第三十九小節 ~I was singin' in "MY RAIN"~
オアシスからルヴェンが忽然と姿を消した理由――その真相は、誰も予測し得ぬものだった。
竜討騎士との死闘の最中、ウィドーの放った巨大な竜巻が、ルヴェンの身体ごと天空の彼方へと突き上げたのだ。
渦は暴力的で、砂と熱気を混ぜ合わせながら、彼を視界の届かぬほどの高さへと抱え上げていく。
しかし、それは単に気まぐれや暴走ではなかった。
頂点に達した竜巻は、急に性質を変え、まるで母が幼子をあやすかのように、優しく包み込むような穏やかな気流へと変化した。
その風は乱暴さを完全に消し去り、砂漠から遠ざけるように滑らかに流れ、ルヴェンを運び続けた。
辿り着いたのは――山々に囲まれた盆地の外れ、小さな村の近く。
灼熱の地獄とは正反対の、涼しく湿った空気が漂う土地であった。
ウィドーの作戦は、最初から竜討騎士に勝利することではなかった。
左翼を切り落とされた瞬間、彼は理解した。
『この戦いは長く持たない。いずれ自分は倒れる』と。
だからこそ、彼が最後に選んだのは、復讐でも誇りでもなく――たった一人の人間の命を守ることだった。
契約の時、ウィドーはルヴェンの内奥に眠る気配を感じ取っていた。
神竜メガイエルの一部である黒竜の気配――その影に触れた時から、彼の中で何かが変わっていた。
翼竜族は、本来なら大空からの急降下と離脱を武器とする戦闘スタイルだ。
しかし地に堕ち、自由な飛翔を奪われたウィドーは、もう戦士ではない。
ただの 『竜の形をした生き物』にまで自らを低めてしまったと、彼はよく理解していた。
だからこそ彼に残った竜巻の魔法は、攻撃でも防御でもない。
対象を包み込み、遠くへ運ぶだけ――それは幼い竜でも扱える、風の魔法の初歩に過ぎない。
……けれど、それが彼に残された、唯一の作戦だった。
そして、唯一の力だった。
やがて竜巻が霧散し、静寂が訪れる頃、ルヴェンは冷たい雨の滴りによって意識を取り戻す。
目を開ければ、そこは砂漠とは正反対の光景だった。
見渡す限りの田園。
濡れた土の匂いが深く静かに漂い、夕暮れを過ぎ、月の微笑みが増し始める時間。
遠くにそびえる山々の影が、薄闇に滲む。
雨が、降っていた。
冷たく、夜霧を纏っている。
――降り注ぐ雨は、ルヴェンの体にこびりつく砂と疲労を洗い落としていく。
まだ思考がまとまらず、身体も心も重いまま、ルヴェンはひたすら立ち尽くす。
今、降りしきる雨は、彼の未だ溢れない涙を代弁しているのだろうか?
ーーそれはルヴェンにしか分からない。
すると、田園の向こうにぽつりと灯る明かりが目に入り、微かに意識が引かれた。
村かもしれない。
人がいるかもしれない。
食べ物があるかもしれない。
そんな他愛ない推測を支えにして、彼はふらつきながら歩き出した。
「ウィドーはどうなったんだろう?」
脳裏に響く問い。
何度念を送っても返事は帰ってこない。
距離のせいなのか。
それとも、彼自身がもう……。
その答えだけは、どうしても想像したくなかった。
思考は雨に溶け、夜霧に飲まれ、ただ胸の奥だけが重く痛む。
髪は濡れて肌に張りつき、瞳の焦点は彷徨ったまま。
どれほど歩いたか覚えもなく、いつしか身体は芯まで冷え切っていた。
そして、突然に、原始的な飢えが襲いかかった。
「お腹……、すいたなぁ」
その呟きは、理性を決壊させる引き金になった。
気づけばルヴェンは、田園の所有者であろう小さな農家の近くまで来ていた。
灯りが漏れる木造の家。
軒先に吊るされたランタンは、雨粒に揺られながら橙色の光を放っている。
その光は、今のルヴェンにとってあまりに暖かく、残酷なほど優しく見えた。
彼はほとんど無意識のうちに、畑へ足を踏み入れる。
野菜や果実を選ぶ余裕など無い。
ただ両腕に抱えられるだけ抱え、小さな農具小屋へと転がり込む。
横殴りの雨は屋根の板の隙間を抜け、容赦なく身体を冷やす。
その中で、むさぼるような咀嚼音と荒い呼吸だけが小屋に反響した。
理性は完全に消え失せていた。
ただ、生きるために、喰う。
果汁が服を濡らし、野菜の汁が滴り落ちても、構う余裕など無かった。
やがて満腹中枢が機能し始めたのか、ルヴェンの手が止まる。
数度瞬きをし、口元の汚れを袖で乱暴に拭い取る。
そのまま、しばらく動かなかった。
雨音と風音だけが世界を支配する。
そして――鼻をすする、弱々しい音が混じった。
それは涙だった。
騎士家系の裕福な生活では知ることのなかった 『惨めさ』。
心を開いた者からの裏切り。
そして、生涯を共にすると誓いかけた仲間との別れ。
胸の奥に積もり積もった感情が、雨に押し込まれた堰のように決壊し、一気に溢れ出した。
涙が、頬を伝い落ちる。
雨と涙と鼻水が、彼の顔をみじめに濡らし続ける。
そしてついに、声を上げて泣きじゃくった。
……けれど、その泣き声は不思議なほど美しかった。
そのときだった。
雨の帳に紛れるように、ロインが静かに姿を現した。
淡い光に染まりながら、彼はルヴェンへ寄り添うように近づき、そっとハープを奏で始めた。
雨の激しい音、揺さぶるような風の音。
そこへロインの優しい旋律が混ざる。
ルヴェンの泣き声は、気づけば音に包まれ、哀しみと共に歌のような響きを帯びていた。
夜の闇に滲み、雨粒に砕け散り、田園の中へ吸い込まれていく。
そして――小一時間泣き続けたのち、
ルヴェンはゆっくりと涙の底から解放され、静かな眠りへと落ちていった。




