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第二十六小節 ~Bloody Blackmoon~(時の回廊)


 ロインが古びた大きな扉にそっと触れると、金属の蝶番が低く呻き、ゆっくりと開いた。


 瞬間、腐った鉄を思わせる生暖かい風が押し寄せ、彼のローブをかすかに揺らす。

 鼻をつく鉄錆の匂いは、ただ血が流れたというだけではない。

 長い時間、幾度となく繰り返されてきた暴力と死が染み付いた、土地そのものの匂いだった。


 遠くで野犬の遠吠えが木霊し、夜風に乗って粗野な笑い声が運ばれてくる。


 酒と薬と悪意の混ざった濁った笑い。

 どこかで人が蹴飛ばされるような鈍い音も響いたが、この土地ではそれらすべてが、あまりにありふれた夜の気配に過ぎなかった。


 眼下に広がる村は、鉱山の麓にしがみつくようにして存在していた。

 家々は煤け、壁はどれも崩れそうで、窓にはひびが走り、通りを照らす灯りもほとんどない。

 星々だけが異様なほど輝き、まるでこの世界の現実から浮いてしまっているかのようだった。


 だが、空に月はない。新月の夜――闇だけが支配する夜だった。


 ロインは軽く息をつくと、その村外れにある小さな宿に視線を向ける。宿と呼ぶにはボロすぎる建物は、赤黒い影を落としながら、呻き声のような木の軋みを夜空へ吐き続けていた。


 そして、その一室――扉の向こう側は、すでに静寂によって支配されていた。


「ハァ……ハァ……ッ」


 荒く切り裂くような呼吸だけが、部屋の空気を震わせていた。ランタンの揺らめく灯火が、血に濡れた床を照らし出し、赤黒い影が壁に踊る。


 ほんの数分前までここで交わされていた喧騒は、今や跡形もない。


 床には数人の男たちが倒れていた。

 怒号も絶叫も、もはや響かない。

 ただ体温の失われつつある肉塊だけが、部屋を埋めている。鮮血は乾く暇もなく床を染め、壁には飛び散った血飛沫が花のようにこびりついている。


 その中央に、ひとりの青年が立ち尽くしていた。


 燃え上がる炎のような赤い短髪。

 身長は180cmを超えるだろうか。鍛え上げた肉体が衣服の下からでもはっきりと分かるほど盛り上がっていたが、顔立ちにはどこかあどけなさが残り、せいぜい十八、十九といったところだった。


 その若さと、足元に転がる死体の数との落差が、異様な静けさをより強調する。


 彼の右手には、革製の使い込んだグローブをしており、身の丈に迫るほど巨大な大剣が握られていた。

 その刃先からは血が滴り続け、ポタ……ポタ……と、一定のリズムで床に染みを増やしていく。


 青年の腕は強張り、呼吸は乱れ、瞳は焦点を結ばない。極限まで高ぶった興奮が、まだ身体から抜けきらないままだった。


 どれほど時間が経っただろう。

 

 風も息を潜めたような静寂の中で、彼の肩が小さく震え――その黒い瞳に、ようやく理性の光が戻った。


「はっ!! ……まさか、こんな時にあの日のことを思い出すなんて。ツイてねーぜ」


 舌打ち混じりの悪態をつきながら、こびりついた返り血を腕で雑に拭う。


 だが、頬に新たな赤い筋が生まれるだけで、清潔になることはない。


 青年は舌打ちしつつも、それ以上は気に留めなかった。


 彼は足元の男の死体に近づき、ポケットを無造作に探る。その手つきは冷徹で、迷いも罪悪感もなかった。取り出したのは、ひとつの小さな鍵。


「コレで……アイツを止めれる……やっと」


 呟きは低く、震えていた。

 怒りか、焦燥か、それとも恐怖か――青年の胸中は混沌としているように見えた。


 部屋の隅には、妙に重々しい縦長の木箱が置かれていた。


 部屋の惨状とは不釣り合いなほど頑丈で、細工の細かい金属板で補強された箱。


 鍵穴に鍵を差し込むと、金属同士が擦れる冷たい音が部屋に響いた。


 蓋を開けると、そこには剣というより鉄の塊と言った方がふさわしい巨大な大剣が鎮座していた。


 刃渡りは170cmを優に超える。鍔元には複数の竜を象った装飾が施されているが、どれも剣や槍で串刺しにされ、血を流し、苦悶に顔を歪めている。

 

 芸術性よりも、見る者に忌避と恐怖を与えるためだけに作られたような意匠だった。


 青年はその「竜殺し」の大剣を背負い、壁に掛けられていた紅いマントを掴んで肩に羽織る。

 さらに、棚の隅に丸めて置いてあった蒼いマフラーを巻きつけると、血と汗にまみれた身体を隠すように襟元をいじった。


 部屋を出る瞬間、彼は一度だけ振り返る。だがその表情には後悔も迷いもなく、ただ冷たい闘志だけが宿っていた。


 廊下には、他の部屋から乱痴気騒ぎの喧騒が響いていた。笑い声、怒号、ガラスの割れる音。だが青年は一切気にすることなく歩き続ける。

 まるでそれらすべてが、自分とは無関係な世界の出来事のように。


 暫く村を歩き、喧騒から離れた高台へと続く道。

 乾燥した風土特有の虫達の演奏を聴きながら彼は歩く。


 ……聴こえていたのだろうか?



「……す」

「……す」

 

 『何か』を何度も何度も呟きながら彼は歩く、虫の声も、満天の星空も彼の耳や瞳には入っていない。


 ……そして古びた教会に辿り着いた。


 村の外れにある教会は、かつて祈りの場として人々に愛された場所だった。


 しかし今では窓ガラスは割れ、壁には落書きやひび割れが走り、扉には立入禁止の札が何枚も貼られたまま放置されている。


 朽ちた十字架が今にも倒れそうに傾き、その全てが、この場所が死と絶望の象徴へと変わり果てたことを示していた。


 だが、その廃墟の奥には、かすかな灯りが揺れていた。誰かがいる。誰かが、『彼』を待っている。


 青年は扉の前に立ち、深く息を吸う。心臓が暴れ馬のように胸を叩いているのを、マントの下から右手で抑えた。


 指先が触れたのは、粗末な革紐――そこに括られたナイフ状の石と、不揃いな牙のネックレス。決して高価でも、美しいものでもない。


「『俺達はずっと一緒』……だよな?……」


 祈るように呟き、青年は拳を握り直す。


 そして――


 コン、コン、コン、コン、コン。


 五回。ためらいのない、だがどこか儀式めいた叩き方だった。合図であり、挑戦であり、誓いのようでもあった。


 暗闇の中で、青年の瞳孔は完全に開ききっている。


 黒く、深く、光を吸い込むように――まるで夜空に浮かぶ「漆黒の満月」。




 その光景を、ハーモニカを吹きながら眺めていたロインは、静かに扉を閉じた。扉の木の感触が彼の掌に伝わる頃には、すでに映像は断ち切られ、再び「時の回廊」の虚無だけが広がっていた。


「さぁ、そろそろ彼が目覚める頃だよ。元の時間へ戻りましょう」


 ロインは最初にくぐった扉へ歩み寄る。

 取っ手に触れると、向こう側から湿った空気と、黴の染みついた匂いがゆっくりと漏れ出してきた。

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