第二十三小節 ~The LEFT HANDS(中)~
現れたのは、小柄な――だが、ただの老人とは到底思えない存在だった。
ビルデン王国最高魔術師にして竜研究の権威。
古の竜書を誰より深く理解し、数百に及ぶ竜の剖析記録を残した狂気の学者。
その名は、マルコフ=アルム。
齢八十を越え、背は丸まり、外見だけ見れば街角の頑固じいさんにしか見えない。
だが、腰まで伸びた顎髭、薬草と化学薬品と鉱石の臭いが混じったような刺激的な香り、そして焦げ茶色の瞳の奥に宿る異様な光――そのどれもが “人外の知” を纏っていた。
「陛下、お久しゅうございますじゃ。団長殿も相変わらず元気そうで」
恭しい礼は堂に入っているが、どこか芝居がかった軽さがある。
「ふえぇ……臭い……また変な薬品こねくり回してた臭だぁ……」
アルフェルストが鼻を押さえて涙目でうめいた。
「マルコフ殿、どういうつもりかな? この状況で……なぜ結界を解いた?」
エーウディアの声は低く、怒気よりも“尋常ではない”空気を読み取った焦燥が混じっていた。
「まあまあ、団長殿。そんな怖い顔せんで下され」
マルコフは手をひらひらと振り、深刻さの欠片もない声で続けた。
「今あそこにおる彼――黒竜様と融合してしまった若者、ルヴェン殿じゃがな。あの状態、完全に暴走中なのですじゃ。闘気でも魔力でも、刺激を感じれば、何でもかんでも敵と認識して襲い掛かるじゃろう」
彼の指先が、避難所の端でうずくまる“影”を示した。
黒い闘気は砂利を浮かせ、周囲の空気を軋ませ、黒い稲妻のような魔力を散らしている。
その中心に立つルヴェンは、生者と災厄の境界線に立つ“巨大な影”にしか見えなかった。
「そこでじゃ。これを使う!」
マルコフは懐から、ぼろぼろに黄ばんだ札を取り出した。
古代竜語の術式が刻まれた札は、手にした瞬間、空気を震わせる重圧を放った。
その場にいた騎士数名が反射的に一歩下がるほどの威圧感。
「この魔符は竜力封印の術式。これを装備出来る物に貼り付け、ソレを暴走の核となっとる竜の闘気の源、あの黒い霧蠢く左手に嵌め込めば暴走を押さえ込めるはずじゃ!」
空気がざわつく。
だがオルスは一歩、前に出た。
「そ、それなら……俺のグローブを使ってくれ!」
震える声。
だが、差し出した赤い革のグローブには、確かな覚悟が宿っていた。
騎士に憧れ、仲間を守れる自分でいたいと願って買った、大切な相棒。
「おお、これは……! サイズも素材も文句なしじゃ!」
マルコフが術符をグローブに貼り付けると、光の陣が走り、札はすう、と革の中へと溶け込んだ。
「さて問題は、誰が彼の元へ行くか――だな」
副団長マスカルのその一言で、場の空気が凍りついた。
誰もが理解している。
あの黒竜の暴走に近づくということが、どういう意味を持つかを。
ーー死ぬ。
それ以外の帰結が想像できない。
重苦しい沈黙の中、静かに声が上がった。
「私が行きます」
右足を引きずるセイセルだった。
「セイ兄ぃ、ダメだ! 足が……!」
「オルス……お前が行けば――どうなるか……」
「いや、今度は俺が守る番だ!」
オルスの叫びは震え、掠れていたが、魂ごと燃やすような強さがあった。
「兄ぃの足は……俺のせいだ。これ以上、アンタを傷つけさせられねぇ!」
セイセルは痛みに顔を歪めながらも、静かに頷いた。
「……頼む。オルス」
グローブを握り締め、オルスはルヴェンのもとへ歩き出す。
ビルデンの希望と、仲間の命と、友との未来。
その全部を背に乗せて。
「ルヴェン……今助けてやる……!」
だが、一歩。
――その一歩が、出ない。
足が鉛のように重い。
呼吸は浅く、喉は砂を飲んだように乾く。
心臓の音は、爆発してしまいそうなほど早く、耳の奥で鳴り響いていた。
恐怖。
それは自分が思っていたよりもずっと、根深いところに張り付いていた。
(だ……だめだ……動けねぇ……!)
視界の端で黒い闘気がうねるたび、皮膚が裂けるように痛い。
『友の姿をした災厄』。
頭では理解しても、心は抗えなかった。
その瞬間――
ドンッと背中に衝撃が走る。
そして、手からグローブがふっと消えた。
「オル兄様ー、私が行きますねー!」
鈴の音のような、いつも通りの明るい声。
「コ、コリアちゃん!? ダメだ!!」
止める間もなく、コリアはまっすぐルヴェンへ駆け出していた。
その背は小さく、華奢で、なのに――
誰よりも、強かった。
「私、怖くないです! だって……ルヴェン兄様を信じてますから!」
天使の様な無垢な笑顔。
それは、この場にいる誰よりも勇敢で、美しかった。
そして、コリアはルヴェンの左手に勢いよくグローブを嵌めると、震える自分の胸元をぎゅっと掴み、涙声で叫んだ。
「兄様! 元の優しい兄様に戻ってください! コリアですよ!」
風が止まる。
黒い闘気が、一瞬だけすうっと引く。
「……あ……? コ……りあ……?」
ルヴェンの瞳に、かすかに青が戻った。
その指先も、震えながらも形を保とうとしていた。
「みなさん! できました! ルヴェン兄様が……戻り……!」
振り返りながら希望に満ちたコリアの顔。
だが――
その視線の先にいた人々は、誰一人として喜びの表情を浮かべていなかった。
震える瞳。
蒼白の顔。
息さえ呑む音のしない、絶望の静寂。
「え……?」
困惑するコリアの耳へ――
「コリアちゃん!! 後ろだァァァ!!」
オルスの絶叫が、悲鳴のように突き刺さった。
ゆっくりと、コリアが兄に顔を向ける。
そこにあったのは――
兄の瞳ではなかった。
漆黒の鱗に覆われた、巨大な竜の腕。
その振り上げられた左手の掌だけが、彼女の瞳に映っていた……。
「コリアちゃああああああん!!」
オルスの絶叫は、虚しく空へと消えた。




