第四十小節 ~隠者の花園~
――数時間が過ぎた。
夜通し大地を叩きつけていた無慈悲な雨は、夜明けとともにその勢いを失い、やがて完全に止んだ。
重く垂れこめていた鈍色の雲が、東の空からゆっくりとひび割れるように解けていく。その裂け目からこぼれ落ちた黄金色の陽光が、雨上がりの世界に祝福を与えるかのように降り注いだ。
そこは、まるで隠された楽園だった。
豊かに実った農作物、生命力に溢れる深い緑の草花。その一枚一枚の葉に残った雨粒が、柔らかな朝日を浴びて光のプリズムへと姿を変える。
風がそよげば、濡れた大地の匂いとともに、数多の宝石を散りばめたような輝きが波打ち、まるで金色の絨毯が揺れているかのような錯覚を呼び起こした。
だが、その幻想的な静寂を切り裂く、鋭く高い声が響き渡る。
「――っ、――! ――!!」
意味の取れない、だが明らかな敵意を含んだその叫びに、ルヴェンの意識は深い眠りの底から引きずり出された。
極限の疲労と、泣き疲れて麻痺した感情の隙間に、冷たい現実が滑り込んでくる。
重い瞼を押し上げ、心地よい微睡みを妨げた正体を確認しようとした瞬間、彼の思考は氷水を浴びせられたように一気に覚醒した。
視界のすぐ先にあったのは、鈍く光る金属の切っ先だった。
木製の長い柄の先に、三股に分かれた鋭利な突起。それは本来、土を耕し、命を育むための農具だが、今この瞬間は、侵入者の喉笛を貫くための凶器としてルヴェンの鼻先に突きつけられていた。
「ーーつ! ーーーつ!?」
突き刺すようなフェルダイ語とともに、声の主がルヴェンの瞳に映り込む。
そこに立っていたのは、自分と同じ年頃に見える一人の少女だった。
肩甲骨のあたりまで伸びた、少し跳ね癖のある褐色の髪。勝気そうに吊り上がった眉の下では、茶色の瞳が爛々と怒りに燃えている。
薄い小麦色の肌に、汚れ一つない真っ白なワンピースが眩しいほどによく映えていた。健康的で、凛としたその姿は、荒廃した外の世界とは無縁の『平穏』を象徴しているかのようだった。
彼女は手にした三叉の農具を小刻みに震わせ、必死にルヴェンを威嚇している。
それも当然だった。ルヴェンの足元には、無残に食い散らかされた農作物の残骸が転がっている。
丹精込めて育てられたであろう果実や野菜を、空腹に耐えかねて泥棒のように貪り食い、あろうことかその場に居座って眠りこけていたのだ。
彼女にとって、目の前の少年は神聖な庭を汚した薄汚い盗賊に他ならなかった。
「あ……ごめんなさい。僕、そんなつもりじゃ……」
ルヴェンは喉の奥から絞り出すように、ビルデン語で謝罪を口にしようとした。
だが、その瞬間だった。
ドクン、と心臓が跳ねる。
封印の具である『オルスのグローブ』に覆われているはずの左手の傷が、焼けるような熱を持って疼き出した。内側から何かが這いずり回り、彼の自由を奪おうとする感覚。どろりとした、名状しがたい嫌悪感が全身を駆け巡る。
「……っ、が……あ……!」
意識が遠のき、視界が歪む。必死に瞳を見開き、自分を支配しようとする『何か』を押し返そうとした時、ルヴェンは奇妙な光景を目にした。
目の前にいた怒れる少女の姿が、陽炎のように揺らぐ。
次の瞬間、彼女の姿は、もっと大人びた、慈愛に満ちた清楚な女性の幻影へと重なった。
脳を直接かき回されるような違和感。自分の意思とは無関係に、声帯が震える。
「アイ……シェル……?」
その名を呼んだ瞬間、世界が反転した。
輝く田園風景は霧に呑まれて消失し、周囲は深い闇と黒い霧に包まれる。冷たい朝の空気は消え、代わりに松明の残り火のような、微かな暖かさと湿り気を帯びた洞窟の情景が広がっていた。
ーー闇塚だ。
目の前の少女からも、戦う意志が消えていた。彼女もまた、何らかの力に当てられたのか、その唇を小刻みに震わせ、手にしていた農具を力なく地面に落とす。
焦点の定まらない、うつろな瞳。彼女は操られる人形のようにゆっくりとルヴェンに歩み寄り、その震える両手を彼の頬へと伸ばした。
指先が、ルヴェンの頬に触れる。
――刹那。
パチン、と何かが弾けるような音が頭の中で響き、霧が晴れた。
気づけば、二人は元の朝の光の中に立っていた。触れ合っていた体温が急速に冷めていく。
少女は一瞬、何が起きたのか理解できずに呆然としていたが、我に返った瞬間に弾かれたように数歩後ろへ飛び退いた。
「ひっ……! ーーっ! ーーーっ!!」
その悲鳴は静かな畑の隅々まで染み渡り、ルヴェンの鼓膜を揺らした。それは朝を告げる鶏の鳴き声よりも切実で、鋭い。
そして、彼女は慌てて地面の農具を拾い上げると、再びそれを構えた。
だが、今度の瞳には先ほどまでの怒りだけでなく、得体の知れない恐怖に対する涙がうっすらと浮かんでいる。
それもそうだろう、自分では無い『何か』に身体を支配されていたのだから。
ルヴェンは動けなかった。今起きた不可解な現象、自分の中から漏れ出した『何か』、そして彼女が見せた一瞬の表情。それらが頭の中で混濁し、ただ降伏を示すように両手を頭の上に挙げることしかできなかった。
数分が経っただろうか。
地響きのような、重厚な足音が近づいてくる。
「ーっ! ーーーーーーっ!」
太い男性の声とともに、ルヴェンの全身を巨大な影が覆った。
見上げれば、そこには巨木のような男が立っていた。身長は190センチ近い。
農作業用の長袖の衣服を纏っているが、その上からでもはち切れんばかりの筋肉の躍動が伝わってくる。
麦わら帽子の下からは、黒い瞳と茶色の太い眉が覗き、鼻下から顎にかけては手入れの行き届いた褐色の髭が蓄えられていた。
50代後半といったところか、刻まれた深い皺には、彼が歩んできた過酷な人生の重みが刻まれている。
男はフェルダイの言葉を低く唸るように吐き出しながら、ルヴェンの顔を凝視した。
一瞬、苦々しく眉を歪めたかと思うと、彼は捲り上げた腕の筋肉を誇示するようにしてルヴェンの胸倉を掴み上げた。
「……っ!」
足が地面から浮く。男の右手が岩のような拳を作り、ルヴェンの顔面目掛けて振り上げられた。
ルヴェンは反射的に目を閉じる。殴られる――そう覚悟した。
だが、衝撃は来なかった。
「…………?」
恐る恐る目を開けると、男の動きが止まっていた。その鋭い眼光は、ルヴェンの首筋から肩にかけて――衣服の隙間から覗く『あるもの』に釘付けになっていた。
それは、忌まわしき『異端者』の刻印。
男の瞳から、殺気と怒りが急速に引いていった。彼はゆっくりとルヴェンの胸倉を離すと、天を仰いで深く、重い吐息を漏らした。それは、同情とも共感ともつかない、複雑な響きを持っていた。
「……そうか。お前も、苦労したんだな」
耳に飛び込んできたのは、驚くほど流暢なビルデン語だった。
男は大きな手をルヴェンの頭に乗せ、乱暴に、けれど温かくその髪を撫でた。
「大丈夫か? 少年」
あまりの豹変ぶりに、ルヴェンは思考が追いつかず、何度も瞬きを繰り返した。
「え……? どうして、ビルデンの言葉を……?」
傍らで農具を抱えていた少女――エルもまた、信じられないものを見るような目で父親を見つめていた。彼女は早口のフェルダイ語で、父に詰め寄る。
その剣幕は「どうしてそんなよそ者に優しくするの?」と問い詰めているようだった。
「エル、お父さんの言葉で話しなさい。彼には理解できないよ」
男は穏やかな声で娘を諭した。少女は一瞬驚いた顔をしたが、やがて不満そうに唇を尖らせ、拗ねたような声を出す。
「だって、お父さん……! この言葉は『危ないから、外では絶対に使っちゃいけない』って、あんなに厳しく言ってたじゃない!」
その声は、先ほどまでの攻撃的なものとは打って変わって、年相応の無邪気で可愛らしいものだった。
「どうして……お二人とも、ビルデン語を?」
ルヴェンが困惑しながら問いかけると、男は快活に笑い、その逞しい腕でルヴェンの冷え切った肩を抱き寄せた。
「まぁ、立ち話も何だ。細かいことは家で、かーちゃんの作ってくれた『うんまいスープ』でも飲みながら話そうや。そんなに震えてちゃ、話せることも話せなくなるだろ?」
男の笑顔は、この田園に降り注ぐ朝日のように温かかった。
エルと呼ばれた少女は「もう、お父さんったら!」と大きなため息をつきつつも、農具を肩に担ぎ直し、父とルヴェンの後を追って歩き出す。
昨日までの絶望と、今朝の不可解な邂逅。
ルヴェンは、自分の運命が再び大きく動き出したことを感じながら、誘われるままに木造の小さな家へと足を進めた。背後では、雨上がりの農園が、ますます眩しく輝き始めていた。




