第二十九小節 ~決意の夜に~
数時間が経過した深夜。
ビルデン城は昼の喧騒から完全に解き放たれ、石造りの廊下は冷気に満たされていた。
どこか遠くで松明が弾ける乾いた音がするだけで、世界が眠りの底へ沈み込んでいく静けさが支配していた。
その奥、王族専用区画にある国王の寝室。
ぬいぐるみが山のように積まれ、絵本や木製のおもちゃが無造作に転がる、子供らしい生活感にあふれた空間。
その中心で――幼き王アルフェルストが、小さな胸を規則正しく上下させながら眠っていた。
エーウディアはその枕元に膝をつき、王の小さな手をそっと両手で包み込んだ。
老いた指が触れた瞬間、胸の奥に冷たい痛みが広がる。
「陛下……こんな時間に申し訳ございません。どうかそのまま、爺の独り言を聞いて頂きたい」
騎士団長エーウディア。
国中の誰もが畏敬する鋼鉄の英雄。
その背中が、今はひどく小さく、心細い老人のように見えた。
「私は、貴方のためならばこの命、いつでも投げ出す覚悟です。それほどまでに……貴方を愛しております。ですが……」
言葉が喉に詰まり、肩が震えた。
「ですが私は、自分の子供たちに、これほどの愛情を注いだことがありません……」
顔を覆った両手の隙間から、落ちた涙が床に音もなく染みを作る。
「私は……騎士団長でありながら、父であることから逃げ続けてきたのです。セイセルが足を失っても……ルヴェンが異端者になったと聞いても……私はただ、『国の掟だから』と自分に言い訳して……何もしてやれない最低の父親です」
その声はかすれていた。
「せめて、一度ぐらい……『愛している』と……優しく声をかけてやりたかった……」
エーウディアは眠る主君にすがりつき、嗚咽を漏らした。
幼い王の無邪気な寝顔だけが、老いた獅子の苦悩を静かに受け止めていた。
――そのころ。
地下牢獄へ続く石階段。
湿った空気が肌にまとわりつき、腐臭が鼻を刺す。暗闇の中で、突如として轟音が響き渡った。
木が石に激しくぶつかる音が響く。
「くっ……! こんなところで……!」
階段の踊り場に、セイセルが倒れ込んでいた。
右脚の義足をうまく扱えず、段を踏み外したのだ。
彼は半身を起こすと、憎悪にも似た表情で義足を乱暴に引き抜いた。
「こんな……こんな物で戦えるかッ!!」
木製義足を石壁に叩きつける。
乾いた音とともに木片が飛び散り、そのまま階段下へ転がり落ちていった。
胸の奥には、怒り、悔しさ、無力感――それら全てが渦巻いていた。
彼は手にしていた細身の剣を抜き、狂ったように石段へ叩きつける。
何度も、何度も……。
まるで音叉と金属を力任せに打ち合わるが如きの音が耳を劈く。
火花が散り、刃が欠ける。それでもやめない。
刃が折れようと、腕が震えようと、彼の心は止まらなかった。
「くそッ! 私は……私はルヴェンを! 私は……!」
荒い息を吐きながら天井を睨む。
その瞬間――
ふっと、何かが心の奥で凍りついた。
呼吸が徐々に整い、瞳の奥で冷たい光が宿る。それはかつて「白銀狼」と恐れられた男の眼差しだった。戦場で、敵を屠るためだけに研ぎ澄まされた、冷徹で残忍な光。
「私が……ルヴェンを……」
右膝の傷が開き、血が石段を濡らしていく。意識が揺らぐ。
それでも、彼はかすかに笑った。
その声はもはや誰にも届かない。
彼は修羅の道へと踏み込む覚悟を固めていた。
――同じ夜。
ビルデン国営墓地。
満天の星が、静まり返った草原を淡く照らしている。
歴代の英雄たちが眠るその一角、真新しい墓石の前に、ひとりの少年が立っていた。
オルス。
その胸には、どうしようもない焦燥が渦巻いていた。
墓石に刻まれた名――
レグレント=マーク=ゼディアーク。
彼の父であり、『ビルデンの一番槍』と称えられた男。
冷たい夜風が、オルスの頬を切るように吹きつける。
少年は墓石に額を押し当て、震える声で呟いた。
「父上……俺、決めたよ」
土を濡らす涙がぽつりと落ちる。
「俺さ……ゼディアーク家に産まれたのに……誇れるようなこと、何もしてこなかったけど……ごめんな。ちょっとだけ、行ってくるよ。アイツを助けに……」
喉がつまる。
息が痛いほど苦しい。
「もう……戻ってこられないかもしれない。ここに帰って来られなくて、この墓にも……入れねぇかもしれないけど……」
握った拳が震えた。
「それでも……行く。俺の相棒を……ルヴェンを取り戻すのは、俺だ。じゃあな……『親父』」
少年から大人へ。
その境界線を越える決意の涙だった。
夜は深まり――
城下のどこかで、ロインの歌が風に乗って響く。
「見えぬ明日、消える過去、
彼の持つ、戒めの印は
彼から何を奪い、そして何を与えるのか……
そして彼の運命を繋ぐ者たちは……
いかなる選択を刻むのか……」
運命の夜が、静かに明けようとしていた。




