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第三十三小節 ~SEMIBREVE REST FERMATA~(Royne's SOLO)



 ルヴェンたちの乗る船がゆっくりとフェルダイの港へと向かっていったその後、船が通り過ぎた海面に、ひときわ細い波紋が広がった。


 それは風でも潮でもない。まるで海が自ら呼吸し、ほんの一瞬だけ胸を上下させたかのような、繊細すぎる揺らぎだった。


 その波紋の中心に、いつの間にかロインが立っていた。


 彼は海に浮かぶ影のように、輪郭すら揺らがせずに波の上へと降り立つ。

 足裏が海面に触れているはずなのに、そこには沈み込みも、水飛沫も生まれない。

 彼という存在が、ただこの世界の『表層』から切り離されているようだった。


 煤まみれの褐色のローブが潮風に揺れる。

 海原を渡る風は強く、彼の周囲には白いしぶきが舞っていたが、どれひとつとしてロインの身体に触れることはない。


 海面から跳ね返る太陽光もまた同じだった。


 煌めきはロインの手前で静かに拡散し、まるで彼を避けるように進路を変えていく。


 ロインはその海の真ん中で立ち止まり、ゆっくりとローブの内側に手を差し入れる。


 取り出したのは、小ぶりのヴァイオリンだった。


 旅人が携えるには少し繊細すぎる細工の一品。光が当たれば琥珀色に輝き、影が落ちれば夜のように沈む――不思議な二面性を持った楽器である。


 ロインは細い弓を軽く弦に添わせ、息を整え、静かに弾き始めた。


 最初の音が海上に響いた瞬間、世界の色が一段だけ深く変わった。


 潮騒も鳥の声も遠ざかり、ただヴァイオリンの柔らかな響きだけが海原を渡っていく。


「多くの別れ、そして出会い」


 静かに、ロインは語り始めた。


 しかしその声は、風に乗って大気の奥へと吸い込まれていくようで、どれほど小さくても確かに届く、不思議な響きを持っていた。


「それは少年を大きく成長させる。

 出会った者達もまた、この組曲のフレーズの一つ……」


 その言葉と共に、彼は弓を止めた。

 

 時間がそこで伸び、世界が静止したかのような一瞬。


 ロインはゆっくりと空を見上げる。


「海の男は勇気あふれる男達。

 彼らは海の守人となり世界を巡る。

 決意を胸に平和を夢見、愛する者をその糧にしても――

 我が命、燃え堕つ時まで……」


 詩を紡ぐ声は穏やかだが、奥底には深い哀しみと誇りが混ざっていた。


 ロインの瞳には、遥か昔の海、まだ語られていない戦い、多くの命が交差した蒼き歴史が映っているようだった。


 再び弓が走り、音が海上を満たす。

 旋律は穏やかで、優しく、海の呼吸と同じリズムを刻んでいる。


 心地良い潮風が吹き抜ける。


 ロインの周囲だけ、まるで風の密度が変わったように穏やかな流れが生まれ、波は陽光を砕いて無数の光の粒へと変えていく。


 それはまるで、巨大な劇場の天井から降り注ぐスポットライト。


 誰もいない舞台の真ん中で、ロインただひとりが照らされているようだった。


 彼の演奏に合わせて、光の粒たちは踊り、揺れ、世界の時間が少しだけゆっくり回り始める。


 どれほどの時間が経ったのか分からない。

 短いようで長い、長いようで一瞬の、どこか夢の中のような時間。


 彼の演奏と時間は噛み合っているのだろうか?それこそが危ぶまれる。


 ロインはふと演奏を止め、海の上で静かに息をついた。


「ジルウス=ハルバート」


 再び口を開いた声は、先ほどより少しだけ人間らしい温度を帯びていた。


「私の知る限り彼はこの後、幾多の困難を乗り越え、多くの仲間との出会い、そして別れを経験する」


 ロインは歩き出す。


 その足取りは海面を踏んでいるはずなのに音がしない。


 彼の歩みは潮の満ち引きのように自然で、世界の法則から切り離された存在だけが持つ静謐な動きだった。


「そして、巨大な魔動戦艦『イルヴェルズィール』と、魔動船団を率いて魔王を退ける。

 人々は彼を賛美し、『蒼き大海原の覇者』と二つ名を付けた」


 ロインは立ち止まり、また空を仰ぐ。


「それは、この過去の未来の、別のお話……」


 彼の視線の先には、遠い未来、そして遠い過去が同時に重なっているようだった。


 ロインが見つめる空は、言葉では届かないほど遥か。


 彼自身も、そこに手を伸ばすことはない。ただ静かに見守るだけだ。


 しばらくの間、ロインは動かなかった。


 やがてローブの奥から束になった楽譜を取り出し、数枚をめくって立ち止まる。


 そこに書かれているのは、誰も知らない『もう一つの物語』。


「私の語るべき『蒼き大海原の覇者』は二代目の男。その彼が、遠く時の扉の向こうに消えてしまった妻に唄った歌を一曲」


 ロインはヴァイオリンを丁寧に仕舞い、小さなハープを取り出す。


 その楽器は風を宿すように軽く、触れただけで澄んだ音が広がった。


「『風のセレナーデ 第二楽章』――

 歌は永遠の時の中で唄い継がれ、代わり継がれる」


 前奏が始まる。

 それはかつてビルデンの風塚でオルスに聞かせた曲と同じ旋律。


 しかし今は、海の匂いを帯び、太陽の光をはらみ、どこか切なく遠い響きになっていた。


 そしてロインは静かに唄い始める。


「どこまでいこう?君を求め。

 愛の為燃えるこの身彷徨わせ。


 どこまでもいこう、君の為に。

 遥か彼方の時の扉まで。


 どこまで行っても、君は見えずに。

 遠き時代越えてあの街まで。


 何時か愛した、貴女は今。

 何処で誰かを愛しているの?」


 歌が終わった瞬間、世界の空気がふっと揺れた。


 ハープの音色が最後の余韻を残し、その響きが海の底へと沈んでいく。


 次の瞬間、ひときわ大きな波がロインを飲み込んだ。

 海が彼を抱きしめるように覆い、その姿を完全に隠してしまう。


 波が静まったころ、そこにはもうロインの影すらなかった。


 まるで最初から彼など存在しなかったかのように、海はまた静かに揺れ、太陽の光を砕き続けていた。




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