第二十五小節 ~Bluemoon Blues~(時の回廊)
「うわぁあああ!!!」
漆黒の闇に包まれた船室が、一瞬で震えた。
胸の奥から絞り出されたその叫びは、恐怖と混乱に満ちているのに、耳に残るほど澄み切ったテノールだった。
視界は闇。
ただひとつ、壁の小さな円窓から差し込む蒼白い月の光だけが、床を淡く照らしていた。
揺れる光は、荒れた海に投げ込まれたランプのように不規則で、部屋はより一層不気味に静まり返っている。
ドンッと鈍い衝撃音。
誰かが寝返りを打ち、船室の壁を蹴った音が響いた。
「うっせーなロウェル……。船旅で疲れてるんだから、早く寝ろ……明日は大きな仕事……」
幼い文句は、言い切る前に途切れ、そのまま深い寝息に変わる。
暗がりの隣のベッドで丸くなって眠っているのは、まだ十代後半の少年。
彼の寝息は静かで、波音に混じってほとんど聞こえない。
「わかってるよ、フィル……。ただ、少し悪い夢を見ただけだ。起こしてすまな……って、もう寝てるか」
男は、苦笑を含んだ小さな声で呟いた。
その声は中低音を保ちつつ、とても澄んでいる。
彼は息を落ち着かせるように胸に手を当てると、深くひとつ吐息をこぼす。
衣擦れの音。
革靴が床板を叩く乾いた音。
やがて木の扉の軋む音がして、冷たい潮風が船室に流れ込んできた。
海の匂い。
満月の光。
静かな波の音。
男は外に一歩踏み出した。
――そこは満天の夜の海原だった。
十人も乗ればいっぱいになりそうな小さな帆船が、頼りなく揺れながらも、月光を反射する水面を滑っていく。
闇と光の境界で、船体の影が揺れ、海の上にぼんやりと浮かび上がる。
月明かりを受けたロウェルと呼ばれた男の輪郭が、淡く輝いていた。
身長は170cm前後。
長い金髪は夜風に揺れ、腰まで流れる。
首筋で緩く束ねていても、額から頬を覆う長い前髪は隠しきれず、顔立ちの半分を影に落としていた。
一見して女性と見紛うほど華奢で整った姿。
だが、纏う雰囲気はどこか危うく、近寄りがたい静かな強さがある。
夜の闇に溶け込む漆黒の長いマント。
そして――異質な左手。
拳を覆う古びた革のグローブ。
その薬指にだけ、場違いなほど新しい銀のリングが光っていた。
ロウェルは、ゆっくりと甲板の柵に近づいた。
肘を乗せ、波間を見下ろし、吐息をひとつ吐く。
「帰ってきた……んだな」
言葉は波に攫われ、すぐに闇へ溶ける。
胸元に手を伸ばし、シャツの下からネックレスを取り出した。
それは粗末な革紐に、原始的なナイフ型の石と、狼の牙らしきものが二本、不格好に括りつけられただけのもの。
美しい装飾とは程遠い。
しかし、彼の指先はそれを慈しむように撫でた。
「『俺たちは、ずっと一緒』……か」
どこか懐かしい、温かな声。
その声を思い出すたびに胸が締め付けられ、息が苦しくなる。
ロウェルは喉の奥で小さな笑いを零した。
それは安堵にも、哀しみにも聞こえた。
月を見上げる。
白く、まるで水面に溶ける真珠のような満月が空に浮かんでいる。
風が前髪を割り、隠されていたコバルトブルーの瞳が姿を現す。
その瞳は、どこか遠くを見つめるように揺れていた。
――痛みを堪えるように。
――誰かを想うように。
――もう戻らない時間を抱き締めるように。
「……う様……」
名を呼んだその声は、船が波を砕く音にかき消される。
だがその一言に、どれほどの想いが詰まっていたか、月だけは知っているように見えた。
ロウェルの視線が、ふと左手のリングに落ちる。
指輪に触れた瞬間、表情が細かく揺れた。
迷い。
後悔。
哀しみ。
そして――たったひとつ、消えない願い。
言葉にはならない願いが胸の奥で渦を巻き、喉元までせり上がる。
夜空を見上げた彼のコバルトブルーの瞳に映る優しい満月は、蒼く、切なく揺らめいていた。
――フッと映写機が止まったように、景色が暗転した。
船も、海も、月光も、一瞬で闇に飲まれる。
ロインが扉を閉じたのだ。
再び、虚無の「時の回廊」が広がる。
星のように散らばる無数の扉が、ロインの影を淡く照らす。
「……さて。次はかの時間に向かいましょう」
ロインは迷いなく、隣の扉へ歩き出した。
風も音もない空間で、その足音だけが静かに響く。
夜の海の記憶を閉ざした扉が、ゆっくりと闇に溶けていった。




