第二十四小節 ~Dreamer's Dreams~(時の回廊)
……光ひとつ届かぬ闇の空間。
それは闇というより、色そのものが存在しない“虚”だった。
上下も前後も曖昧で、時間が流れているのかすら判別できない。
足場もないのに、落ちていく感覚もない。
ただ、空気に似た“何か”が身体の輪郭をゆるやかに包み込み、存在を辛うじてこの場所に繋ぎとめている。
そこは虚無であり、永遠の場所。
その完璧な闇に、唐突に波紋が走った。
音なき振動が広がり、それに呼応するように無数の木製の扉が、ぽつ、ぽつ、と星のように灯りはじめる。
歪んだ遠近感の中、幾千、幾万――無限と錯覚するほどの扉が浮かび、闇を彩った。
古びた蝶番、豪奢な金細工、風化した鉄枠、つぎはぎの板張りの扉。それらはすべて別々の時を背負い、別々の物語へと通じているようだった。
やがて、宇宙の片隅で星が生まれるように、ひとつの扉が重い音を立てて開いた。
薄明かりの向こうから姿を現したのは、褐色の煤でくすんだローブを羽織る長身の男だった。
深く被ったフードの隙間から、手入れされぬまま伸びた銀髪がこぼれ落ちる。その髪ひと房ひと房にまで、果てしない旅路の埃が積もっていた。
闇よりも暗いこの空間にあって、男――ロインと扉だけは、まるで舞台の上に立つ役者のように、柔らかい光を浴びているように見えた。
ロインは、ローブの裾から小さなリュートを取り出すと、ポロン、と弦を爪弾いた。
その一音が空間に落ちた瞬間、闇がほんのわずかに揺れた。音によって世界の輪郭が描き直されるような、不思議な感覚。
「私はロイン、時空の旅人。此処は幾つもの時が交わる『時の回廊』」
声は澄んでいたが、どこか遠くで風が吹くような響きがあった。
人ではない何かが言葉に溶け込んでいるような、そんな違和感すら心地よい。
「先程まで私が見ていた少年は、暫しの間、夢を見ることになる。
いや、夢ではない。瞳は開いているが何も見えず、何も聞こえず……そして、何も感じず……」
ロインは指を止め、音を静かに零したまま、胸元の内袋から一冊の楽譜を取り出した。
それは預言書のようでもあり、まるで『運命そのもの』を写し取った紙片のようにも見えた。
「さて、今までの小節の出来事は、人々にとっては悪夢であってほしい出来事……
この出来事を悪夢として見る者達……」
ロインは紙面を指でなぞり、ページをめくる。
羊皮紙が擦れるわずかな音が、広大な虚無を満たし、静かに消えていく。
そして、彼は唄い始めた。
声は朗々と、しかし囁きよりも静かに響き、時の回廊全体へと浸透していく。
「夢を追いかけ、悪夢に追われ、
運命と信じつつ、走り続ける者。
愛とは何? 友情とは何?
人は誰のために生き、誰のために死ぬのだろう」
詩はそのまま問いとなって闇へ散り、次第に扉と扉の間に淡い波紋を作り出した。
その揺らぎを追いながら、ロインは上空遥か彼方――星とも点ともつかぬ位置に浮かぶ扉を見上げる。そして次に、斜め左下の扉へ視線を落とした。
その時だった。
正面の扉が微かに開き、そこから光をまとった一羽のウミネコが飛び込んできた。
真珠のような白い羽がふわりと散り、光の粒が雪のように舞い降りる。
ウミネコはロインの肩にとまり、頬ずりをするように小さく鳴いた。
「やぁ、コジュン=ハルバート。『先程』は魔王討伐お疲れ様」
ロインはウミネコの頭を優しく撫でる。
「だが、君が私の一部になるにはもう少し時間がある、それまでは君を待っている人のところに行っておやり……。私と共にいたら、君は時間を忘れてしまう。」
ウミネコは一声鳴くと、ロインの指先が示した、星の瞬きほど小さく見える扉へと向かった。
その扉が開くと、中はあたたかい光で満たされていた。
ウミネコは迷いなく飛び込み、扉は静かに閉じた。
残響のように光の粒子が漂う。
「さて、私も……行きましょうか」
ロインはリュートを背に収め、少し思案したのち、視線を斜め下の扉へ向けた。
ノブを握る指先は迷いなく、しかしどこか慈しむように優しかった。
扉を開くと、そこには潮風の香りが広がった。
静かな波音と、真珠のように輝く満月の光。
夜気はひんやりとして穏やかで、この虚無とは対照的な“生の気配”が満ちていた。
ロインの銀髪が潮風に揺れる。
その様は、長き旅の途中で一瞬だけ訪れた“安息”のようでもあった。
彼は足を踏み入れ、扉は静かに閉じる。




