱり止めようよ、オルスぅ。絶対怒られるってば。ボク、この間も父様の大事にしてた花瓶を割って、すっごく怒られたばっかりなんだよ? 君と一緒にいると、いつもこういう事になるんだから……」
対して、もう一つの声は今にも泣き出しそうなほど情けない。女の子と間違えそうなほど高く、震えている。
祠の影から、二つの小さな人影が浮かび上がった。
月明かりに照らされたのは、まだ六歳ほどの少年たち。
先頭を行く赤髪の少年――オルスは、宿舎のある方を気にしながらも、胸を張って仁王立ちになった。
「いいかルヴェン。俺たちはもう六歳になったんだぜ? 来年からは士官学校に入って、一人前の騎士になるための修行が始まるんだ。こんな夜の散歩くらいでビビっててどうするんだよ!」
オルスは両手を夜空にかざし、見えない敵に向かって演説するように息巻く。
「俺たちはビルデンが誇る英雄になるんだろ? 父ちゃんたちよりも強くて、カッコいい英雄にさ! これ位で泣きそうな声だすなよなー」
オルスの言葉に、ルヴェンと呼ばれた気弱そうな少年は、もじもじと指先を合わせながら俯いた。
「……だけどさ、オルス。英雄って言っても、ボク達に本当になれるのかな? あの魔石の勇者を倒せるような、すごい騎士に。だって、父様も、強いレグレントおじさんだって、まだ倒せてないんでしょ……?」
ルヴェンの言葉は、幼いなりの現実的な不安に満ちていた。
偉大な父を持つがゆえの重圧。自分には才能がないのではないかという、漠然とした恐怖。
だが、オルスはそんな友人の弱気を一蹴するように、ニッと白い歯を見せて笑った。
「ばっかやろ! お前、歴史の授業で寝てたのか? 俺達ビルデンの古文書に書かれている伝説の勇者、『ロウェル=タンヴェル』だって、最初はただの普通の男だったらしいぞ?」
オルスは興奮気味に身を乗り出し、瞳を輝かせる。
「アイツはな、特別な生まれじゃなかった。でも、神竜様の『竜依戦士』に選ばれて、すげー力を手に入れたんだ! そんで、魔石の勇者どもをガンガンやっつけたんだよ! あの勇者ロウェルだって努力したんだ。俺達だって頑張れば、絶対になれるって!」
根拠のない、しかし絶対的な確信に満ちた言葉。
その熱量は、冷え切っていたルヴェンの心に火を点けるには十分だった。
憧れの英雄、ロウェル=タンヴェル。絵本の中で見た、竜の力を宿し、空を駆ける伝説の戦士。
「……そう、だよね。そうだよね、オルス!」
ルヴェンは顔を上げ、涙を拭った。その瞳に、月明かりが反射して小さな勇気が灯る。
「ボクも頑張る。きっとなれるよね、竜依戦士に!」
高らかに宣言した、その瞬間だった。
「こらぁッ!! そこに誰かいるのか!?」
背後の宿直小屋の方から、大人の怒声が轟いた。ランタンの明かりが激しく揺れ、こちらへ近づいてくる。
「隠れてないで出て来い! こんな夜更けに風塚に忍び込むなんて、どこの盗賊だ!?」
一気に現実に引き戻される二人。
オルスは「げっ」と舌を出し、ルヴェンの手首をガシッと掴んだ。
「やべ!! 見つかった! 逃げるぞルヴェン、全速力だ!!」
「ええっ!? 待ってよオルスぅ~!」
二人の少年は夜露に濡れた草を踏みしめ、転がるように丘を駆け下りていった。
その背中には、未来への希望と、目前の説教への恐怖が同居していた。
後日、当然のようにお互いの父親――エーウディアとレグレントに大目玉を食らい、こっぴどく叱られることになるのだが。
彼らにとってこの夜は、ただの悪戯の記憶ではない。
「英雄になる」という夢を共有し、運命の歯車を自らの手で回し始めた、記念すべき始まりの夜となったのだ。
少年の笑い声と、草を駆ける足音が遠ざかっていく。
月明かりが滲み、穏やかな風塚の風景は、インクを水に垂らしたように黒く染まっていく。
一瞬のうちに、世界は再びあの『時の回廊』へと姿を変えた。
闇の中に、一つ、また一つと扉が明滅する。
まるで宇宙空間を漂っているかのような浮遊感の中で、一つの扉が静かに開き、ロインが戻ってきた。
彼は扉を丁寧に閉めると、その場に音もなく着地する。
ロインは左腕を真っ直ぐに虚空へ伸ばし、拳を軽く握りしめた。
空間が歪み、光の粒子が集束する。彼の手の中に現れたのは、先ほどのリュートではなく、重厚なボディを持つ中型のチェロだった。
彼は宙に腰掛けるようにして楽器を構え、弓を弦に滑らせる。
低く、腹の底に響くような中低音が、虚無の空間を震わせた。それは、先ほどの軽快な歌とは違う、歴史の重みと悲しみを背負ったレクイエムのようだった。
「遠き過去の英雄……勇者ロウェル」
ロインの低い朗読が、チェロの音色に重なる。
「我が知る彼の一族は、血の繋がりを持たず。
魂の因果、その深き繋がりによって、多くの時代を生き、継承される。
その身に、竜の大いなる力を宿し。
その心に、消えることのない大いなる傷を刻み込み。
幸福と引き換えに力を得る、魂の修練へと旅立つ者……」
ロインは演奏の手を止め、弓を下ろした。
フードの下から、ゆっくりと遥か上方――未来へと続く扉を見上げる。
その頬を、一筋の雫が伝い落ちた。
涙。
時空を超えて旅をする観測者が流す、意味深な涙。
さらりと落ちた銀髪の前髪の隙間から、彼の瞳が露わになる。
憂いを帯びた、深い夜のような黒い瞳。
だが、次の瞬間。
カッ、と。
ロインが目を見開いたその刹那、黒い瞳が鮮烈な「紅色」へと変貌した。
それは竜の眼か、あるいは魔の輝きか。
紅い光は一瞬で消え去り、再び穏やかな黒い瞳が戻る。
まるで何事もなかったかのように。
「……さぁ、感傷に浸る時間は終わりです。そろそろ、運命の日がやって来る」
ロインは優しく、しかし残酷な事実を告げるように口ずさむと、ゆっくりと立ち上がった。
彼の姿がブレて、霧のように薄くなる。
「さて、本来の時間に戻りましょうか」
一礼を残し、彼は今度は遥か下方――地獄の底へと続くかのような深い場所にある扉へと、その身を投じた。
後に残されたのは、無数の扉と、決して開くことのない静寂だけであった。




