第三十五小節 ~港の男~
ルヴェンは、フェルダイ帝国の港町――アクレスイへと到着した。
海の匂いはビルデンの港と同じはずなのに、どこか乾いた鉄のような香りが混じっているように思えた。
船を降りて桟橋に足をつけると、熱と湿気がまとわりつくような空気が身体を包む。
……この国の気候なのだろうか。
船旅の道中でジルウスに気に入られたルヴェンは、彼から船乗りの服一式を譲り受けていた。
囚人としての薄汚れた服しか持っていなかった少年が、今では見た目だけなら一人前の若い船員に見える。
積み荷の運搬を手伝いながら、ルヴェンは内心でひとつの疑問を抱いていた。
(どうして……ビルデンからフェルダイに荷物が運ばれるんだろう? 戦争中じゃないのか……)
けれどジルウスは、いつもの豪快な笑みで何も説明しようとはせず、「坊主、文句言わず手ぇ動かせ!」と笑って働かせるだけだった。
ルヴェンが気づいたときには、港の太陽は西へ傾き始めていた。
さらに不思議なことに、夕方に近いというのに空気は異様に蒸し暑い。じっとしているだけでも肌がじんわりと汗ばんでくるほどだ。
「フェルダイって……こんなに暑いのか……?」
ぼんやりと考えながら荷下ろしを終えようとしたとき、不意に甲板から声が飛んだ。
「坊主! 悪いが酒買ってきてくれや! 切れちまってんだよ!」
ジルウスが高らかに笑いながら、桟橋に立つルヴェンへ布製の小さな財布と小銭、そして一枚のメモを投げ渡す。
ルヴェンはメモを開く。しかし、そこに書かれていたのは見たこともない文字の羅列だった。
「えっと……読めない文字が書いてあるんですが?」
「お前この国の言葉、話せないだろうが! そのメモを酒場に持っていって見せりゃ、店主が勝手に用意してくれるってわけよ!」
ジルウスは少し呆れたように笑った。
ルヴェンは「なるほど!」と明るく返し、元気よく桟橋を飛び降りた。ジルウスはその背中をしばらく目で追っていた。彼の瞳には、ほんのわずかだが寂しさが浮かんでいた。
ルヴェンは港を出て、酒場を探し町を走った。
しかし、町並みはビルデンのそれとはまるで違う。
レンガで舗装された綺麗な道はなく、砂と土ばかりがむき出しになった地面。木造の家ばかりが雑然と並び、どれも古びて汚れており、廃屋のように見える。
さらに看板も商品の値札も、すべて見たことのない文字だ。
通りの人々の会話にも耳を傾けたが、意味が分からない。自分が完全に異国にいるのだと痛感させられた。
息を切らせながら何軒も店を覗き込んだが、酒場らしき店は見つからない。気づけば太陽は沈み、町は薄暗さに包まれていた。
家々に灯る橙色の灯火はどこか弱々しく、町そのものが疲れているように感じられた。
「……もう帰ろう」
そう呟いて港へ戻ってきたルヴェンの目に映ったのは――
そこにあるはずの船が、無かった。
「……え?」
桟橋に駆け寄る。だが、ジルウスの船はすでに港を離れていた。
遠く、海の彼方に小さく影が揺れている。
「あ……」
膝から力が抜けた。ルヴェンはその場に崩れ落ちた。
「そうか……僕も……『荷物』だったんだよね……」
自分でも気づかないうちに、涙が滲んでいた。
喉の奥がぎゅっと締め付けられて声にならない。いつの間にか四つん這いになり、子どものように泣きじゃくっていた。
広い港には彼のすすり泣く声だけが響いた。
涙が枯れるまで泣いたあと、ルヴェンはふらりと立ち上がり、どうするあてもなく町を歩き始めた。
「これから……どうすればいいんだろう……」
何度も何度も呟きながら、夜の町を彷徨した。途中、町人に声を掛けられたが、言葉が通じず軽く会釈することしかできなかった。
そんな中、人目につかない細い路地へ入ろうとしたとき――
視界の端を何かが横切り、ルヴェンはそれと激しくぶつかった。
「うわっ……!」
尻餅をついたルヴェンの目の前に、四十歳前後ほどの男も同じように倒れていた。
「うわ! ごめんなさい!」
思わず謝るルヴェン。次の瞬間、男の顔が強張った。
男はルヴェンの右手を掴むと、砂を払う暇もなく乱暴に立ち上がり、そのまま路地裏へと引きずり込んだ。
「な、何するんですか!?」
抵抗しながら問いかけるが、男は一言も返さず走り続ける。
数十メートルほど駆け抜け、ようやく人影のない細い路地にたどり着いたところで、男がようやく口を開いた。
「その言葉は……ここではあまり使うな。君は今、敵対領土にいるんだぞ」
荒い息の間から絞り出された言葉は――ビルデンの言葉だった。
理解できる言語が耳に届いた瞬間、ルヴェンの胸に希望が灯る。
「どうして……フェルダイに言葉が通じる人が? 僕、今どうすればいいか分かりません……助けて……ください……」
涙で濡れた瞳が男を見つめる。
男はそんなルヴェンを見て、小さく笑った。
「取りあえず落ち着こう、少年。ここじゃ場所が悪い。隣町に仲間がいるから、そこで身の振り方を考えようじゃないか」
照明もなく暗い路地だったが、男が微笑んでいるのは確かだった。
それは、ルヴェンがこの国に来て初めて受け取った、誰かの『ぬくもり』だった。




