第三十二小節 ~海の男達~
ルヴェンが飲まされたのは、どうやらアルコール度数の高い酒だったらしい。
彼が倒れてから数時間が過ぎ、日が沈み、すっかり夜となっていた。
昼間は宝石のように輝いていた海面も、今では漆黒の闇に変わり、不気味なほど静まり返っている。
ジルウスの貿易船――そう名乗ってはいたが、どう見てもただの漁船――の船上で、ルヴェンは横たわっていた。
そして昼間には姿を見せなかった一人の人物が、彼の頭を優しく膝に乗せている。
肩の少し上でサラリと切り揃えられた黒髪、深い青色のキリッとした瞳。
髪の長い男性と言われても違和感ないほど中性的な顔立ちだが、細い腰や指先の動きから女性だとわかる。
白い肌は月明かりを受けて淡く光り、ひどく繊細な印象を与えた。
そして彼女の左腕にも、ジルウスと同じく――十字架と、読めぬ文字で刻まれた刺青があった。
彼女はジルウスのすぐ隣に座り、酒を注いだり、身の回りの世話を焼いたりしている。
まさに夫婦そのものの姿だった。
そんな中、ルヴェンがふいに目を覚ます。
「……あれ? ここは……?」
ほのかに揺れるランタンの灯りと、たくましい人間の影が目に入り、ルヴェンはぼんやり呟いた。
「よぉ、起きたか? 坊主」
ジルウスのにやけた声が響く。
「僕は……いったい……?」
ルヴェンは状況を理解できず、まず頬に当たる柔らかい感触に違和感を覚えた。
顔を上げてみると――そこには、先ほどまでいなかった女性が笑いをこらえるような顔で座っている。
「うわぁ!?」
驚いて飛び起きた瞬間、その女性がくすっと笑って声をかけた。
「ボク? 大丈夫?」
柔らかい声に、ルヴェンは軽く頭を下げる。
「あ、どうも……すみません」
「坊主! こいつぁ俺の女房、イルベルってんだ! よろしくな!」
ジルウスはそう言って彼女の肩を抱き寄せ、どや顔を浮かべる。
するとカイツとノッティンが、待ってましたと言わんばかりに野次を飛ばすのだった。
そんな明るさが漂う中、ルヴェンは痛むこめかみを押さえながらジルウスに尋ねた。
「さっき飲まされたのは何ですか? あの……フラフラして、訳がわからなくて」
ジルウスは悪戯っぽく笑い、瓶をひょいと掲げてみせる。
「酒だ! しかも上等品だぜ? まぁ……フェルダイに着いたら、飲めなくなるかもしれねぇからな……」
声のトーンが徐々に沈んでいき、周囲の船員達も目をそらす。
空気が急に重くなったため、ルヴェンは慌ててもう一つ気になっていた点を問いかけた。
「ところでこの船……帆も煙突も無いのに、どうしてあんなに速いんですか?」
ジルウスは驚いたように目を丸くした。
「お前、『魔動機』を知らねぇのか? ……まぁビルデンに居たら仕方ねぇか」
その後ジルウスは、魔動機の仕組みについて長々と語り始めた。
魔術師の魔力を燃料とし、魔方陣を刻んだ機械を動かす装置――それが魔動機だという。
フェルダイ帝国では、巨大な船から列車に至るまで魔動機が搭載され、魔術師達は“コア”という職に就き、その機械に魔力を供給している。
彼は誇らしげに続ける。
「で、うちの『コア』がこいつよ。俺の自慢の女房、イルベルだ!」
イルベルは顔を赤らめてジルウスの腕を軽く叩くが、その仕草もまた夫婦の仲の良さを感じさせた。
「ところで……その、ジルウスさんとイルベルさんの腕の刺青って……?」
何気なく尋ねたその言葉が、空気を凍らせた。
船員達が一斉に動きを止め、ジルウスは膝の上で拳をぎゅっと握る。
そして、ゆっくりと語り始めた。
彼らは元々キラフ共和国の小さな漁村で、本当にただの漁師として暮らしていた。
ジルウスとイルベルには「コジュン」という5歳の息子がいた。
イルベルの出産は、医師の記録に残るほどの難産だった。
医者は夫婦に残酷な選択を迫った。
――子を諦めるか。
――あるいは、イルベルが二度と子を授かれない体になるか。
夫婦は迷わず後者を選んだ。
「一人で十分だ」と。
そしてコジュンは無事に生まれ、夫婦の宝となった。
だが、運命は無惨だった。
ある日、いつものように漁に出ていたジルウスとイルベル、操舵士ノッティン、航海士カイツ。
大漁で喜びながら港へ戻ると――そこには炎上する村の姿があった。
四人が走って帰った家で見たのは、息子コジュンの冷たく変わり果てた姿。
海賊の襲撃だった。
奪われた家族、壊された日常。
家も村もなくなった四人は、海賊へ復讐するために武器を取り、魔導戦艦を手に入れるべく、『海の無法者』として生きる道を選んだ。
「この刺青はな……」
ジルウスは左腕を見下ろす。
「俺たち夫婦が、海賊団を狩るために誓った戒めだ。
忘れねぇために。逃げねぇために。
――家族を失った日のことを」
「コジュンを永遠に愛する、って彫ってあるんだよ」
イルベルは静かに涙を拭った。
ノッティンも、カイツも、遠くの海を睨むように見つめている。
ルヴェンは言葉も出なかった。
今まで出会ったどの大人よりも、彼らは荒っぽくて、乱暴で、でも――
心の底には深い痛みを抱えている。
ジルウスはふっと笑った。
「まぁ、そんなワケでよ。俺たちは『今はまだ』ただの『海の男達』だ。
坊主、お前も背負ってきたもんがあるんだろ?
だったらここにいる間だけでも、好きに泣いて、好きに笑え。
それでいい」
ルヴェンは胸が熱くなり、そっと拳を握った。
「……はい。ありがとうございます」
ジルウスは酒瓶を高々と掲げた。
「よし! 夜は長ぇぞ! 坊主の復活祝いだ!」
「ジル、飲ませすぎないでね?」
イルベルが苦笑して酒瓶を取り上げる。
「親方ぁ! 今日こそ飲み比べ勝ちやすよ!」
「ノッティン、てめぇまた“親方”って言ったな!」
一気に賑やかになる船上。
笑い声、波の音、ランタンの灯り。
ルヴェンはその光景を見ながら、胸の奥に温かい炎がともるのを感じていた。
――ここで出会った海の男達は、強い。
そして優しい。
彼は静かに夜空を見上げた。
別れた友の言葉が、そっと心に浮かぶ。
『俺たちはずっと一緒』
大きな海の上で、ルヴェンは一人じゃない。
そう思えたのだった。




