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第四十一小節 ~旧友達の円舞曲~



 ルヴェンは男の大きな背中に導かれ、木漏れ日の中を歩いた。


 案内されたのは、昨晩、雨の中で身を寄せようか迷ったあの一軒家だった。

 近くで見ると、太い丸太と石材を組み合わせた堅牢な造りで、質実剛健な主の性格がそのまま形になったような佇まいをしている。


 男が中央にある重厚な木造の扉を押し開けると、ふわりと香ばしい匂いが漂ってきた。


 煮込まれた野菜と焦がしたバターの香り。それは冷え切ったルヴェンの胃袋を容赦なく刺激した。


「さぁ、入れよ。散らかってるが気にするな」


 通されたのは、家の中心に位置する広々としたダイニングキッチンだった。


 東側の窓からは、雨上がりの柔らかな朝の光が惜しみなく降り注いでいる。その光は、テーブルに飾られた一輪挿しの赤い野花を照らし、使い込まれた食器棚や、背表紙の擦り切れた本が並ぶ棚に温かな陰影を落としていた。


 そこには、ルヴェンが失って久しい「平穏な日常」という時間が流れていた。


 男はルヴェンをキッチンのテーブルに座らせると、棚から厚手の毛布を取り出し、彼の肩にバサリと、しかし優しく掛けてくれた。


「ちょっと待ってな。今、かーちゃんが支度してるからよ」


 屈託のない笑顔でそう言い残し、男は奥の部屋へと消えていく。


 残されたルヴェンは、まだ状況が上手く飲み込めずにいた。

 ついさっきまで殺されかけたかと思えば、今は客として招かれている。曖昧な苦笑いを浮かべ、彼は所在なげに視線を落とした。


 目の前にある茶色く塗装された木製のテーブル。その表面には、無数の傷が刻まれていた。

 いや、よく見ればそれは単なる傷ではない。


 幼稚な手つきで彫られた、歪な丸や線。恐らくは幼い子供がフォークか何かで付けた「落書き」の跡だ。

 ルヴェンはその凸凹を指先でなぞる。そこには、確かにここで育まれた命の歴史があった。


 ズキリ、と胸が痛む。



 鎖骨の『異端者』の刻印が、衣服の下で熱を持っているような気がした。

「僕……この人達を不幸にしてしまうんじゃないのかな……?」


 ポツリと漏れた言葉は、自分自身への問いかけであり、確信に近い恐怖でもあった。


 自分は災厄を招く存在だ。こんな温かい場所に、異物が混じり込んでいいはずがない。


 だが、その湿っぽい空気を、明るく元気な声が吹き飛ばした。



「恥ずかしいねぇ! その落書きは娘のエルミナが小さい頃、悪戯して彫ったもんなんだよ」


 背後から響いたのは、はっきりとした発音のビルデン語だった。


 ルヴェンが驚いて振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。

 四十代半ばだろうか。濃いブラウンの髪を頭の上で無造作なお団子にまとめ、少しふくよかな体型には生成りのエプロンがよく似合っている。

 目尻には笑いじわが刻まれているが、その褐色の瞳はあくまで温かく、そして力強い。先ほどの少女、エルミナの面影を色濃く残す女性だった。


「スープ、朝の残りだけど飲んでね。体、芯まで冷えちゃってるでしょう?」


 彼女――ルトラはニッコリと微笑むと、湯気の立つスープ皿をルヴェンの前に置いた。


 薄い象牙色の液体からは、濃厚で甘い香りが立ち上っている。ルヴェンは慌てて一礼すると、添えられた木のスプーンを手に取った。


 一口、口に運ぶ。


 その瞬間、ルヴェンの目が大きく見開かれた。

 じっくりと炒められた玉ねぎのコクと、トウモロコシの弾けるような甘み。それらが複雑に絡み合い、喉を通った瞬間に温かい熱となって全身へ広がっていく。


 美味しい。ただそれだけのことが、今のルヴェンには涙が出るほどありがたかった。


 凍り付いていたのは体だけではない。


 孤独と恐怖で凝り固まっていた心までもが、この一杯のスープでゆっくりと解凍されていくようだ。


 ルヴェンは夢中でスプーンを動かした。数秒の後に皿が空になるまで、彼は顔を上げることもできなかった。

 その様子を満足げに見守るルトラの背後で、再びけたたましい声が響く。


「エル! そんなにムクれてないで早く来い!」


 ドタドタという足音と共に、先ほどの男性が戻ってきた。

 右手には白い布で包まれた長方形の物体――幅三十センチ、長さ六十センチほどの何かを抱え、左手では嫌がる娘の腕を掴んで引っ張ってくる。


「おー、食ったか! スープ旨いだろう? ちょっと懐かしい話がしたくてよ、倉庫をひっくり返してたんだ」


 男はルヴェンの向かいの席に陣取ると、その大きな掌でルヴェンの頭をワシャワシャと撫で回した。乱暴だが、そこには不思議な親愛の情が込められている。



「待たせたなぁ、まずは我がトリシュール家の紹介からだな」


 男は、窓から差し込む太陽にも負けないくらいの満面の笑みで胸を張った。


「俺はこの家の主人、カルファルンドってんだ。そんで、こっちが最愛の妻のルトラ」


 カルファルンドは照れることもなくルトラの腰に腕を回し、続けて、窓際で腕組みをして外を睨んでいる少女を親指で指し示した。


「そいで、そこの窓際で拗ねてるのが、娘のエルミナだ」


 ニヤリと笑う父に対し、エルミナは一瞬だけルヴェンに鋭い視線を投げたが、すぐに「フンッ」と鼻を鳴らして窓の外へ顔を背けた。

 その背中は『あたしは認めてないからね』と雄弁に語っている。



「どうも……わざわざありがとう御座います。僕はルヴェンと言います。スープ、本当に……凄く美味しかったです、ルトラさん」


 ルヴェンは椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。


「そうかそうか、ルヴェンって言うのか。いい響きの名前だなぁ。……ま、とにかく座れや。話はここからが本題だ」


 カルファルンドの声色が、不意に変わった。



 先ほどまでの陽気な親父の顔が消え、歴戦の戦士のような鋭い眼光が宿る。彼は大きな顔をテーブル越しにルヴェンのすぐ近くまで寄せ、声を潜めた。

「お前……『異端者』だな?」


 ドクン。


 心臓が早鐘を打ち、ルヴェンの全身が石のように硬直した。



 なぜバレた?



 思考が空回りし、冷や汗が背中を伝う。沈黙が、永遠のように重くのしかかった。


 ルヴェンが生唾を飲み込む音が、静寂の中で大きく響く。


 その緊張極まる表情を見た瞬間、カルファルンドは一気に緊張を解き、再び破顔一笑した。


「はっはっは! 図星か。やっぱりな、あの糞ッタレた風習はまだ続いていたんだな」


 彼は楽しそうに笑うと、自分の着ている農作業着の襟元を強引に寛げた。左の鎖骨付近が露わになる。

 一見、何もない日焼けした肌に見えた。だが、カルファルンドはテーブルの上の濡れ布巾を手に取ると、その部分をゴシゴシと乱暴に擦り始めた。


 肌色の塗料のようなものが剥がれ落ち、その下から赤黒い痣のような模様が浮き上がる。


 それは、ルヴェンの鎖骨にあるものと同じ――


 『異端者』の刻印だった。


「カルファルンドさん、それは……!」


 ルヴェンは思わず身を乗り出し、驚愕の声を上げた。


「へへへ、どうだ驚いただろう? 俺もお前と同じ、追放者ってわけさ」


 カルファルンドは悪戯が成功した子供のように笑い、再びルヴェンの頭を撫でた。


「とにかくだ、実は俺も昔は由緒正しきビルデンの騎士だったんだぜ?」


「え……?」


「なんだその顔は。信じてねぇな?」


 ルヴェンは目をぱちくりとさせた。目の前にいるのは、どう見ても日に焼けた陽気な農夫だ。騎士の鎧よりも、鍬や麦わら帽子の方が似合いすぎている。


「い、いえ……信じられないというか。どう見ても普通の、その……屈強な農家のおじさんにしか見えなくて」


 正直すぎる感想に、横にいたルトラが吹き出し、窓際のエルミナまでが肩を震わせて忍び笑いを漏らした。


「おーおー、言ってくれるじゃねぇか! そう言われると思って用意したのがコイツだ!」


 カルファルンドは顔を真っ赤にしながら、テーブルの上に置いていた包みの布を勢いよく引き剥がした。

 現れたのは、年代物の額縁に収められた一枚の肖像画だった。


 そこには三人の青年騎士が描かれていた。


 中央には、カールの効いた金髪と知的な青い瞳を持つ、貴公子然とした長身の青年。


 その右隣には、燃えるような赤い短髪に、丸太のように太い腕で三メートルを超える巨槍を軽々と担ぐ偉丈夫。


 そして左手には、今の面影を色濃く残す、茶色い髪の精悍な青年――若き日のカルファルンドが描かれていた。


 ルヴェンの視線が釘付けになる。カルファルンド以外の二人に、強烈な既視感があったからだ。


「どうだ? 『鉄壁の盾』と呼ばれた俺の若かりし頃だ。後の二人は腐れ縁の同期でな」


 カルファルンドは自慢げに指差していく。


「まず、中央にいるキザな優男がお坊ちゃんのエウディ。そんでこっちの筋肉ダルマが平民上がりのマークだ」


 その愛称を聞いた瞬間、ルヴェンの中で確信が弾けた。


 ――言っていいのか。

この名を口にすれば、もう後戻りはできない。


 ルヴェンは一度瞳を閉じ、大きく息を吐いた。

 もう一度開かれた瞳には決意が漲っていた。


「エーウディア=エスメラルダ……それに、レグレント=マーク=ゼディアーク……ですか?」


 透き通る声で紡がれたフルネームに、今度はカルファルンドが目を丸くする番だった。


「おい、なんでお前、二人の名を知ってるんだ?」

「知ってるも何も……」


 ルヴェンは肖像画の青い瞳の青年を見つめ、静かに告げた。


「エーウディアは僕の父様です。そして、レグレントおじさんは僕の幼馴染みの父上で……僕にとっても家族のような人でした」


 時が止まったようだった。カルファルンドは口を半開きにし、ルヴェンと肖像画を交互に見比べる。


「……まじか。おい、まじかよ! お前、エウディのせがれかよ!!」


 カルファルンドは大声を上げ、椅子が軋むほど前のめりになった。


「言われてみりゃあ、その線の細さといい、目元といい……そっくりじゃねぇか! いやビックリしたなぁ、こんなことってあるのか!」


 彼は嬉しさを爆発させ、ルヴェンの肩をバシバシと叩く。


「そうかそうか、エウディの息子か! どうりで他人とは思えなかったわけだ。……どうやら二人とも元気にしてるようだな。安心したぜ」


 興奮冷めやらぬ様子で、カルファルンドはルトラに「とびきりの茶を淹れてくれ!」と頼み、再びルヴェンに向き直った。


「よし、積もる話もある。アイツら、最近はどうしてるんだ? 少し前にビルデンが魔石騒ぎで大変だったって噂は風の便りで聞いたんだがよ」


 その問いかけに、ルヴェンの表情からさっと血の気が引いた。


 温まっていた心が、再び冷たい現実へと引き戻される。ルヴェンは膝の上で拳を握りしめ、視線を落とした。


「……実は、ビルデンは崩壊の危機にありました。その戦いで……父様は、無事です」


「おお、そうか! エウディが無事なら何よりだ。であの馬鹿力、マークはどうした? あいつのことだ、魔物の一匹や二匹、素手でひねり潰したんだろ?」


 無邪気な期待を含んだその言葉が、ルヴェンの胸を抉る。


 言わなければならない。父の旧友に。


「レグレントおじさんは……風塚での戦いで……殉職、されました」


 部屋の空気が凍りついた。

 カルファルンドが立ち上がりかけた姿勢のまま、固まる。


「……は?」



 数秒の空白。


 彼はゆっくりと目を見開き、大きく息を吸い込み、そして忘れていた呼吸を思い出したように吐き出した。


「そんな……あのマークが? 殺しても死なない、あの男が? ……そうか……死んだのか……」


 巨木が倒れるように、カルファルンドは椅子にドサリと沈み込んだ。


 その背中は急激に小さくなり、顔には深い皺が刻まれたように見えた。


 友の死。それはあまりにも唐突で、重い事実だった。


 沈痛な沈黙を破ったのは、コトリ、と置かれたティーカップの音だった。


 ルトラが湯気の立つ茶をテーブルに置き、夫の背中をピシャリと叩いた。


「あんた、いつまでもウジウジしてんじゃないよ! あんたの取り柄っていったら、その能天気な明るさしかないじゃないの!」


 言葉は強いが、その響きには夫の悲しみを共有し、支えようとする深い愛情が滲んでいた。カルファルンドはハッとして顔を上げ、妻の顔を見た。


「……そうだな。友の死は悲しいが、目の前にゃエウディのせがれがいるんだもんな。湿っぽい顔してたら、あの世でマークに『この弱虫野郎』って笑われちまう」


 彼は両手で自分の頬をパンパンと強く叩き、無理やりにでも笑顔を作った。目元はまだ赤かったが、その瞳には再び力が宿っていた。


「よし……! これからは俺の話だ。ルヴェン、よく聞いておけ」


 カルファルンドは熱い茶を一口啜り、語り始めた。


 だが、そのカップを持つ手だけは小刻みに震えていた。



 ーーカルファルンド、エーウディア、レグレント。

 三人はかつて、ビルデン近衛騎士団の同期として切磋琢磨し、将来を嘱望された親友同士だった。


 運命が変わったのは、ある任務の日。色塚の塚守を選出する試験の最中だった。


 カルファルンドは、あろうことか『ほむら塚』の祭壇を誤って破損させてしまったのだという。

「俺のドジのせいで、こう竜の封印が解かれちまった。辺りは火の海だ。何人もの仲間が炎に飲まれて死んだ……」


 自責の念に声を震わせるカルファルンド。


 その責任を取り、彼は『異端者』の烙印を押され、国外追放の処分を受けた。


 本来ならそのまま処刑されてもおかしくない罪だったが、親友たちの奔走もあったのだろう。彼は命だけは助けられ、このフェルダイへと流れ着いたのだ。


 命を狙われること自体は変わらなかったが……。


「そんな俺についてきてくれたのが、当時の婚約者だったルトラだ」


 カルファルンドは愛おしそうに妻を見た。ルトラは「昔の話よ」と照れくさそうに笑う。


 二人は逃亡の末にこの村へ辿り着き、特産品である化粧品原料の穀物を育てながら、刻印を隠してひっそりと暮らしてきたのだという。


「フェルダイの文明に染まっちまったら、もう他へは行けねぇ。俺たちはここで、土と共に生きることを選んだんだ」


 すべてを聞き終えたルヴェンもまた、自らが背負った運命と、ここまで辿り着いた経緯を静かに語った。


 話が終わる頃には、太陽は高く昇っていた。

 同じ『異端者』の刻印を持つ者として、そして亡き親友の息子として。カルファルンドとルトラは、迷うことなくルヴェンを受け入れることを決めた。


「しばらくここに居ろ。俺たちが守ってやる」


 カルファルンドの力強い言葉に、ルヴェンは涙を堪えて頷いた。


 温かい居場所ができた。


 ただ一人、窓際のエルミナだけは、未だに不服そうな顔でルヴェンを睨みつけていたが、その瞳の奥には、どこか複雑な色が揺らいでいた。


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